里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農夫の性の記録

第一部

少年期

 

二 開拓地 -私の生い立ち-

 

 

 私は○○地方の某県の、戦後拓かれた開拓地で生まれ育った。私がヨチヨチ歩き、一番かわいい盛りの頃、巷では「映画ゴジラ」が大人気を博していたらしい。「らしい」というのは、物心ついてから、祖父や父が話してくれたことだからである。

 実際は、私は「映画ゴジラ」が昭和何年に公開されたのかさえも知らない。私が知っている歴史事象で言うなら、日本が戦後の連合軍の統治から独立を回復し、国際社会に復帰して数年が経った頃である。

 私は生まれながらの真性ホモで、幼少時より女にはまったく興味が持てなかった。そして、私のこの素養を開花させ、ふけ専への道程を決定づけたのは、同居していた父方の実の祖父であった。

 祖父は私に男同士の性の喜びを教え、私を坊主から一人前の男へと導いた。私に、男と男の間にも愛情が存在することを教えてくれた祖父とは、どんな男だったのだろうか。まずはそこから物語を書き進めたい。

 

 戦後、大陸からの引き揚げ者が急増し、日本の農村の人口は膨れあがった。その余剰人口を吸収する意味もあって、日本各地に開拓地が切り開かれた。

 祖父は、当時、二十歳を過ぎたばかりの私の父と、生まれ育った村の近くの開拓地に入植した。入植時、祖父は四十代後半の男盛り。農業に夢を描き、特にりんご栽培に活路を見出したいという夢を心に抱き、一大決意のもとでの入植だったという。

 しかし、戦後開かれたそれらの開拓地の多くは、高度経済成長期に次々と離村が進んだ。通いで耕作が続けられた場合もあるが、それはごく少数の例外に留まる。せっかく開墾された農地の大部分は、離村とともに、再び原野に戻ってしまった場所が多い。

 離村が進んでしまった背景には、もともと高涼地や火山灰地など自然条件の厳しい場所が選ばれることが多かったことに加え、冬季は交通が途絶するような場所も多く、社会条件も劣悪だったということもが挙げられる。

 いや、むしろ、そういう場所だから、何百年も原野のまま残されていたのだろう。実際、開拓地によっては、子供の通学に片道三時間などという話も、珍しい話ではなかった。小学校一年生の子供が片道三時間、往復六時間かけて通学するのである。現在なら考えられない話だろう。

 幸い私の育った開拓地は、そこまで条件の厳しい土地ではなかった。しかし、祖父母、両親ともに、貧しい時代のことは、あまり話したがらなかったから、開拓最初期の両親や祖父母の暮らしがどんなであったのかは、私にはわからない。しかし、その片鱗を窺い知ることはできる。というのも、祖父や父と同じ頃に、別の開拓地の開墾に携わった年配者の話を聞いたことがあるからだ。

 彼によると、当時の開拓小屋は一間きりしかない平屋建てなのが普通で、息子夫婦、親夫婦が、川の字で寝る状態だったという。おそらく我が家もそれと大差なかったと思われる。

 今さらながら、その状態で夫婦の性生活は、いったいどうなっていたのだろう。本人たちより、聞いている側が不安になってしまう。

 これについても、ある程度の回答を得たことがある。もう二十年近くも昔であろうか。ある日、青年部の酒宴の席で、一人の青年団員が、酔った勢いもあり、かねてからの疑問をついに口にしたのだ。

 私は特殊な性癖もあるので、それを表に出さぬよう、酔いには常に注意していたから、その時のこともはっきりと記憶している。私は表情を変えずに二人のやり取りに耳を傾けた。

「おっちゃんよ。家族がいて、あっちの方はどうやって済ましてたんだ?」

 直球である。こうなると酔っぱらいは強い。直球すぎて、飲んでも冷静な周囲があせる。

 とはいえ、男だけの飲み会、しかも、相手も酔っ払いである。ニヤリとして、

「聞きたいか?」

 などという答えが返ってきたものだから、

「よくぞ聞いた。」

 その場にいた誰しもが、心の中で喝采を送った。男どもは皆、かねてから聞きたくて仕方なかったのだ。

「家族が寝静まってからか、納屋か、青姦。」

 ベロベロに酔っ払った年輩者の返答である。周囲はヤイノヤイノ言って大盛り上がりだった。

「全員、寝静まったと思ったら、実は、まだ起きていて見られていたなんてこともある。」

 この辺り、核心部に話題が及ぶと、もう全員固唾を飲んで聞き入っている。

「俺か。死んだ兄貴夫婦のオメコを薄目開けて覗き見しながら、しこったもんよ。義姉さんには申し訳なかったけど、毎回、寝たふりしてな。だいたいわかるんだよ、今日はやるなって日がさ。一家で入植した時、俺は二十歳前だったが、兄貴とは十八も歳が離れていたからなぁ。」

 青年部の飲み会などと言うのは、だいたいこんな物であった。

 会話の九割は女の艶話。しかし、こちらは女には興味がないときている。なのに、興味津々の振りをしなければならない。時には興奮している振りさえした。とにかく疲れる会だった。これで楽しいわけがない。私は地域との仲間との猥談が苦痛でしかたなかった。

