里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農夫の性の記録

第五部

熟年期

 

二 福島県の農夫

 

 今から十七年前、二〇〇三年に話はさかのぼる。当時、私は五十歳。それまで二十八年間勤めた職場を早期退職して半年程が過ぎていた。退職の裏にあったのは、実父の老いであった。父が健在のうちに、本気で農業を引き継ごうという思いが、天職とまで自負していた仕事をリタイヤする決断に至らせた。

 退職は二〇〇三年の年度末。三月生まれの私は五十歳になったばかりだった。退職と同時に父を手伝っての農作業が始まった。それまでも手伝うことはあったが、すべてを自分中心で切り盛りするのは、手伝いとは訳が違う。毎日、へとへとに疲れ仕事を辞めたことを後悔することも多々あった。

 そんな中、唯一の楽しみはホモ雑誌とせんずりであった。あれは夏の終わり頃だったろうか。某ふけ専ホモ雑誌の投稿欄の、ある人物が私の目に留まった。

 東北地方、福島県は〇〇市に住む農家の親爺で六十七歳。専業農家だという。

 迷ったあげく私は回想を依頼した。ただし、携帯電話のメールアドレスと電話番号を同封し、

「家族があるので、封書ではなく、まずはメールか電話で連絡をいただけないか・・・。」

 と書き添えた。まもなく、件の親爺さんからメールが届いた。

 読むと、越中褌常用であること、東北地方の専業農家であること、ズル剥けであること、筋肉質で胸板が厚いこと、ただし体毛だけは薄いのでご希望に添えるかどうか・・・といった内容が、あまり上手でない文章で書き綴られていた。

 何回かのメール交換ののち、改めてお互いの電話番号を交換し語りあった。親爺さんは、この道に入った時、既に四十歳を過ぎていたという。たまたま公園のトイレで拾った「薔薇族」がホモ人生の始まりだったそうだ。薔薇族でわかると思うが、親爺さんは自分より若い人がタイプだった。当時は二十代の若者が好きだったそうである。

 しかし、自分の加齢とともに対象年齢もあがっていった。今は四十代後半から五十代前半が好みだという。ちょうど二十歳程年下が好きなのだろう。

 また、完全なタチで肛門性交を好み、相手を痛がらせずに挿入するのが得意だとも言っていた。今でも、多い日は1日に五回もセンズリをすることがあるという。ムラムラくると、田畑の物陰や森に入って褌を下げてしごきたてるのだそうだ。回数ができる点は私と共通している。話も合いそうだった。

「俺は自分の子種ぇば、相手(あいで)の尻の奥(おぐ)深ぐに、思いっぎり出しだ瞬間(しゅんがん)が、生きでで一番(いぢばん)幸せだっで、感(がん)じんだ。」

 と東北訛り丸出しの朴訥とした口調で語られると、それだけで私の陰茎はキトキトに勃起した。もちろん親爺さんのチンボも完全勃起していたことだろう。初めて電話した日も、最後はお決まりのテレホンセックスである。

「雄坊って呼んでええが? 雄坊と、おまんごしだい。」

「雄坊、顔(がお)にがけでいいが?」

「俺の子種(ごだね)、受げてぐれ」

 などと卑猥な言葉を連発するのである。田舎の農家の親爺の口から出たとは思えない言葉の連続に、私も大興奮である。

「俺も親爺さんの顔にかけたい。」

 などと、こちらの言葉もエスカレートの一方だった。間もなく、親爺さんが先に、

「雄坊、行(え)ぐ、行(え)ぐ。」

 と叫び、一気に静かになった。

「出たのか?」

 と聞く私に、

「出だ・・・。毎日(にぢ)センズリごいでるがら、少しだども・・・。今(えま)、褌でふいでる・・・」

 それにしても驚いたのは、親爺さんの精力の強さである。これで終わりではなかったのだ。たかがテレホンセックスなのに、親爺さんはすぐに回復。なんと三回連続で射精したのである。しかも、全く休憩なしであった。抜かず三発とはあのことであろう。

