里見雄吉氏(源蔵)作

義父との秘密

 

小説版を掲載するにあたって

        里見雄吉

 

 この作品は実際の体験をもとにした「自叙伝・開拓地にて」とは異なり、完全な創作である。初出は十年程前、某ふけ専サイトに、「源蔵」のペンネームで体験談と偽って投稿したものである。虚偽の投稿をした点については弁明の余地もなく、ただただ平に謝罪するのみ。それぞれのペンネーム宛にファンメールをくださった方々もいたので、忸怩たる思いである。

 ところで、しばらく休載していた「開拓地にて」の連載を再開するにあたり、「里見雄吉」が「源蔵」であり、はたまた別サイトの投稿に使用したペンネーム、「作治」「吉三郎」でもあることを告白せざるを得ない諸事情が生じた。このあたりの事情については、「開拓地にて」の第五部を読んでいただくとして、今回、「源蔵」名義で発表した作品を、改めて加筆改稿し、この「ノベルス三太」に掲載しようと思う。

 正直、自叙伝の執筆に少し疲れてきた頃でもあったので、自由に書くことのできる小説なら、もっと気楽に書き綴れるのではないかと考えるようになったのも理由のひとつだった。真実でなければならないという重圧から解放され、書くことの楽しさという、原点に立ち戻りたくなったのだ。

 その第一弾が、この「義父との秘密」という作品である。二人称で書かれており、主人公は「私」となっている。主人公の告白という形態こそとっているが、これは投稿時に体験談として発表したためで、実際は完全な創作である。しかし、当時の時代感、農村の描写、田舎の伝統的な暮らしなどの背景、婿さんとの関係性、セックスの描写などは、私の体験というフィルターを通すことで、かなりリアルに仕上がったと自負している。自叙伝とは違い、完全なフィクションとして楽しんでいただければ幸いである。

 なお、この作品は今から十年ほど前に書いたものなので、年齢等は、十年前のままとなっていることを踏まえて読まれたい。

 

 

 

義父との秘密

        源蔵

 

一、義父となる男

 

 私(仮に源蔵とでもしておこうか)は、現在六十*歳。還暦はとうに過ぎ、古希も間近に迫った昨今だが、まだまだ元気である。週に数回はせんずりで、時には発展場で出会った男とのアナルセックスで、ずる剥けの亀頭から、まっ白な精液を勢いよく放つ体力も残っている。

 ホモに生まれついたことに後悔はない。むしろ、人間の自然な欲求である性欲を思う存分満足させ、数多くの淫乱な性行為を体験できたのも、男に欲情するという性癖あってのことだったろうと、ホモであることに感謝さえ感じてきた。

 第一、ホモとして生まれなければ、三十年以上、同じ屋根の下で暮らした、義父(妻の父)との出逢いもなかった。義父は精力の強い人だったが、私はといえば、どうだろう? 十年後、十五年後も、義父のような精力を保ち続けることができるだろうか。そのことを考えると不安を感ずることもある。性の喜びを満喫できないホモなどホモではない。その点、同居していた義父は死ぬまで、性に関して貪欲な人であった。

「自分も義父のように生きたい。」

 そう願ってきたつもりだが、実際にはそうはできなかった。できなかったのは当然である。なぜなら、私と義父の関係は特別なものであったのだから。

 実は、今は亡き義父と私は三十年以上に渡って男同士の秘密の関係にあった。とはいっても、結婚後、一緒に入浴した際に目と目が通じ合い・・・などというホモ雑誌によくあるような浮いた話ではない。もっと生々しく、ある意味、許されない事情により、私と義父は同居することになったのだ。早い話、義父は、冬季、出稼ぎに出た東京の発展場で二十*歳の私と知り合った。そして、自分の本理想の男(つまり私)を、当時として売れ残りともいえた二十五歳の長女と結婚させたのである。

 北国の寒村に農家の七男坊として生まれ、中学を卒業すると同時に、ほとんど口減らしのように集団就職で上京した私である。既に両親は死亡し、兄夫婦の代になっていたから、親族が反対するはずもない。婿養子の話は簡単に決まった。男前の義父と違い、妻は私が婿入りする以前に亡くなっていた義母に似たらしく、器量が良いとはとてもいえなかったが、そんなことは関係なかった。好きだった義父と暮らせるのである。私にとって、これ以上の喜びはない。

 当時、義父は五十*歳。ふけ専ホモであった当時の私にとっては、まさに男盛りであったといえる。苦味走った良い男であった義父は、男好きだけでなく、近所の主婦からも人気があった。しかし、所詮、義父は女には興味がもてない悲しい性を背負っていた。義父の妻、つまり生きていれば私の義母になった人は、生前、酒も博打も女もやらないまじめな人と思っていたようだと義父は言っていたが、もしも真実を知ったら、恐らく衝撃で卒倒していたことであろう。

 

 私の婿入り先であり、第ニの故郷ともいえる山村は**県S村のT山の麓にある。村の中心地であるM地区からは車で三十分。秘境として名高い、A地区に程近い所に位置する。江戸時代から親戚関係の多い間柄で、行き来も盛んだった。

 しかし、私の住む村とA地区は険しい山を隔てており、昭和の末頃まで車道が通じていなかった。昭和から平成に変わる頃に、T山の峰を貫き、A地区からG集落に抜けるトンネルがようやく開通して、交通の便はかなり改善された。しかし、昭和五十年代には、冬でも自動車の入れるようになったA地区と違い、二十一世紀になっても、冬になると、村によって集落に一台配置された雪上車か、徒歩でしか集落に入ることができなかった。さすがに、今は冬季も自動車が入れるようになったが、それでも、冬季、大雪の際には、道路が不通になることも日常茶飯事である。

 そもそも隣接するA地区自体が、N川の峡谷沿いに、細く曲がりくねった道を延々くだり、隣県のT町のO地区に出てからでないと、村の中心地に入れない隔絶山村なのである。**県とは名ばかりで、地形的にも、経済、文化的にも隣県と深いかかわりを持つ地域であり、その昔、平家の落ち武者が源氏の追討を逃れて秘かに隠れ住んだという伝説をもつ。

 A地区の中でも、N川の最上流に位置するK、Y、U、W、K、この五集落は、特に不便な地域であるが、義父は、そのUという集落の貧しい農家の四男として大正十*年に生まれた。生産力の低いA地区では、次男、三男に耕させる土地はない。都会に出て働くか、跡取り息子のいない農家に婿に入るかである。

 戦後、戦地から復員したばかりであった義父は、隣接市町村のH地区に婿養子に入る道を選んだ。今でも山奥のH地区だが、当時はちょっと山に入ると広大なブナ林が残っており、義父は、農業の傍ら営林署で働き、ブナ林の伐採に携わった。加えて家父長制の因習が根強く残る時代、婿養子という弱い立場もある。当時の義父には、人知れぬ苦労があったらしいが、私は知らない。義父もあまり話したがらなかった。半分、労働力として雇われたような暮らしだったと妻が話してくれたことがある。