 昭和五十年代前半、それが地方、特に人間関係が濃厚な田舎の村に暮らすホモの、偽ざる姿だった。

 

 話が脱線したが、前述したように昭和五十年代まで維持できた開拓地というのは、実は決して多くない。昭和三十年代後半から四十年代にかけて続いた高度経済成長。ここが開拓地の運命の分岐点だった。

 高度経済成長の時代、確かに都市は急発展したが、それと表裏一体だったのが地方である。特に多雪地の山村の疲弊はすさまじく、昔ながらの集落でさえ、廃村が次々と生まれた。◯越、◯草、◯○保、◯津、○峠、◯○坂、○禅○、○平、○敷、○露、近隣だけでも枚挙に暇がない。

 この辺りは十㎞南へ行けば雪は半分、二十㎞なら冬季でも根雪にならない土地柄だから、全国的にも特に廃村が多く生まれた。隣の市町村へ引っ越すだけで、豪雪から逃れることができるからだ。これだけ廃村が集中している地域は全国的にも珍しいと聞いたことがある。

 誰も住まなくなった村は、急速に朽ちていく。豪雪地帯なら尚更で、雪下ろしに通わなければ、数年で屋根が落ちてしまう。

 このように本村でさえ、過疎化の波を止められない有り様だったから、生産力の低い開拓地などひとたまりもなかった。特に貴重な現金収入だった炭焼きが、安い外国産に押されダメになった影響は大きかった。

 毎年のように離村につぐ離村で、それは見るも無惨な状態だった。後に残されたのは誰も住まなくなった家屋と、原野に帰り行く、荒廃した農地だけである。

 

 廃村の憂き目をみた開拓地も多い中にあって、私の育った開拓地は数少ない成功例であった。現在でもほとんどの入植農家が、息子、孫世代に代替わりして定住している。

 我が家など、祖父から数えて三代目が農業の中心になり、四世代目の孫坊主でさえ、そろそろ生殖器に発毛を迎える時期に差しかかっている。おそらく十年もしないうちに、どの家でも四代目への代替わりが始まるだろう。

 我が家はどうなるのだろうか。孫坊主に農地を守っていって欲しいという思いがないといえば嘘になる。ましてや、愛しい祖父が苦労の末に切り開いた土地である。私の思い入れは殊の外強い。しかし、こればかりは強制するわけにもいかない。

 私と婿さんにできることは、父と祖父が精一杯農業に生きた姿を、孫坊主の瞼の奥に焼き付けてあげるところまでだ。あとは一定の年齢に達した時、彼自身が決めて行くだろう。

 近年、私の育った開拓地は果樹だけでなく、グリーンアスパラガスの一大生産地としても、販路を広げている。果樹にしても、かつてのリンゴからブドウに移りつつある。ただし、ぶどうといっても生食用ではない。標高八五十mの高冷地では、生食のぶどう栽培は難しい。ぶどうは低温に弱いからである。しかし、加工用なら栽培可能だ。

 実は地元のワイナリーが中心になって、地酒ならぬ地ワインの生産が軌道に乗りはじめているのだ。その原料のぶどうの栽培を、多くの地元農家が委託されたわけである。

 これは地域の農業の未来にとって、久しぶりに明るい材料だ。地域ブランドの確立に繋がるかもしれない。一方、今、大人気で高値で取引されている生食用ぶどう「シャインマスカット」はここにきて栽培農家が急増している。正直、人気、価格ともそろそろ飽和状態だろう。その点、加工用には付加価値が付くから、多少の栽培量の増加くらいでは、極端な価格低下にはつながらない強みがある。

 農業で利益をあげ続けるというのは本当に大変なことだ。それば今も昔も変わらない。そんな中、生産力の低い私の村のような開拓地が、生き残ることができたのはなぜだろうか。そこには幾つかの理由がある。

 そもそも役場のある村の中心地から四㎞。祖父の生まれ育った本村からに至ってはたったの二㎞しか離れていなかった。つまり、開拓地としては極めて人里に近い珍しい事例だったのだ。そのため、交通や学校、医療など、生活に必要な最低限の生活基盤が比較的安定していた。これが最大の理由だろう。

 また、水を得にくい台地上という、本来は不利な立地条件も、結果的にプラスに働いた。水田化が難しかったのだ。そのため、最初から稲作以外の導入が、開拓の前提条件だった。

 結局、りんご栽培が中心になっていくのだが、このため、昭和四十年代以降、全国的な米余りの結果、国によって減反政策が始められても、作物を転換する必要がなかった。言ってみれば、仕切り直しをせずに済んだのだ。

 

 ちなみに、土木工事や土壌改良の技術が大きく進歩した昨今でさえ、私の開拓地では、水田は湧水のある山ぎわに僅かに点在するだけである。実際、我が家も水田は一枚しか持っておらず、自家用とお世話になっている方への贈答分しか作っていない。