 親爺さんはキスが大好きとのことなので、親爺さんの射精後、私が

「〇〇(苗字)さん、キスしてくれ~。〇〇さんならもう一発できるから。」

 と喘ぎながら、わざと電話口で唾をすする音をさせると、

「雄坊、素敵(すでぎ)だ。もう大丈夫だ。まだ、勃(だ)っでぎだがら。」

 などと言って、三分もしないうちに、再びしごき始めた。これを繰り返すこと二回。ついに私も射精。親爺さんも、

「さずがにもう無理だ・・・。ありがどう。」

 この言葉を残し、電話は静かに切れた。

 その後も親爺さんと何回もテレホンセックスをしたが、その都度、三回、多い時は四回連続で射精するのである。

 

 数回の電話でのやり取りの後、私は勇気を出して、

「顔写真を交換しませんか。」

 と持ち掛けた。向こうは構わないという。

 当時、既に携帯電話に写メ機能はついていたと思うのだが、当時の私は携帯電話を購入したばかりで、その機能を使いこなすことができなかった。親爺さんも同様であったので、結局、郵便というアナログな方法を取るしかなかった。しかし、妻子もちの場合、これはなかなか勇気がいる。私の妻は、他人あてに届いた封書を開くような女ではなかったが、万が一のこともある。私は手紙は入れず、写真は袋に入れてから封書に同封して欲しいと頼んだ。差出人は福島県とせず、私が住む〇〇県としてもらい、先日まで勤めていた仕事関係を連想する名前にしてもらうようにした。そして、たまらなく見たかったのだが、性器の写真は同封しないで欲しいことも確認した。もっとも、私は自分の陰茎の写真を同封したのだが・・・。

 届いた封書を開いた瞬間の喜びは忘れることができない。写真には、ワイシャツ姿でネクタイを締めた初老の男が写っていた。お世辞にもネクタイ姿が似合っているとはいなかったが、農夫として五十年以上生きて来たのだから無理はない。後で聞いたところ、農業関係の会合で京都に行った時に撮影したものだという。

 筋肉質だとは聞いていたが、余分な肉のない、ややこけた顎のラインは私の好みであった。「体毛は薄い。」という言葉の通り、髭は薄いようだったが、やや白髪のまじった髪といい、その風貌は充分に私を満足させるものだった。

 数日後、写真が届いた旨を電話で知らせると、親爺さんにも私の送った写真が届いていた。私は下半身の写真も同封していた。

「素敵(すでき)だ。興奮(ごうふん)しで写真を見ながら何回も出しだ。」

 親爺の言葉は私の言葉でもあった。その夜のテレホンセックスはいつになく激しいものとなった。

 そんな親爺さんといよいよ会うことになったのは、その年の年末のことであった。東北の山奥の温泉での密会であった。当時、まだ健在だった妻に、私は尋ねてみた。

「退職した後、一人旅をしたかったが、すぐに畑仕事が始まってしまいできなかった。年末に一週間ばかり東北の湯治場をめぐってきたいんだが、ダメか?」

「骨休めもかねて行ってらっしゃい。」

 心配するほどのこともなく、あっさりお許しが出た。

 その裏には過去の激務があった。仕事をしていた頃は、とにかく多忙で、毎日帰宅は九時過ぎ。特に五月~十月までは土日も早朝から仕事で、ほとんど休むことができなかった。過労で倒れた年も何回かあり、

「少しは身体のことを考えて。」

 と言われたものだが、仕事が終わらないのだからどうしようもない。さすがに私の職業が何だったまでは書くことができないが、私だけでなく、同年代の同僚すべてが似たような状況だった。

 そんな中、妻は近所の仲間と旅に出ることもあったので、後ろめたい気持ちもあったのだろう。

 こうして件の親爺さんとの密会となるのだが、親爺さんは、その時もすごい精力で私を驚かせることになる。