 義父は自分が婿養子としてした苦労を私に押しつけたりはしなかった。もっとも、それは、私と義父が特別な関係にあったからかもしれない。

 私が婿入りしたのは、昭和四十八年の春。高度経済成長の時代を経て、日本の農村が大きな変貌を遂げていた時期だったが、山奥の集落には、まだ昔ながらの生活が根強く残っていた。

 当時、H地区の戸数は十四戸、五十人ほどの集落だった。高度経済成長の時代、すでにどの地方でも過疎化が顕著になっており、私が婿入りするまでの数年間で五戸が転出したと義父が語っていたのを覚えている。

 淫乱でセックスに貪欲、しかも、男しか愛せないという誰にもいえない秘密を必死で隠し、平凡な田舎親父という仮面をかぶって、義父は情報から隔絶した山村で生きてきた。親の奨めのままに隣村の農家の婿養子となり、三人の娘の父親となった。そして、春から秋までは、わずかな田畑を耕す傍ら、営林署で間伐や植林の日雇い仕事をし、冬になると東京方面に出稼ぎに出て娘を育てあげた。

 地区では消防団の団員を二十五年以上も務め、農業委員、区長等を歴任し、集落の顔役であるとともに人格者としても認められていた。外見も内面も、まさに男の中の男として村人に認められていた義父・・・。しかし、ひとたび男とのセックスとなれば、淫乱な一介のウケに豹変した・・・。それを知っていたのは、妻でもなければ娘でもない。同居していた娘婿の私だけだった。

 

 

二、義父との帰省

 

 義父は眉が太く、目鼻立ちもはっきりしていた。しかも、顎ががっちりしており、まずは男前といえる風貌と言ってよかった。畑仕事や山仕事で鍛えた胸や、腕、太ももは筋肉が固く盛り上がり、節くれだった労働者の手をしていた。胸毛こそないが体毛の濃い男らしい身体つきで、特に髭とすね毛の濃さは驚くほどだった。いつも清潔に剃っていたが、髭の剃り跡は青々とし、早朝に髭を剃っても、昼頃にはキスする私が頬がチクチク痛い程の伸びの良さだった。太く濃いすね毛が太ももから足首にかけて黒々と渦巻いていた。

 また、義父は日頃から越中褌を常用していた。しかし、この年代の男とはいえ、それはかなり珍しい部類に入るだろう。私はそんな義父の褌姿が好きだった。たくましい肉体に濃い脛毛。股間を隠す真っ白い越中褌。そしてその褌を突き上げ、天を向いて隆々とそびえ立つ、ズル剥けの陰茎。そんな姿を見るだけで、私は義父の肉体に欲情し私の陰茎はカチカチになった。

 義父と同居するようになり、数ヶ月経ったある日のことである。

「俺も、今度から褌にする。」

 私はかねてから心に思い描いていたことを、思い切って妻に告げた。妻の返事は一言、

「そう。じゃ、お父さんのを作る時、一緒に縫ってあげる。」

 たったそれだけであった。こうして私も越中褌常用となった。梅雨時など、雨が何日も続いた後、久しぶりに晴れた日には、物干し竿に数十枚の越中褌が風にたなびく光景は、正に圧巻であった。日々の肉体労働のため、汗が染みついた二人の越中褌は、洗っても洗っても純白にはほど遠く、いつもかすかに薄汚れていた。

 

 東京に出稼ぎに来ていた義父と、今は無き東京の某淫乱旅館で出会ったのは、昭和四十五年十ニ月、木枯らしの吹く寒い日であった。当時、義父は四十八歳。お互い目と目が合い、その場で意気投合し肛門性交に及んだ。私にとって何十人目の男だっただろうか。しかし、それまでに肌を重ねたどの男より、義父は好みのタイプだった。それは義父も同じだったらしい。ねっとりとした肛門性交で交合した後、朝まで一緒に過ごし、その日は連絡先を交換して別れたが、十日ほどして明日は休みだから会わないかという連絡が義父から入った。

 その夜、義父と私はお互いの肉体を満足いくまでむさぼりあった。私は義父の直腸の奥深く、繰り返し繰り返し射精した。義父も狂ったように乱れ、私に菊門を貫かれながら、いきり立った陰茎をこすりあげ、その度に一筋の白い飛沫を繰り返し放出した。

 日付が変わった頃、疲れ切った義父と私は、そのまま私の四畳半のアパートで全裸で抱き合いながら、深い眠りに落ちた。夜も白々と明けた頃、ふと目が覚めた私たちは、寝物語に義父の体験談や故郷のこと、家族こと、私の生い立ちや身の上などを、お互いの唇を時に激しく貪りあいながら語り合った。その後も月に一度のペースで逢引を続けたが、義父は春の訪れとともに、年末の再開を約束して故郷に帰っていった。

 

 昭和四十六年の晩秋、義父から今年も出稼ぎに行くという手紙が届いた。半年ぶりに出会った私たちは、空白の期間を埋めるがごとく、私のアパートで激しく愛し合った。義父が私とのセックスで初めてトコロテン射精したのも、この時のことである。交合の後、

「七男の自分が、既に両親のいない実家に帰っても邪魔にされるだけだから正月は東京で過ごすつもりだ。」

 ふと私がもらすと、義父は、

「どうだ? 今年の正月は、儂の実家で過ごす気はないか?」

 と言い出した。私は躊躇したが、

「儂はつれ合いを既に病気で亡くしている。長女と二人だけの正月だから遠慮はいらない。娘には、今年の正月は出稼ぎ先の知人を連れて来るかもしれないと言ってある。」

 義父はそう言って熱心に私を誘った。最後まで迷った私だったが、

「雪、そして、二重三重に親戚関係が絡み合った村人だけで過ごす、閉ざされた毎日だ。客人が来るのは新鮮で楽しいものだ。」

 結局、この言葉が決めてとなった。私は義父の提案を受け入れた。義父の故郷や実家を見てみたいという思いも当然あったが、一番はその男らしい肉体を、農村の土俗的生活の中で抱きたいという、土臭さに興奮する自身の性癖に勝てなかったのである。

 当時も今も汚れ専の趣向のある私は、山奥の寒村、しかも、板張りの開拓農家でのセックスと聞いただけで、頭がクラクラし股間の一物が硬くなるのを抑えることができなかったのである。

 十二月二十六日。私は義父とともに、上野駅を発車する夜行列車の乗客となった。並んで座席に座ると、義父がコートの下で私の手を握ってきた。義父の愛情を確かに感じながら、私も義父の手を強く握り返した。

 

 翌十二月二十七日の早朝、二人は終着のN駅に着いた。ここからI線に乗り換える。N駅までの路線は雪を知らない路線だとすれば、N駅以北は、車両も乗客も雪を知り尽くした路線であった。