 しかも、湧水が水源なので水温が低く、流量も充分ではない。結果、どうしても収量は少なくなってしまう。しかし、その分、水質の悪い水が混じらないので、食味は抜群である。

 新潟県魚沼産や長野県木島産のコシヒカリは、美味い米として全国的に有名だ。しかし、その中でも本当に美味いのは、湧水や沢水など、水質のよい水を使っている、山の田で収穫された米だけだ。同じ苗を植えても、川から引いた用水路の水を使っている田の米は、山の米とは食味に大きな差が出る。

 中には山の棚田の米と、効率だけを追求した、圃場整備された田の米を、一袋に混ぜて販売してあることさえあるから、まったくもってお話にもならない。それでは何の意味もないではないか。銘柄米だからといって、すべての米の味が美味い訳ではないのである。

 

 いけない、いけない、私は根っからの百姓なので、どうしても農業に関わる部分は語りが過ぎてしまう。話を元に戻さねばなるまい。閑話休題。

 私の育った開拓地が現在まで維持できたのには、気候条件も大きく影響している。冬季、最も雪の深い二月末でも積雪が一m程度に過ぎないのだ。

 十㎞北に行くか、数百m標高が上がるだけで、積雪が二mを越える土地柄だから、積雪が一m程度というのは、大きな強みである。積雪が一mというと南国の方々は驚かれるだろうが、最深積雪が一mだと、その大半の期間、積雪は五十~七十㎝の間を行き来する。これが二mだと百五十~百七十㎝を行き来することになる。

 前者は、昭和四十年代になると機械除雪が可能になった。つまり、冬季間でも自動車が集落に入れるようになったのだ。

 しかし、最深積雪が二mに達する地域になると、もういけない。昭和五十年代前半でさえ、そういう村は半年近くも下界から孤立するしかなかった。積雪量はもちろんだが、雪崩の危険が大きくて、除雪ができないのである。当然、子供たちは学校の寄宿舎に入るか、集落ごと冬季分室が開かれるかである。

 高度経済成長の時代を乗り切り、昭和五十年代後半まで持ちこたえた村は、その後、雪崩の危険箇所にスノーシェッドが設けられたので、冬季でも交通が確保されるようになった。

 田舎では自動車は命の綱である。買い物、通院、通勤・通学。生活のすべてが車頼りである。それがなければ生活は立ち行かない。例えば、病気。自動車交通が途絶した中で心筋梗塞でも起こしたら、どんな結末を迎えるかは目にみえている。いや、盲腸炎でさえ、手遅れになりかねない。昭和四十五年頃まで、雪国では、本来、死ぬはずのない病気で、命を落としたという話はそこら中に転がっていた。

 ここまで話せば、泣く泣く生まれ育った村を捨てた人々の気持ちも、私の村が、開拓地の中では冬の気象条件に恵まれていたという話も、きっと理解していただけよう。

 

 ところで、私の村の積雪量が少なめだったのは、北側に屏風のように山地が聳え、雪雲の進入を防いでくれるからだった。まるで開拓地を豪雪から守るかのような山の存在とその形状に、祖父は自然神の意思を感じたらしい。

「山の神様のお陰。」

 しばしばそう言って、畑仕事の合間に、山に向かって手をあわせていた。

 とはいえ、標高八百五十mの台地上である。冬の冷え込みは本当に厳しかった。一月、二月の朝は氷点下十度は当たり前。日中も氷点下の日々が続く。いわゆる真冬日である。そして、寒さの最も厳しい大寒からの十日間ほどは、氷点下二十度を下回る日も珍しくなかった。

 今と違って断熱材も入っていない住まいである。寒さは壁の隙間や床下から、もろに屋内に侵入して来た。家の中のコップの水が凍っていることなど珍しくなかった。

 そんな冷え込みの厳しい夜、私はもぞもぞと祖父の寝ている布団に潜り込み、朝まで祖父の腕の中で眠った。祖父の青々とした髭剃り跡が、頬にチクチクと痛かったのを、よく覚えている。

 幼少時代に経験した冬の厳しさと、やがて来る春の訪れの喜び、この二つが、今の私の人格を形成したと言ったら言い過ぎだろうか。前者からは忍耐や粘り強さを、後者からは、感謝や前向きな生き方、そして何よりも、

「いざとなったら何とかなるさ」

 という、どうしようもない程の楽天性を教えられた。

 それは私だけではあるまい。冬の寒さの厳しさ、雪の多さ、そして、長かった冬が終わり、春が訪れたときの解放感。これらは、程度の差こそあれ、その地に生きる誰しもに何らかの影響を与えているものだ。

 

 祖父が私を溺愛したことは先にも書いたが、私も祖父によく懐いた。それには理由があった。私は兄弟姉妹で一番年長だったが、五人の妹が次々と産まれたので、両親は幼い妹たちにかかりきりだった。

 子供心にも、それは仕方のないことだと理解していたし、新しい生命の誕生に立ち会えた感動は筆舌に尽くしがたい。だからこそ、何があっても、一番歳上の自分が我慢するしかないと心に決めてもいた。