 I線の各駅停車に揺られること二時間余り。M駅で下車した私達は、駅前からバスに乗り継いだ。そして、あるバス亭で下車するとそこからは徒歩である。

 もはや除雪はされておらず、踏み固めた一本の雪道「冬道」が、雪に覆われ、もはや雪原と化した本来の車道「夏道」の上に続いていた。婿入りしてからわかったのだが、雪がふると、巨大なかんじきを履き、村人が総出で積もった雪を踏み固めることで、やっと歩けるだけの道幅を確保するのだ。これが「冬道」である。もはや、除雪などという生やさしいものではない。所々、道は雪崩の心配のないルートに遠回りしているが、大部分はショートカットされており、夏道より、総じて距離は短い。しかし、バス亭から集落まで二時間近くも要したのを鮮明に思い出す。

 やっとの思いで義父の故郷に到着した頃には、冬の短い陽は既に傾きかけていた。初めて訪れた義父の家は茅葺き屋根をトタンで覆った、立派な農家だった。冬の豪雪を考慮し、板張りで、庭の南の隅に川からを引き込んだ小さな池があるのが雪国らしい。聞けば、その池は、屋根から下ろした雪を投げ込み、融かすためのもので、「たね」と呼ばれる、冬だけの池だと言う。「たね」で雪を融かして行かないと、雪を捨てる場所がなくなってしまうのだ。

「たねがなかったらお手上げだ。たねがなければ、家の出入りもできなくなるで。」

 義父の言葉である。もはや、雪下ろしではない。地元では屋根の雪の処理を「雪堀り」と呼んでいた。文字通り、屋根から雪を下ろすのではなく、屋根を雪から掘り出すのだ。背梁山脈の直下に位置するH地区は、豪雪地帯を走ることで有名なI線の沿線でも特に雪が多く、里の二倍から三倍の降雪量だという。

 実際、その年も、まだ十二月だというのに、既に厚く積もった雪は、背丈よりも高く、肩を寄せ合うように立ち並んだ周辺の家屋はすべて雪に埋もれていた。

 積雪が一mを越えると、雪の中に村が埋もれてしまう。そうなると毎日が雪との戦いである。

「娘がいなかったら、雪堀りをする者がいなくて出稼ぎにも出られない・・・。」

 義父がしばしば語ってくれた、その言葉の意味が初めてわかった。

 屋根の雪をそのままにしていたら、雪国の重厚な作りの家でさえ、厚く積もる雪の重みに簡単につぶされてしまう。北国の生まれとはいえ、私の生まれ育った土地は積雪の少ない土地だったから、雪に対する驚きは大きく、恐怖さえ感じた。

「一番雪の深い二月には、四m以上になる年がある・・・。」

 義父の言葉に、山深い土地での生活の厳しさを思った。

 末娘には出稼ぎ先で世話になった青年と伝えてあると義父は言っていたが、後で聞くと、

「出稼ぎ先に良い青年がいるので、向こうにその気があれば、お前に婿にどうかと考えているんだが・・・。誠実で外見だってまずまずだぞ。」

 と妻には伝えていたらしい。

 外見がまずまずかどうかは、単に祖父の好みの範疇かどうかだけの話だろうが、私は基本的にまじめであることは間違いない。義父は娘の幸せと自分の欲望、その両方を一挙に満たす最善の策に出たといえる。

 

 義父が先に立ち、入口の引き戸を開けると、土間が広がっていた。

「お帰りなさい。」

 将来、私の妻になる女性が笑顔で迎えてくれた。人あたりのよい、温厚そうな女性だった。彼女は何の疑いもなく私を歓迎してくれたのだった。

 こうして私の義父宅での正月が始まった。

 

 

三、雪国の正月

 

 二階の部屋に案内され、私が荷物をほどいていると、義父が現れた。初めて見る浴衣姿であった。古風な顔立ちの義父に浴衣はよく似合っていた。私は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

「源蔵。」

 義父が私に声を掛けた。既に知り会って丸一年、この頃には、義父は私を呼び捨てにするようになっていた。

「お前が先に風呂に入りなさい。」

 私が遠慮していると、

「今日は客人なので、その方が自然だ・・・。」

 その言葉で納得した私だったが、本心をいえば、一緒に入浴したかった。しかし、そうもいかない。私と義父は軽く口づけを交わし、それで我慢するしかなかった。

 雪国の年越しは珍しく、初めての経験ばかりであった。滞在期間中に大雪が降り、義父と一緒に雪かきもした。義父が屋根に登り、雪を下ろすのも手伝った。もっとも私は、下に居て、義父が下ろした雪を庭の隅の池に投げ込む役目だったが・・・。

 二十八日には餅つきもした。杵と臼を使い、蒸した餅米をついていく。娘さんと義父の息のあった姿に、しばし見とれた。

 そして、大晦日の夜は年取りである。囲炉裏の周りに三人が集まり、夕餉を囲んだ。横座と呼ばれる家長しか座ることの許されない位置に、浴衣姿で胡座を組んで座る義父。裾から白い越中褌と濃いすね毛が覗いていた。その男らしさに、私は惚れ惚れし、思わず熱い視線を送りそうになるのだが、娘さんの手前、それを抑えるのに必死だった。

 義父と一献を傾けながら、大晦日の夜が更けていく。今、思い出しても何と幸せな夜だったことか。正月に食べた雑煮も、私の実家のものとは違っていた。囲炉裏の灰で焼いたアンボと呼ばれる、栃の美の粉で作った野菜の餡入り饅頭は初めて食べる味だった。素朴だが、何ともいえぬ地味がある。いずれも初めての経験で、来てよかったと心から思った。

 

 義父の家に泊まって何日目かの夜遅く、娘が寝静まったのを待っていたかのように、義父が私の寝起きしていた二階の奥の部屋に忍び込んできた。

 私は暗闇の中、義父を布団に迎え入れ、寝巻きを脱がせ、義父の褌を緩めて全裸にして肌を合わせた。義父は私にしがみつき声を押し殺して快感に震えていた。快感が大きくなると義父はせつないよがり声をあげることに、私はそれまでの交わりから気づいていた。私は義父が脱いだ褌を義父の口に押し込み、声が漏れないことを確かめてから、絶頂に向けて一気に抜き差しを早めるとともに、義父の性器をゆっくりとしごいた。

 やがて暗闇の中で義父が呻いた。その瞬間、私の手の中で義父の精がはじけ、私も義父の奥深く子種を放った。

「出たか?」

 小さく尋ねる義父の言葉に、射精後の虚脱感の中、私は力なく頷いた。

「しばらく、そのままでいてくれ。」

 義父が私の耳元で囁き、私の口を吸ってきた。やがて、私の逸物が力を失い、義父の秘肛からヌルリと抜け落ちた。

 一週間ぶりに私の精を受け、満足したのだろう。義父は私の精液が溢れる肛門にちり紙を押し当て、そっと自分の部屋に帰っていった。

 翌朝、義父は何事もなかったように歯を磨いていたが、褌はつけていなかったはずである。私は布団の中に残されていた義父の褌を、台所で朝食の用意をする一人娘に気づかれぬよう、そっと義父に手渡すのだった。

 

 

四、婿になる日

 

 その年、昭和四十七年の盆、翌四十八年の正月も、私は義父の家で過ごし、暗闇の中で肛門性交を繰り返した。その頃になると娘はすっかり私に気を許すようになっていた。

 昭和四十八年の二月、初めて義父の家を訪問してから一年と少しが経った頃、私と娘は婚約した。やがて厚く積もった雪も日増しに消え、山里にも春が目前にせまった昭和四十八年五月、私たちは村人に祝福され、ささやかな結婚式をあげた。

 田植えも迫った農家にとって一番忙しい時期である。新婚旅行などできるはずもなく、結婚式の翌日から、私は義父と農作業に没頭した。元々、農家の七男として生まれた私にとって、農作業はお手の物であり、義父も手助けができたことを喜んでいた。

 こうして私と義父は仮夫婦のような生活を始めたが、肝心の妻とのセックスは何の問題もなかった。それまでも成り行き上、女性を抱いたことがあったので心配はしていなかった。それに妻の肉体を抱くことで義父の孫を作ることができるという喜びが、私に妻とのセックスに意義を見いださせた。翌年には男の子が産まれ、その後も三年おきに二人の男が誕生した。

 義父の喜びは大変なものだった。大切な娘と、自分の身体の中に精を放ち、受けの喜びをもたらしてくれる愛人の子供である。かわいくないはずがないともいえた。

「優持(ゆうじ・長男の名)がもう少し大きくなったら、儂が風呂に入れるからな。」

 山奥の丈の高い草の中での交わりの後、義父の腕に抱かれている私に義父は語った。

「風呂で、何するんかね?」

 私がからかうと、義父は、今まで見せたこともないような怖い表情で答えた。

「源蔵、お前さんだって、自分の息子では勃たんだろうが? 儂だって同じことだ。」

 私は、義父の孫に対する、肉親としての愛情の深さを改めて感じ、冗談でもそんなことを口にしたことを、心から恥じた。

 

 息子三人は、中学生になるまで義父が風呂に入れていた。長男は小学校六年、次男と三男は小学校五年で発毛したらしい。義父がそっと教えてくれた。そして、

「早めだのぅ。儂も早めだったから、やっぱり遺伝かもしれんね・・・。」

 と付け加えた。その言葉に私は股間が熱くなったのを覚えている。

 私は高校生になってから、ようやく発毛と射精を経験するような奥手の代表選手だった。

「もしかしたら永遠に毛が生えないのではないか・・・。」

 と本気で心を痛める中学時代を送った。そんな経験があるせいか、早熟という存在そのものに男を感じてしまう。

 三人の息子達は、三人が三人とも陰毛が生えてからも、義父には全然おかまいなしでチンボをさらしていたらしい。たまに温泉などに行くと、私の前ではタオルでがっちりガードして一瞬の隙も見せなかった三人の姿を思うと、なんだかうらやましかったことを覚えている。

 その息子達も今では、それぞれ都会で仕事を得て、それぞれ父親になっている。どうやら私や義父の性嗜好は遺伝せずに済んだようである(・・・が、本当のところはわからない)。私自身はホモに生まれついたことに悔いはないが、自分の息子にはそうであって欲しくはなかった。セックスを思う存分満喫できる喜びがある一方、それ以上の深い苦しみを、世の中のどの同性愛者も抱えて生きているものであるから・・・。

 

 

五、男と男の愛

 

 閑話休題。義父と同居が日常になったわけだが、当然、同じ屋根の下に妻がいる。盆、正月を義父の家で過ごしていた頃とは違い、私は妻と同じ部屋に布団を並べて寝ることになる。以前のように義父が、夜中に忍び込んで来ることなどできるはずもなかった。婿と舅が一緒に入浴するのも不自然すぎる。しかも、昼間の農作業は妻も一緒である。いきおい、私と義父が交わる機会は制限された。

 唯一、交わる機会が持てたのは、山仕事や山菜(主にゼンマイ)を求めて、山の奥深く分け入る時だけ。それ以外は、妻が家事をしている間に目を盗み、納屋の隅でそそくさと交尾するしか策はない。

 心ゆくまで愛し合い、朝まで裸のまま抱き合って眠れるチャンスといったら、年に一、二回、近所の仲間と連れだって、妻が温泉に一泊しに出かける時だけだった。それも、息子たちが生まれてからは難しくなった。

 そういえば、こんなことがあった。ゼンマイに限らず、雪国の山菜は柔らかく、そして味も抜群である。長い冬の間に、植物がため込んでいたエネルギーが凝縮されているからであろうか。春先のタラの芽、コシアブラ、ワサビ、アケビの芽に始まり、六月の根曲り竹、秋のキノコ。どれも季節の味わいとして、はたまた、長い冬の間の保存食として、どの家でも山菜を求めて山奥へ分け入った。

 特にゼンマイは現金収入になるので、奥山に分け入るのである。一日中、ゼンマイを採り、山奥の沢でズボンを脱ぎ、褌も外して汗を流す。沢の冷たい水で陰部と肛門を洗うと、義父はズボンをあげ、そっと梢を延ばした雑木の茂みの中に入っていく。それが合図だった。

 私は義父と同じように陰部を洗い、静かに義父の後を追った。義父はズボンを膝までおろし、褌を外して待っていた。私もズボンと猿股をおろすと、義父を強く抱きしめた。下半身を剥き出しにした男同士が、熱い口づけを交わしているのである。それは、端から見たら異様な光景だったろうが、木々の深い緑が、それを覆い隠していた。

 同居しているのに、思うように愛しあえないもどかしさは、限られた逢瀬をより激しいものにし、お互いの陰茎を激しく擦りあい、しごきあう。やがて、義父は後ろ向きになり、太いブナの木に手をつき、身体を九十度に折り曲げて尻を突き出した。

 私は持参したオロナイン軟膏を、固く硬直した自らの陰茎に塗ると、義父の肛門にあてがいゆっくりと奥に突き進めるのだ。亀頭が入ってしまえば、あとはどうということはない。ヌルリという感触とともに、一気に直腸の奥へと私のペニスは吸い込まれていく。

 義父が後ろを振り返り、口づけを求めてくる。私は義父の口を吸い、徐々に注そうの速度をあげながら、手を前に延ばせば、そこには極限まで勃起した義父の性器があった。性器を擦りながら、腰を使うと、透明な先走りがダラダラと溢れ、義父のずる剥けの亀頭から地面へと糸を引いて垂れ続けた。