 そんな中で育ったので、正直、私は両親に甘えた記憶がほとんどない。代わりに、始終、祖父にまとわりつくことで、寂しさを紛らわせていた。祖父も、そんな私が不憫だったのだろう。常に温かな眼差しで私を見守ってくれた。

 私だけでなく、家族の誰もが、私への祖父の慈しみは、普通の家庭で、父親が息子をかわいがるのと同じ類のものだと信じて疑わなかった。もちろん、確かにそういう部分があったことも事実だろう。しかし、その根源に横たわっていたのは、祖父の性癖だった。今なら、そのことがはっきりわかる。

 男、しかも、若い肉体にしか欲情できず、それをひた隠しにしていた祖父。もちろん、淫乱サウナなど、溢れる性欲を満たす場所が、昭和時代の農村にあるはずもなかった。

 祖父が七十代を迎えた頃、大阪の新世界では、既に竹の家が隆盛を極めていたらしいが、祖父はその存在さえ知らなかっただろう。

 竹の家というのは、今でいうホモサウナの原型。当時は淫乱旅館といったらしい。旅館風のホモサウナとでもいえば理解していただけるだろうか。その全盛は昭和四十年代半ば、大阪万博の頃だったというが、当時、その噂は海外にも知れ渡り、日本の男を求め、わざわざ海外から訪れた人もいたというから驚きだ

 私は、三十代半ばで初めて淫乱サウナを経験してから後、日本全国のホモサウナやホモしかいない一般サウナを訪ねてきたが、結局、竹の家には一度も足を踏み入れることはなかった。

 風の噂で竹の家が廃業したと聞いたのは、今か二十年も前だろうか・・・。

 田舎で燻り続ける祖父の性欲の捌け口が、同じ性癖をもつ、早熟な私に向かったのも仕方のないことだったのかもしれない。

 

 私は小学校五年生、季節は梅雨・・・。そう、あの日を境に、祖父は、早熟な私を大人の男として扱うようになった。一方で、私も祖父との行為に溺れた。

 祖父と最後の一線を越えてから、いや、はっきり書こう、一度祖父の肛門を、まだ幼さの残る我が逸物で犯してからは、むしろ私の方が祖父の身体を強く求めた。なんやかやと理由をつけては祖父と入浴し、祖父の手伝いだといっては、二人にだけになれる時間を作った。

 

 二人の秘密の関係は、十年間にも及んだ。当時十歳、まだほんの子供に過ぎなかった私は、二十歳の青年に成長していた。筋肉質の細身の身体と濃い臑毛は、あきらかに祖父からの遺伝だろう。父親も同じだったからだ。それだけではない。顔も祖父に似ているとよく言われたものだ。

 その頃には私の生殖器はすっかり成熟していた。しかも、祖父の淫水のせいで、まるで年輩者のそれのように、どす黒く変色していた。もちろん、亀頭も完全に露出していた。

「ちゃんと剥いておけ。そうすれば、爺ちゃんみたいな大人のチンボになるからな。」

 私は幼少の頃から、一緒に入浴するたび、祖父にそう諭されて育った。

 そう言う時、祖父はズル剥けの自らのチンボを隠そうともしなかった。私は目の前でブラブラする、その鈍重でグロテスク、男らしい肉棒に圧倒された。しかし、今、思えば、祖父の性癖を考えた時、それは多少大きさを増していたのかもしれない。

 祖父は、逸物も含め、孫を一人前の大人に成長させることに抜かりはなかった。そして、そのための指導にも手を抜かなかった。

 

 祖父と一線を越えてから十年目、祖父は心筋梗塞であっさりと逝った。前日まで元気に農作業をしていたので、誰も迷惑をかけるでもなかった。突然倒れ、突然この世から消えた

 私と祖父の最後の交わりは、祖父が亡くなる三日前のことだった。一緒に入浴した祖父は、口内にたっぷり唾液を溜めて、私のそれを愛おしそうに口に含んだ。そして、最後は肛門に挿入させて歓喜した。

「若い活きのいい子種を、儂のマンコに出してくれ。」

 圧し殺した声で呟きながら祖父はよがった。それは、祖父が私に掘られながら、自らの逸物をしごき、精液を撒き散らす時の決まり文句でもあった。

 私は、その言葉を何度耳もとで聞いたことだろう。自分が放ったその卑猥な言葉に、祖父自身も興奮し、七十代後半になってからでさえ、二度目、三度目の射精に至ることさえあった。

 私は他の人より、数多く射精することができる。今でも毎日センズリするし、日によっては1日に五~六回射精する日さえある。三十代の頃には、初めて訪れたホモサウナで、二四時間に十四回射精したことさえあった。

 ホモという性癖はもちろん、脛毛の濃さ、細身の筋肉質という体型、そして、この数多く射精できると前立腺や睾丸の強さ、これらはすべて祖父からの遺伝なのではないかと思っている。祖父の子種に含まれる、遺伝子は実に強力だったわけだ。

 