「源蔵。出そう、出そうだ。白いのが出そうだよ。」

「出してください。お義父さん、思い切り出してください。」

「ああ、もうダメだ、いくっ。」

 呻き声とともに、白い樹液がピューと勢いよく地面に弧を描いた。その声を聞くとたまらなくなり、私も義父の直腸深くに射精するのだが、時には一回では満足できず、そのまま二発目の抜き差しに入ることもあった。そんな時、既に射精している義父は、最初こそ苦しそうにしているが、数分もすれば、性器は勢いを盛り返し、先走りをダラダラと垂らし始めるのだ。

 ある時、間一髪の事態が生じた。いつものようにお互いに求め合い、私は、義父の体内に射精してズボンをあげていた。ベルトを締め終わった、その瞬間に、不意にガサッという音が辺りに響いたかと思うと、同じ集落に住む左右吉さんが、茂みの向こうから現れたのである。

 左右吉さんは、同じ集落に住む男だった。義父より十歳ばかり年下で、農業に加え山菜やきのこ、川魚、山の獣を追う猟師であった。猟師らしいたくましい肉体をしていたが、チンボは小さく仮性包茎であることを私は知っていた。何度か近くの温泉で出会ったことがあったのである。

 茂みに私たち二人がいたことは、左右吉さんをひどく驚かせたらしいが、こっちはそれ以上である。一瞬、見られたのではないかと声を失ったが、左右吉さんはごく普通に、

「キノコかね?」

 と尋ねてきた。

「おうよ、今年はあんまりよくねぇな。」

 義父が答えると、左右吉さんは、やれやれという表情で、地面を走るブナの根にどっかりと腰をおろした。そこは、ついさっき義父が肛門を掘られながら精液をたらした、まさにその根っこだった。再び立ち上がった左右吉さんの、ズボンの尻の辺りが濡れているのに、私も義父も気づいたが、それが義父が出したばかりの精液だなどと、とても言えるものではなかった。

 この時、義父と私の営みを左右吉さんが目撃したかどうかは定かではない。その後、何の波風も立たなかったのだから間一髪セーフだったのだろう。しかし、もしかしたら見られた可能性もゼロではなかった。

 というのも、以後、左右吉さんの、私達を見つめる視線が変わったように感じたからだ。飲み会の時など、ふとした弾みに左右吉さんのねっとりとした視線を感じることが何度かあったし、近くの温泉で会った時も、私や義父のチンボに熱い眼差しを送る左右吉さんの視線を感じたような気がした。私の自意識過剰に過ぎないと思うのだが、ふとした疑念は常につきまとった。

 ひょっとしたら同性愛者とまではいかなくても、左右吉さんも、この世界に興味を持っていたのかもしれない。そうだとしたら、私と義父の性行為が目撃されても、地域内、そして、我が家に何の波風もたたなかったことは納得できる。

 舅と婿という間柄でありながら、私と義父の良好な関係は、近所でも有名であり、うらやましがられる反面、不思議に感じる人もいたかもしれない。当時、婿などというのは労働力という認識しか持たない舅も多く、婿は随分、辛い目にあうことも多かった。そんな婿が舅に良い感情を抱くはずもなく、舅が老い、婿の代になったとたんに、邪険に扱われるなどという話はそこらじゅうに転がっていた。

 私と義父の良好な関係の裏にある秘密を理解した左右吉さんが、すべてを胸に飲み込み、パンドラの箱に鍵を掛けてくれたとしたら・・・。左右吉さんは、若い頃、義父に随分世話になったらしく、義父は恩人でもあったから、その恩返しとして秘密を守った。あり得ない話ではない。

 正直に書く。私は義父と左右吉さんの若い頃の関係を疑ったことがある。それは、けっして濃厚な肉体関係があったという意味ではない。左右吉さんは、義父のタイプではなかったから、あったとしても、ノンケによくある、せんずりの延長のような性行為に過ぎなかっただろう・・・。一緒に出稼ぎに出ていた時期もあったようなので、その疑念はますます深まったが、義父に聞いただす程、私は愚かではない。

 ホモの世界に乱交はつきものである。別にそれならそれでいいではないか。遊びの裏で、義父が私への愛情をきちんとストックしておいてくれれば、それで充分である。それは義父だって同じであっただろう。だからこそ、私と義父は長続きしたのだとも思う。

 左右吉さんは冬には獲物を求めて毎年山に入る漁師であり、家を継ぎ、結婚してからは、冬も地元で暮らし続けた。ホモ文化が爛熟し、淫乱サウナが登場する時代になってからは出稼ぎに出ることもなかった。

 出稼ぎ先の都会で、淫乱な性を満喫させていた私たちと違い、男同士の刹那的な楽しみを知る機会も無かったであろう。興味はあっても、きっかけはなく情報もない。それが山奥に住む同性愛者の悲しい現実なのである。

 

 左右吉さんに間一髪、男同士の愛の交わりを見られそうになってから、私と義父は用心深くなった。野山でのセックスを避けるようになったのである。しかし、そうなると、納屋の隅でのそそくさとした行為に頼るしかない。子供たちが大きくなり、義父にまとわりつくようになると、それさえ難しくなった。

 出稼ぎに出るまでの春から秋にかけ、私達は近くにいるのに愛し合うこともできず、悶々とした日々を送るしかなかった。

 

 

六、出稼ぎの日々

 

 私が婿に入った当時、この地は今以上に不便な寒村だった。その頃の交通事情の悪さは、現在からは想像もつかない程で、義父の生まれたA地区でさえ昭和五十年代後半までは、毎年、十二月から四月までの五ヶ月間、自動車交通は全く途絶し、冬季、村に入るには徒歩に頼るしかなかった。あまりの多雪と雪崩の危険のため、道路を閉鎖するしかなかったからだ。外界との接触はほとんど不可能となり、ただただ半年間を雪に埋もれて暮らすのだ。

 私の住む村も、平成十八年の冬は、二十二年ぶりの未曾有の大雪に見舞われ。幹線道路が閉鎖され、半月以上に渡って孤立状態になったとして、テレビのニュースに大きく取り上げられた地域さえあった。しかし、それはかつて、いや、ほんのつい最近まで私の村にとっては、ごく普通の、ごく日常の風景の一つに過ぎなかった。

 村人の多くが降りしきる雪に天を仰ぎ、雪堀りに明け暮れ、雪を恨み続ける。唯一の希望は、必ず来る春の訪れだ。それだけを心待ちにして息を潜めて暮らしていくだけの冬。しかし、私と義父にとって、冬は心待ちの季節だった。なぜなら出稼ぎに都会に出て行く季節だからである。

 

 当時、村の冬の交通事情を考えると、冬季の通勤など不可能であったから、会社勤めなど当然できるはずもなかった。人々は春から秋までは農業や林業で、冬になれば、私達もふくめ、ほとんどの村人は東京や大阪、県庁所在地や近隣の市町村に出稼ぎに出て生活を支えていた。

 義父にとっても、娘が婿を取り、婿と同居するようになったといっても、それは何ら変わるものではなかった。変わったことといえば、春から秋まで婿と一緒に田畑を耕し、営林署の日雇い仕事をするようになったこと。時折、人目を気にしながら娘婿と交わること。そして、冬になると婿と一緒に出稼ぎにでるようになったこと、この三つだけだった。

 一人での出稼ぎから二人での出稼ぎへ。それは一人娘の妻にとっては収入が増えるだけでなく、万が一の場合でも何かと心強いだろうという安心感をもたらしたが、義父にとっては、より深い性のよろこびをもたらした。表向きはそうしなければ現金収入がなく、生活できないというやむを得ない事情を装っていた出稼ぎだが、私たち二人の真の目的は全く違っていた。

 村人とは決定的に異なる目的や感情が心の奥底に隠されていたのである。村人たちにとって、出稼ぎとは生活のためやむを得ず家を離れることであり、寂しさに堪え、家族に思いを馳せる期間であった。まさに私と義父の表向きの理由そのものである。しかし、私と義父にとって、出稼ぎとは男同士のセックスを思い切り満喫できる至福の半年間だった。休日のたびに淫乱旅館に入り浸り、陰茎が痛くなって、それ以上は射精できなくなるまで、淫乱に交合し続けた・・・。

 特に義父は肛門を犯されながら、性器をしごかれるとたまらない程の快感を得るらしい。普段は遅漏気味でなかなか射精しないのだが、陰茎を挿入され激しく腰を打ち付けられると、先走りをダラダラと流しながら、ほんの数分で射精に至るのである。

 時には触りもしないずる剥けの亀頭から、一筋の精液が弧を描いて胸まで飛び散ったこともあった。私や、私以外の男は義父の中に思いのたけを雄叫びとともに放出し、萎えた陰茎をゆっくりと引き抜いたが、そんな時、義父は呆然とした表情で肛門から精液をたれ流していた。

 しかし、それで満足する義父ではない。相手さえ変われば、一晩に何回でも射精し、次々と相手を受け入れた。義父の話を信じれば、四十代の後半に東京の淫乱旅館で一晩に二十人以上に中出しされ、義父も十回以上射精したことがあるという。

「さすがに最後はチンボが痛くなり、擦ることもできなくなった:。」

 生前、義父はよく語っていたものだ。

 

 淫乱旅館で夜を明かした翌朝には、淫行のあげくフラフラになり風呂場に向かうのだが、そんな時は、決まって肛門を洗おうと中腰になった途端、大量の精液が肛門から溢れ、風呂場の床に滴ったそうだ。

 淫乱な義父のことである。男らしく男前で相手に不自由のなかった義父である。知り合ったばかりの何人もの男を取っ替え引っ替えして遊んだのであろう。晩年、七十歳をこえていた義父が、私を含め五人の男を相手に、一晩に四回も射精したことがあったから、十回以上というのもあながち嘘ではなかろう。

 ちなみに義父は初体験から亡くなるまでの六十年間に、

「千人以上、ひょっとしたら二千人くらいに肛門性交で中出しされたかもしれないなぁ・・・。もっとも入れられるの一辺倒で入れたことは一度もないが・・・。」

 と苦笑混じりに感慨深く語っていた。

 出稼ぎに出ていたのは約三十年間である。その間、毎週のように淫乱旅館に入り浸り、毎回少なくても一晩に二~三人、多いときには二十人近くに次々と犯されて、放心状態で肛門から何人分もの精液をダラダラと溢れさせていた義父である。

「五十代までは、同じ人とやることなどほとんどなかった・・・。一回限りで、さらに理想の男、理想の男と次の男を追い求めていた・・・。」

 と語っていたことがある。私が冗談交じりに、

「どんな男がタイプだった?」

 と尋ねたことがあったが、義父は真顔で、

「自分より二十歳以上年下で、チンボは黒ずんでズル剥け。しかも、勃起すると擂り粉木のように硬く、巨根の男。容貌は男臭く髭や足、腕の毛が濃い男。筋肉質で農家や土方、漁師、炭坑夫、そういうごつい男が好きだった・・・。」

 と答えた。私はそれを聞きながら、

「それは自分(私)が追い求めてきた男と年齢以外全く同じじゃないか・・・。しかも、義父そのものではないか・・・。」

 と少々呆れてしまったことがある。

 実は私も義父に負けず劣らず毛深い方なのだ。義父と違うのはうっすらだが胸毛が生えており、乳首の周囲が毛で覆われている点と、四十歳になった頃から、急速に頭髪が薄くなった点である。もしも私と義父とのセックスをのぞき見る人がいたとしたら、そこにあるのは、すね毛の濃い、肉体労働で鍛えた筋肉質の男二人が絡み合い、しかも、片方は頭髪が薄い・・・。そんなノンケからしたら地獄絵のような構図を目の当たりにしたことだろう。しかし、ある種のホモにとっては、それは堪らないほど魅惑的な光景となる。

 閑話休題。義父の話に多少の誇張はあっただろうが、それを差し引いても、肌を合わせた男の数は一年に五十人はくだらなかったことだろう。出稼ぎ以外で知り合った男もいるだろうし、知り合いから紹介された男もいるはずだ。そう考えると二千人というのも、あながち大げさな数値ではないように思う。

 もっとも私だって人のことは言えない。到底、ウケほどの人数はこなせないが、タチとして、生で肛門を犯し、大量に精液を中出しした男の数は、軽く数えて五百人はくだらないだろう。正直、同じ穴の狢。人様のことをとやかく言えた義理ではない。

 今、思えば、あれだけやりたい放題やりまくって、よくも、まあ、病気にもならずに済んだものだと慨嘆してしまうことさえある。

 人格者として、村人の尊敬を集めていた義父の素顔。それは淫乱でセックスのことばかり考えている、どこにでもいる普通の男の顔だった。

 

 そもそも出稼ぎに行くにしろ、わざわざ東京まで行かずとも、近くのスキー場で充分働けたのだ。しかし、私と義父はそうしなかった。

「賃金が安いし、スキー場やスキー宿は正月に帰れない・・・。正月くらい孫(息子)の顔が見たい。」

 という一見切実な口実のもと、初雪の声とともに意気揚々と大東京へと旅立った。しかし、その実態はといえば、私も義父も逞しい男との淫乱なセックスを期待し、内心の喜びと疼く股間の高まりをひた隠しに隠しているだけのことだった。

 

 出稼ぎに出ると、私達二人は、義父の知り合いの親父(義父のセックス相手だった)が経営する、安アパートに間借りするのが常だった。そして、単調な肉体労働に明け暮れる日々を、半年間送り続けるのである。