 話が脇道にそれてしまった。いずれにせよ、私が物心ついた四~五歳の頃には、もっとも苦しく、もっとも貧しかった開拓時代は終わりを告げようとしていた。丁度、りんご栽培が軌道に乗りかけた頃で、我が家の生活も既に安定し始めていた。

 とはいえ、私が幼少の頃は、まだ開拓時代の面影が随所に残っていた。さすがに既に電気は来ていたが、まだ電話も水道もない生活だった。その二つがようやく開通したのは、東京オリンピックの頃だったと記憶している。私は中学生になっていた。

 水道について記せば、それがなかった時代、風呂桶に水を満たすのは重労働だった。重い桶を肩に担いで井戸と風呂場を何往復もするのである。

 特に冬場は本当に辛い仕事で、手はアカギレやひび割れだらけになった。しかし、それで終わりではない。薪に火をつけ、お湯が沸くまで火の番をしなければならないのだ。

 今ではスイッチ一つで済んでしまう作業だが、当時、入浴まで行き着くためにかける手間と暇は、それは膨大なものだった。

 だから、風呂は毎日沸かすわけではないという家が多かった。我が家も私が幼少の頃は、三~四日に一回が関の山。それも二回目は、湯船に残ったお湯に水を足して沸かし直すのが当たり前だった。水を運ぶ手間だけでなく、その方が薪の節約にもなるからだ。

 しかし、私が第二次成長期を迎え、身体が大きくなり始めた頃から、我が家は農作業のある時期だけは、二日に一遍、時には毎日風呂をたてるようになった。薪の節約もあるから、二回目が沸かし直しなのは変わらなかったが、やはり、手間は一気に二倍である。

 決して水道ができ、ガス釜に交換したわけではない。水道はそれから数年後に開通するのだが、外の風呂小屋にも水道が敷設されたのは、私が高校の頃。風呂を新築し、ガス釜に変わったのに至っては、私が成人してからの話である。

 我が家の風呂が毎日になった理由は簡単だった。私が成長したからである。早い話、風呂を沸かす重労働を私が一手に引き受けたのだ。引き受けたというより、私から積極的にかって出たといった方が正しい。水運びだけではない。風呂掃除に火の番。さらには薪作りまで受け負ったのだ。

 これは家族を心から喜ばせた。特に一日中、屋外で肉体を酷使し、汗と土まみれになる祖父と父の喜びようと言ったらなかった。屈強な二人にも、疲れきって帰宅した後、毎日、風呂の準備をする気力は残っていなかったのだ。

 いずれにせよ、私は小学校から帰宅すると毎日風呂の準備をしたが、それは高校を卒業するまで続いた。

 はっきりとした記憶はないが、例えば、中学時代なら、下校になるのは通常四時半過ぎだっただろう。当時は部活動の黎明期だったが、私は所属する気はなかったから、すぐに帰路につけた。

 ちなみに私より数年先輩になると、部活動など影も形もなかったという世代、数年後輩になると部活動はあるのが当たり前という世代である。

 部活動に入らないのは、家の手伝いがあるというのが表向きの理由だった。実際、農作業を手伝う日も多かったが、一番は風呂の準備、いや祖父とのセックスの準備である。

 私は仲間と一つの活動をするより、祖父との入浴、いやセックスを選んだわけだ。性欲には勝てない。

 そんなわけで、下校と同時に帰路に着く毎日だったが、村の中心部に比較的近いとはいえ、中学校から開拓地までは四㎞あまり。急いでもゆうに四十分以上はかかる。

 当時、我が家の風呂は母屋の隣に設置された小屋の一部だった。家に着いたら、カバンを置くのも早々に、そのまま風呂小屋に直行し、風呂の準備に取りかかる。湯船などを洗い、水を運び、火をつける。風呂が沸くのは七時に近い。しかし、夏の陽は長く、まだ辺りは充分な明るさだった。

 祖父と父はまだ畑仕事である。二人が帰宅するのはそれから。日によっては八時近いこともあった。

 私をその行動に駆り立てたのは、言うでもなく性欲である。決して両親の負担を減らしてやりたいとか、親の喜ぶ顔が見たいとかった、美しい思いやりからではない。

 確かに激しい肉体労働で疲れ切った二人の喜ぶ顔が見られるのは、私にとっても嬉しいことだった。しかし、一番の原動力は風呂を沸かせば、祖父と風呂に入れるという期待感であった。

 いや、それは詭弁であろう。懺悔とともに、包み隠さず告白すれば、当時の私の頭の中にあったのは、風呂を沸かせば、祖父と入浴できる。祖父と入浴できれば、風呂場で祖父と肛門性交できる。祖父の肛門に、生で我が分身を挿入し、祖父の体内の奥深くに精液を放出できる。ただ、その一点だけだった。

 そのためなら、誰もが渋い顔をする風呂の準備さえ、少しの苦でもなかったのだから、人間の性欲には、業の深ささえ感じてしまう。

 