 銭湯で汚れた身体を流し、安食堂で簡単な夕食を済ませて四畳半の部屋に戻ると、義父は三日と置かず、私の身体を求めてきた。ゆっくりと越中褌をはずし、全裸になってペニスをしごきながら私の布団に潜りこんでくる。私は義父を組み敷き、一つとなり、義父の中に子種を思い切り放出する。そして、裸のまま抱き合って朝まで眠るのだ。普通の夫婦でいう絆とは、こういうものなのかと思ったりもした。その喜びは労働の意欲にさえなっていた。

 しかし、所詮、男同士の性は多情である。義父とのセックスだけでは、私も義父もすぐに満足できなくなるのは必然だった。義父との行為を続けつつ、快楽を求め、男を求めて、私も義父も、ときには二人そろって東京の陰の世界を暗躍した。

 

 アパートの管理人が加わり三人で楽しむこともあった。どこでどう知り合ったのか、義父と二人で出稼ぎにでるようになった時には、すでに親父(義父はアパートの管理人をこう呼んでいた)のアパートに間借りするのが、慣例になっていた。

「今日は飯を食いに来い。」。

 月に一度か二度、親父が声をかけてくるのが合図だった。アパートの管理人は義父より二十歳ほども年上で、当時すでに七十歳に近かったが、やはり淫乱な男であった。

 一度、義父にアパートの親父と義父の関係について聞いてみたことがある。はっきりとは教えてくれなかったが、義父が初めて東京に出たときからの知り合いのようであった。

 

 あれは私が四十代中頃、義父が六十代前半のことだったと思うが、私たちのアパートに管理人の知り合いが集まり、十人程で朝までやり続けたことがあった。別の男に肛門を犯されながら、義父はアパートの親父と口を吸いあっていた。やがて射精が近づくと、義父は顔に精液をかけてくれとせがんだ。アパートの親父と義父の顔めがけ、興奮しきった中年男達が雄たけびとともに次々と射精して行く。義父は

「あぁ、来てくれ。顔にかけてくれ。ああ、来て来て。」

 と叫びながら、口を大きくあけ舌をびらびらさせて精液を顔中に受けていた。それを見てがまんできなくなったのだろう。義父の肛門を攻めていた四十代後半の男が

「あぁ、たまらん。」

 とうめきながら義父の体内に射精した。

 それはなんとも卑猥で興奮をそそる光景だった。義父はうっとりとした表情を浮かべ、陰茎をキトキトに勃起させながら、顔中に放出された大量の精液をいつまでもなめ回していた。

 朝までに、いったい何回射精したのだろう。一人が二回としても二十回。しかし、一人二回で済むはずがなかった。義父は四~五回は放出した。若かった私はそれ以上だっただろう。さすがにやり疲れ、全員が全裸のまま眠りについた頃には、白々と夜が明け始めていた。部屋中に精液のすえた匂いが充満し、しばらく消えなかったことを覚えている。

 

 出稼ぎに出ている半年間。何より最大の楽しみは休日であった。私と義父にとって、休日とは、その頃に登場し始めた淫乱サウナに泊り込み、心行くまでセックスを堪能する日であった。ある時など、一晩に十人以上もの男に続けざまに中出しされ、狂ったように自らのペニスをしごいて、二~三回も射精する義父を尻目に、そのすぐ横で七十歳近い青森出身の爺さんの肛門を犯したこともあった。そういう乱れたセックスをしていたのは私たちだけではなかった。当時の淫乱サウナでは、それはありふれた光景だった。当時(昭和五十年代前半)は、まだ今のような死に至る病気などなく、本当におおらかで楽しい時代だった。

 

 

七、湯治場にて

 

 そんな義父も六十歳の声を聞くと、さすがに東京での土木作業の出稼ぎには身体がついていかなくなった。そこで、私と二人、車で一時間ほどの温泉地にある老舗旅館で冬期間だけ住み込みで働くようになった。

 要は冬期間に押し寄せるスキー客の賄いである。朝、夕の食事の手伝い、布団の上げ下ろし、風呂そうじまで大変な忙しさであったが、肉体労働に明け暮れてきた義父や私にとって、正直、力仕事はどうということはなく、寒い思いをしなくて済むだけでも本当に楽であった。

 あれは、義父が出稼ぎをやめる二年前だから、義父が六十八歳、私が四十四歳の時のことであった。私たちが住み込んだ温泉宿は、有名なこの温泉街でも老舗といってよい旅館だったので、大学生などの若者ではなく、少し年配の、経済的に余裕にある世代が顧客となっていた。

 ある日、一日の仕事を終え、夜遅くに義父と旅館の風呂に入っていると、四十代後半と思われる、筋骨逞しく肩幅の広い男が前を隠すことなく入ってきた。その男は私たちの前に陣取り、肩にタオルを掛けて浴槽の縁に腰掛けると、まるで性器を見せびらかすよう股間を全開にしてくるのである。

 私が男の性器を凝視していると、自然と男と目があった。男は性器の辺りをもぞもぞといじっている。私は湯船の中で義父の性器へ手をのばし、義父の手を取って私の股間に導いた。男の性器がみるみるうちに勃起してきた。後は簡単である。私と義父が湯船から立ち上がって男の性器に手を伸ばすと、男も立ち上がって抱きついてきた。そのまま三人で口を吸いあい、立ったまま性器を擦りあった。

「脱衣かごの越中褌でもしかしたらと思いました。お二人とも褌なのですね・・・。さすがにここではまずいですから、私の部屋へ来ませんか。」

 私のペニスから口を話すと。男が思い出したように言った。

 私と義父が喜んで同意したのは言うまでもない。男の部屋に行くと、明かりの点いた部屋に角刈りの二十代後半と思われる小柄で筋肉質の男が全裸で布団に横たわっていた。角刈りの若い男は、一瞬、驚いた表情を浮かべたが、すぐに事情を飲み込んだらしく、我々を迎え入れてくれた。

 年かさの男の体毛はごく普通だったが、角刈り男の方はすね毛が濃く筋肉質、眉毛の太い男臭い顔だちは、正に義父の好みであった。

 その夜、私は年配の男に挿入し、義父は角刈り男に貫かれた。年配の男が義父に挿入したり、私が義父に挿入しながら若い男が義父の口にペニスを突っ込み、年配の男が若い男の肛門を貫くなど、正にやりたい放題であった。もちろんコンドームなど使おうとも思わなかった。

 義父は相手が変わる度、肛門を犯され雄叫びをあげながら繰り返し繰り返し射精した。角刈り男は老け専で、年かさの男は比較的若い男が好みだったらしい。二人は放出してしまうと、それ以上には義父と私に迫ってくることはなかった。山奥のホモに男と楽しむ機会など限られている。まして好みとタイプとあればなおさらだ。義父は、朝まで何度でも交わりたがったし、私も犯され、興奮してトコロテン射精する義父をもっと見たいと思った。しかし、どうも向こうはそうでもなかったようだ。

 私は心の中で、

「都会の人はいくらでも機会があるから、こういう時でも、あっさりしたものだ。」

 と少し冷ややかな気持ちで満足気な二人を見ていた。やりたい放題やっておいて誠に勝手なものだが、こればかりは性欲だからどうしようもない。

 この二人は明らかにスポーツで鍛えた体型で、しかも、二人の息はぴったりだった。恐らく何か深い絆で結ばれた間柄だろうと推測された。セックスの後、私たちが義父と婿だと名乗ると、二人は驚いたようすだったが、角刈り男が、意味深な表情を年かさの男に送っていることに私は気づいていた。

 結局名前も聞かずに別れてしまったのだが、ある時、某雑誌に角刈り男の顔写真が乗っていて驚いたことがある。この男、某スポーツのトップレベルの選手で、年かさの男は、この男のコーチだったのである。

 やっとあの時の若い男の意味深な表情の意味が理解できた次第である。義父と婿の男同士の秘密の関係、それはコーチと選手の男同士の秘密の関係に通じるものがある。しかし、実際の所、端から見たらいったいどちらが隠微で扇情的なのだろうか。やはり義父と婿の方がより秘密の度合いが高い気がするのは、私だけの贔屓目であろうか・・・。

 

 

八、義父の死

 

 やがて義父は八十二歳に、私は五十九歳になった。さすがに若い頃に比べ身体は縮んでしまったとはいえ、他の年寄りに比べれば、義父の筋肉はまだまだたくましく、精力も旺盛で、何より淫乱だった。

 義父は七十代後半になっても山仕事や畑仕事に精を出し、山菜取りに野山を精力的に歩き回っていた。時には山から切り出した薪をかついで来ることさえあった。そんな義父が死ぬなど、想像もしておらず、心の準備も全くできていなかった。

 死の五日前には自分で自動車を運転して*村の**温泉に出かけ、H村とO市、N市に住む三人のホモ仲間と一泊して翌朝帰ってきた。実は、その温泉宿の主人もお仲間で義父も含めて五人で一晩中酒を飲み、合間をみては挿しつ挿されつ、一晩中淫乱に交尾し続けたらしい。あいにく私は都合が悪く参加できなかったのだが、そのうちの何人かとは義父も交えて会ったことがあった。

 正直に言おう。秘湯同好会という名のもとに知り合いの同性愛者が集まり、一晩中乱交を楽しむ会を、ここ何年にも渡って催してきたのである。私が婿入りした昭和四十年代後半、温泉旅館に、年に何回も宿泊するなどということは経済的にとても考えられなかった。そもそも温泉旅館に泊まるのは、団体客が中心だった時代である。高度経済成長を経て日本は大きく成長したが、わが家の生活も豊かになったものである。

 閑話休題、義父が参加したのは、年に数回開催している、この温泉同好会だったのである。義父がかなり激しい一晩を過ごしたらしいことは、帰ってきた時のようすから推測できたが、私は敢えて聞かないでいた。

 

 それから二日後の午後、あいにくの雨で畑仕事ができなかったこともあり、義父を連れて近くの温泉に出かけた。平日の昼間のこととて他に客はなく貸しきり状態だったが、露天風呂に一緒につかった義父は、周囲に誰もいないのを確認すると、笑いながら切り出した。

「一昨日、温泉宿で四人に変わりばんこに入れてもらった。全員に中に出してもらったけど、あんまりにも興奮し過ぎて、久しぶりにトコロテンで出してしまった・・・。いじりもせんのにダラダラ白いのが、垂れて・・・。」

 義父は恥ずかしそうにそう報告すると、赤く濁ったお湯に下半身を沈めながら、チンポのあたりに拳をもって行った。そして、そのままお湯の中で拳をキュと握った。まるで精液が飛び散るように、拳の間からお湯がピュッと飛んだ。それを見て私も笑い、股間を固くした。見ると義父のずる剥けの性器も固くなっていた。

 

 風呂からあがり帰宅すると、私は義父の腕を引いて義父の寝室に連れ込んだ。妻は近くの市まで買い物に出かけていたので、家には誰もいない。布団を敷くと、私たちは声を殺して口を吸いあいながら倒れこんだ。興奮した私は、義父の衣服と褌を脱がせると、いきり立った陰茎を義父の肛門にあてがい、正常位で一気に腰を突きたてた。

 温泉で温まっていたせいか、義父の肛門は緩んでいて難なく結合できた。久しぶりの交わりだった。妻が帰ってくるかもしれないというスリルが深い快感を呼んだ。私は腰を打ちつけながら、両足を抱え赤ん坊がおしめを替える際の、あの姿勢でよがっている義父の口を吸った。そしてヌラヌラという早い抜き差しと、ヌラリヌラリというゆっくりとした抜き差しを交互に繰り返しながら、義父の陰茎をこすった。やがて義父の陰茎にグッと力が入り、ピクピクと躍動したかと思うと、義父は喉の奥でうめきながら精液をほとばしらせた。放出してしまうと、さすがに苦しくなったのだろう。義父が、

「早くいってくれ。」

 と私の耳元で囁いた。私はさらに激しく腰を使い、義父の首すじに舌をはわせながら義父の匂いを嗅ぎ、直腸の奥深くに子種を放出した。私はそのまま義父にもたれかかり、大きな満足を感じて義父の口を吸った。それが最後の交わりになるとも知らずに・・・。

 

 数日後、夕食の最中に義父の姉が脳卒中で亡くなったという報告が入った。義父は肩を落としひどく落胆していた。義父より十二歳も年上だったが、貧しく多忙な農家に育った義父にとって、母親以上に面倒を見てくれた人らしかった。そして、その夜、義父は突如心筋梗塞の発作を起こし、あっけなく逝ってしまった・・・。

 義父の葬儀などあわただしい日々が過ぎると、義父の死がようやく実感として迫ってきた。あらためて深い悲しみが私の胸をえぐり、私は、一人布団の中で泣いた。しかし、どんどん老い衰え、いつか寝たきりになり萎びてしまった義父など見たくなかったから、これでよかったのかもしれないとも感じていた。たくましく男くさくて淫乱な義父は、たくましく淫乱なまま男らしく逝った。それでいい。

 

 あれから九年、私は現在も義父の匂いの染みこんだ土地に住んでいる。私の住む板張りの農家は、義父が建て、義父が娘を育て、そして死んでいった家である。そこで私は婿として、そして妻との間に生まれ三人の息子の父として、そして義父の性の対象として生きてきた。きっとこれからも、ここで生きていく。そして義父の後を追って朽ちて行くことだろう。

 

 いつか義父との淫乱な体験や山での交合、寝物語に聞いた義父の思い出話、そんなものを文章にしてみたい。そんなことを考えながら、毎日を過ごす私である。私の第二の故郷は今年も間もなく雪の季節を迎えようとしている。