 私が高校に入学してまもなく、祖母が亡くなった。祖父も既に七十代になり体力が落ち始めていた。

 私は高校を卒業してからも、祖父としばしば入浴していた。さすがに中学生になってから後は、幼少の頃のように毎日というわけにはいかなくなっていたが、

「爺ちゃん、今日は疲れただろ。背中流してやる。一緒に入ろう。」

 などと家族の前で演技して、月に一、二回は入浴、いやセックスの機会をもった。

 さすがに同じ男とのセックスは頻度も下がる。それはホモの世界ではごくありふれたことだ。最初の頃のように頻繁にということはなかったが、今、思えば、家族に不信感を抱かせない、適切な頻度だったといえるだろう。

 そんな時、祖父は、

「ほんとか。こんな爺ちゃんのこと、いつもありがとうな。」

 などと嬉しそうに答えたが、それはすべてが演技というわけではなかっただろう。成長した孫に背中を流してもらえる喜び、そして、自分の性欲を満たせる喜び。それらが祖父の表情や受け答えをごく自然なものにしていた。

 ただ、その瞬間、二人の間にはねちっこい視線が走った。お互い交尾することを了承した合図である。しかし、それに気付く家族などあるはずもなかった。

 何しろ中学時代の私は学校の成績は常に一番、礼儀正しく、家の手伝いもよくする。そんな真面目で温厚な優等生で通っていたのだ。

 高校生になると、さすがに成績は進学校の中では、ごく普通の人になり下がったが、その代わり(?)、老いが見え始めた祖父のことを大切に扱うようになった。両親にしてみれば、自慢の息子以外の何者でもなかったに違いない。

 実は優等生というのは疲れるものだ。成績だって守り続けるためには、人一倍勉強しなければならない。人当たりもよくしなければならない。先生の信頼の表れなのだが、いろいろな役も回ってくる。それをこなすのだって大変なことだ。優等生の実態、それは内心のしんどさに負けそうな自分を奮い立たせる毎日である。かといって、その地位を捨てるだけの勇気もなく、決断もできない。

 優等生のプライドとそれを維持するプレッシャー。正直にいえば、その二つの板挟みの間で、時には優等生の座を投げ出してしまいたいと思うことだってあった。しかし、私にはそれはできそうもなかった。

 両親を裏切ることはできなかったし、祖父だって、やはり内心ではがっかりするだろう。そう考えた時、私に残された選択肢は、優等生であり続けることしか残されていなかった。

 結局、私は中学、高校を通し、いや、小学校から数えたら十二年間にわたって優等生を演じ続けた。それができたのには、もう一つ理由がある。それは私の誠実さというよりも、心の奥底に淀む、鼻持ちならない傲慢さ故だった。

 それは、恐らく誰しもが多少なりとも心の奥底に隠しもっているだろう、人としての負の部分の話である。

 その頃の私の心の動きを正直に書けば、同年代はもちろん、周囲の大人さえ自分より格下な存在としてとらえていたことを懺悔する。今、思えば、増長し切った小生意気な俗物以外の何者でもなかろう。

 当時の私は、しばしば自分自身に、心の中で言い聞かせていた。

「周囲のガキはあれこれ言うが、自分はもう大人なんだ。自分が広い心で受け止めてやるしかない。」

 もちろん言葉にしたことは一度たりともない。しかし、それが当時の私の本心だった。

 ここで最悪ともいえるのは、その「ガキ」の範疇には、同学年の連中だけでなく、大人、もっと言うと、教師まで含まれていたということだ。私は、まだ子供以外の何者でもないような級友たちを相手にするのと同じ感覚で、周囲の大人にも接していた。しかも、表面上は世間でいう「善い子、誠実な子」の仮面を被って、それを実践していたのだから、その傲慢ぶりには我ながら呆れるばかりだ。

 そんな私が、学校生活で起こり得る、たいていのことに耐えられるのは、ある意味当然だった。

 表面上はともかく、私の内面をそこまで増長させたの何だったのか? それは、実は祖父との激しいセックスであったろうと思う。性の面で圧倒的に周囲の者より先んじていることを、私は理解していた。大人でさえ足元にも及ばないほどの激しいセックスを知っているという優越感。それを思うたびに、私は周囲の大人を見下し、内心でせせら笑っていた。

 激しいセックスとは具体的に何なのか。この問いに対する答えは強烈そのものだ。私は十代にして、ディープキス、尺八、兜合わせ、さまざまな体位、肛門性交、種付け、顔射、複数での交尾・・・。ありとあらゆることを祖父から教えられ、体験していた。既にセックスに対する私の感覚は麻痺しており、それらの刺激だけでは十分な満足を得られなくなっていた。そんな私に残された、さらなる刺激といったら、もはや乱交や輪姦しかなかった。

 家族にしても、むしろ私と祖父が一緒に入浴するのを望んでいたふしもあった。祖父も七十代半ばになり、両親は、一人での入浴を心配し始めていた。六十代のうちは何の問題もなかったのだが、七十歳を過ぎると、人は外見も体力も、視力さえも急速に衰え始める。

 何しろ、今のユニットバスやタイル張りの風呂と違って、寒い、危険、古い、この負の三拍子が揃っているのだ。転倒でもしてケガをしたら、そのまま寝たきりになることだってある。

 しかも、我が家は総勢十人の大家族ときている。二人で入れば、それだけ時間も短縮されるのだ。家族にしたら喜ばしいことばかりであった。

 結局、年頃になっても、私が祖父と入浴するのを怪しむ者など誰一人としていないことになる。・・・・そう信じたいし、信じている。

 

 さて、実際の私と祖父の秘め事のきっかけは、私が小学校五年生の梅雨どきに遡る。

 当時、祖父は六十五歳。日々の肉体労働で鍛えられた身体は、細身だが逞しかった。私も父も同じような体型である。基本的に食べてもあまり贅肉にならないのだ。

 また、これも我が家の家系なのだが、祖父の太ももや脛は濃い体毛で覆われていた。私も父も臑毛や腕毛はとても濃い。ところが、胸毛になると話は別で、三人ともまったくなかった。おそらく、これも遺伝なのだろう。

 同性愛は隔世遺伝するという説を読んだことがある。そのせいかは知らないが、祖父も私も真性のホモだった。父はおそらく同性愛の傾向はなかったと思う。確証があるわけではないが、仲間同士で感じる、あの独特の雰囲気を父からはまったく感じたことがないからだ。

 祖父と孫が揃って同性愛者。しかし、私が知る限り、家族の誰もその事実に気づいてはいなかった。祖父は自らの同性愛をおくびにも出さず、異性愛者を生涯にわたって演じ続けた。ひたすら性癖を押し隠す日々だったにちがいない。

 一方、私はどうかといえば、まだほんの十歳のお鉾に過ぎなかった。しかも、三月生まれの私は、十歳になって、たった数ヶ月しか経っていなかったことになる。

 とはいえ、私は元来早熟で、小六の頃には高校生に間違われるほどだったから、この頃には身体つきも大人のそれに変わり始めていた。当然、既に陰毛も黒々としていたし、そればかりか、亀頭の反転さえも始まっていたのである。

 今、思い返しても、現代っ子にも珍しいほど、私は肉体的には早熟な子供だった。しかし、そこはまだ十歳、正直、性には疎かった。

 

 元来、田舎の百姓は猥談が大好きである。私も、性の話題で何度もからかわれたことがある。長い冬、一m近い雪に覆われ、屋内に閉じ籠る日が続く。そうなると大人の男が話すこと、やることといったら、女の話題とセンズリのみである。女となると実態が存在しないことも多いから、想像だけがたくましくなりがちだが、センズリとなると、途端に話が生々しくなる。

 そういえば、冬季のみ集落の外れに設けられる、共同作業場に遊びに行った時、こんなことがあった。

「ああ、暇だな。早く雪が融けて、思い切り外を走りたいよ」

 私が思わずぼやいた。すると、藁細工を作っていた友人の父親が、

「そんなに暇ならチンボでもいじくってみろ。もういじくってもいい歳だぞ。」

 といって下衆た笑いをしたのである。私以外の大人はニヤニヤ笑っていたが、私は意味がわからずポカンとしていた。

「どういう意味?」

 私が尋ねると、友人の父親は、

「なんだ。まだ知らねぇのか。まぁ、まだ毛も生えてねぇんじゃ仕方ねぇか。そのうちわかるこった。」

 そう答えて澄ました表情を浮かべた。ますます混乱する私を見て、周囲の大人は、

「気持ちええぞ~。出る前に出しちまえ。」

 などと口々に囃し立て、意味深に笑うのである。これを本来、充分な分別があるべきはずの四十代の大人がやるのだから、まったくもって田舎の百姓親父は下品で、品性の欠片もない。

 もっとも、当時の田舎ではエロ本などあるはずもなく、こういう大人たちこそ、貴重な性情報の入手先だったのも事実ではある。

 そうはいっても、大人たちの会話には、大人にしかわからない淫語が多く、結局、私は急速な肉体の成長に、性知識が伴わない日々の中、急速に成長する自分の身体をもて余すようになっていった。

 そんな私が性器へのわずかな発毛に気づいたのは、小学四年の一月、新年を迎え三学期が始まって間もなくのことであった。それは、目を凝らさねば、毛ともわからないような、ほんの数㎜の代物が、まばらに生えているだけだったが、明らかに今までは存在しないものだった。

 それを見つけた時、私の脳裏に浮かんだのは、入浴の時に何度も目にしてきた、祖父の雁首の張った陰茎と臍にまで届くかと思われる陰毛だった。

「俺もああなるんだろうか。俺も爺ちゃんみたいな身体になりたい。爺ちゃんみたいなチンボをぶら下げた男になりたい。」

 そんなことを考えた。それだけではない。

「爺ちゃんは何歳の時に毛が生えたんだろうか。爺ちゃんのチンボを触ってみたい。」

 数々の疑問や欲望が、私の頭の中に浮かんでは消えていく。気が付くと股間が硬くなっていた。

 幼少の頃から、一緒に入浴した祖父に、包皮を反転させて洗っておくよう躾られていたから、小学校低学年の頃には、私のそれは手で包皮を後退させれば、容易に亀頭を露出できるようになっていた。さらに、発毛をみた頃からは、次第に勃起時に頭を出す部分が増えていき、やがて、小六になる頃には完全に亀頭が露出した状態で勃起するようになっていた。そして、中学二年の時には、平常時から完全に露茎するようになったのである。

 祖父の躾も、どんどん卑猥になっていった。幼少時には、剥いて洗っておくようにと言うだけだったが、私と秘密の関係ができてからは、言葉も露骨になった。祖父は私の陰茎をぐいっと握って、

「だいぶもげてきたな。あと少しだ。」

 そう言って、私の性器と祖父の性器を重ねて洗うことさえあった。

 今、思えば兜合わせである。当然、私の陰茎はすぐさま勃起し、祖父のそれも、みるみるうちに硬さを増していった。

 しかし、発毛を見つけた時、私はまだ九歳。硬くなった後、何が起こるかさえ知らなかった。ましてや、男が一人の時、それをどう慰めるか。その術など知るはずもなかった。

 こうして私の身体の奥底に、欲求不満だけが、溜まり続けていくのだった。

 

 春、雪融けの季節の訪れと同時に、私は、十歳の誕生日を迎えた。ちなみに、私は三月のお彼岸の生まれである。

 ほんの数ヶ月前、わずかな兆候にしか過ぎなかった股間の茂みは、誕生日を迎えるのを待っていたかのように、みるみるうちに密度を増していき、程なく遠目にもそれとわかるまでになった。

 やがて、桜の季節、私はついに精通を迎えた。ちょうど学校の校庭の桜がほころんだ頃だったと記憶している。

 私の住む辺りでは、近くの比較的大きな町でもソメイヨシノの開花は四月中旬である。開拓地は標高が八五十m、学校は六五十m程。それぞれ町よりも五百~三百mは高い。普通、ソメイヨシノは標高が百mあがるごとに二日程度開花が遅れるといわれているから、私の初めての射精は、四月二十日頃だったのかもしれない。残念ながら、そこまではっきりした記憶がない。

 ある朝、溜まりに溜まった精液は、出口を求めて、本人の意思に関係なく目覚めと同時に溢れ出た。そう、私は夢精したのである。

 以後、定期的にそれを繰り返すようになった。しかし、肉体は成熟を始めても、性知識に疎かった私である。子種で下着を汚す際の、なんとも心地よい感覚の中で目覚めた時も、ただ訳がわからないだけだった。しかも、元来、陽気で細かいことにこだわらない性格も災い(?)して、大して気にすることもなかった。

 ただただ、塵紙で後始末をして受け流す。そんなことを繰り返していたのだ。しかも、汚した下着に至っては、そのまま洗濯に出していたのだから、我ながら恐れいる。

 

 これは後に祖父に聞いた話であるが、ある日、祖母がゴワゴワになった下着(もちろん当時は越中褌ではない。)を見つけ、孫の夢精に気づいたらしい。というのも、両親と祖父は朝早くから農作業に終われていたので、洗濯は祖母が担当していたからだ。そして、それを祖父にそれとなく伝えたのだ。

 こうして祖父から、

「久しぶりに一緒に風呂に入ろう」

 と誘われたことから、物語が始まる。

 幼い頃はしばしば父や祖父と入浴していたが、股間に発毛をみた半年前頃から、何となく気恥ずかしくなり、私は一人で入浴するのが常になっていた。体も急激に大きく、逞しくなり始めていたから、一人で入浴する旨を伝えた時も、家族は訳知りだっただろう。

 とはいえ、しばしば下着が汚れているとなると、ほってもおけまい・・・と祖父は考えたのではないかと推測する。もっともこの時点では、祖父も、私の発毛を確認し、人生の先輩として、健全な助言だけをするつもりだったらしい。

「朝、下着が汚れていたら、そっと自分で洗っておけ。」

 おそらくそんな助言が想定されていたのだろう。もしも、そんな類の話をされても、私は素直に受け止めていたはずだ。なぜなら、小学校入学前から、

「風呂に入ったら、チンボの皮をきちんと剥いて、洗うんだ。」

 祖父はそう言って、自らの陰茎を洗って見せてくれた。そして決まり文句が続くのだ。

「ちゃんと剥くようにしておけば、爺ちゃんみたいに皮が完全に剥けて、戻しても戻らんようになる。」

 そんなだったから、私は祖父によるM検(?)にはすっかり慣れていた。事実、お陰で小学校五年の時には、亀頭の反転が少しずつ始まっていたのだから、祖父には感謝すべきだろう。

 しかし、半年ぶりに一緒に入浴してみると、私は祖父の想像以上に、肉体だけは男になっていた。

 いよいよ物語は本題に入る。

 次章以降は、いまから六年前、私が痔ろうの手術で入院している際、暇を持て余す中、病室のベッドの上に横になりながら、スマートフォンを使って書いたものを、今回、加筆、修正したものである。

 そのため一章、二章と内容がだぶっている部分があることを了承されたい。物語の発端は、小学校四年の冬、新年が明けた大正月であった。