里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農家の性の記録

第二部

思春期

 

二 性教育の時間

 

 昭和四十年四月、私は地元の中学校に入学した。村内の三つの小学校から生徒が集まるので、私の生活圏は一気に広がった。それまでは開拓地、本村、学校のある郷、この三つの地域内でほとんどの営みが成立可能だった。世界が広がることは不安ではあったが、同じ位の期待感もあった。

 中学校で私はT夫と同じクラスになった。T夫の家は本村の農家で、小学校も一緒だった。T夫は末っ子だったので、彼の父親は既に五十歳を過ぎていた。私にとって、年齢的に好もしい親父であったのはもちろんだが、日本人には珍しい、ブラシのような胸毛の持ち主でもあった。

 地域の湯治で裸を目撃して以来、私は何度それを思い出しながら、センズリに及んだことか。時にはT夫とT夫の父親が、あるいは祖父とT夫の父親が、そして、私とT夫の父親がアナルセックスをしている場面を想像しながら、自らを慰めることさえあった。そんな時、想像の中で私はT夫の父親に肛門を激しく犯されていた。

「もう一度、T夫の親父の裸を見たい。」

 それが、当時の私の願望の一つであった。その後、小学校時代は、さして仲良くもなかったT夫と親しくなっていくのだが、私の中には、T夫と付き合えば、彼の父親と接点を持つことができる。そんな打算も働いていた。とにかく、T夫と同じクラスになれたことで、私の心は弾んだ。

 一方、H樹、A介、私は、それぞれ別のクラスになった。H樹とA介はべったり過ぎたから、別のクラスになるのは予想がついた。私とH樹がクラス編成で分けられたのは、学力の問題だったのだろう。優等生だった私同様、実はH樹も秀才だったのだ。

 とはいえ、そもそも四クラスしかないのだから、最初から確率は四分の一。ほぼ統計学通りになったといえるだろう。

 ところで、「体育教師」、この言葉に興奮を覚えるケの男は多いことだろう。私の中学時代の担任は、何を隠そう四十代半ばの体育教師であった。なにか艶っぽい関係があったというわけではないが、仮に名前を早瀬先生としておこう。

 入学式の中で、担任発表があった。

「一年二組、早瀬先生。」

 学校長のアナウンスで、整列した私たちの前に立った男性の顔をみて、私の心が躍った。それが、この後、三年間担任をしていただくことになる早瀬先生だった。

 他県は違うようだが、私の住む県では、二十年程前まではクラス替えがなく、担任も多くの場合、同じ先生が三年間持ち上げるのが普通だった。実際、私はもちろん、上の娘二人も、中学校でのクラス替えを経験していない。

 だから、担任と波長が合えばよいのだが、相性がどうにも悪い場合、生徒にとっても先生にとっても悲惨な結果となる。逆に力がある先生が担任した場合、後になればなる程、クラスがよくなっていく面もあった。

 結果を先にいえば、早瀬先生は後者であった。しかし、そんなことは結果論であり、当時の私に、そんなことがわかるはずもなかった。

 私は、自分の担任となる目の前に立った男性を観察した。四十代だろう。体育科だというだけあり、丸刈りである。入学式のこととて背広を着ているが、明らかに運動着の方が似合いそうな親父である。

 入学式後、各教室に移動しホームルー厶が始まった。まずは、担任が自己紹介をした。担任の名前は早瀬剛といった。先生は四十五歳、担任を受け持つのは八クラス目だという。

 私は改めて早瀬先生の顔を見た。日に焼けた顔に丸刈りがよく似合う。少し垂れ目で耳が大きかった。体育科にありがちな厳つい風貌だが、威圧感はない。ユーモアとウィットに富み、心底は優しい男であることが表情に透けて見える。

 自己紹介の後、早瀬先生は生徒一人一人にノートを一冊ずつ配った。

「明日から、毎日、日記を書いて提出してほしい。内容は何でもいい。その日にあったこと。その日に考えたこと。困ったことや悩みがあったら、それを書いてもいい。長く書く必要はない。その代わり毎日書き続けることが大切なんだ。毎回、読んで返事を書いて返却するから。」

 つまり、担任と教え子との交換日記というわけであった。

 

 次の日から、私は一日も欠かさずに日記を提出した。女子はそうでもなかったが、周囲の男子たちの多くは、内心めんどくさがっていたし、中にはさぼって出さなくなる者も何人もいた。しかし、早瀬先生は何も言わなかった。

 出さなくなる者がいることも、見越したうえで、

「もしもクラスに三年間書き続ける者が何人かでもいれば、それは意味のあることだ。」

 とでも思っていたのかもしれない。

 中学時代、最も親しく付き合うことになるT夫は、勉強があまり得意ではなかったから、この日記は苦痛で、悩みの種だったようだ。書くことが苦手なのに真面目だったので、さぼることもできず、負担が大きかったのだろう。その点、私は作文が得意だったから、何の負担も感じなかった。

 私が優等生であったことは、これまでも書いてきたが、実は学科の中でも、国語と社会科が一番得意で、文章に関して言えば、読むのも書しくのも大好きだった。小中高の十二年間を通し、しばしば作文を褒められたものだ。

 多くの方々から頂いた「開拓地にて」の感想に、「情景が目に浮かぶようで、読みやすかった」という内容がとても多いのは、実に嬉しい限りである。これは、私が作文が得意だったことや、文学少年だったことが、恐らく大きく影響しているのだろうと思う。

 私は休み時間も、体育館でみんなと遊ぶより、一人、図書室で次に読む本を探していることの方が多いような少年だった。休み時間、便所でセンズリに耽ることも多く、とにかく一人で時間を過ごすのが好きだった。しかし、陰気で内気なタイプかといえば、決してそんなことはなかった。真面目ではあるが、陽気で細かいことは気にしないタイプであった。

 それは今もかわらない。私のツイッターをフォローしてくださっている方ならお気づきだろう。孫から見たら、私は面白い爺ちゃんで、婿さんから見たら、大らかなお義父さんなのである。

 私が一人を好んだ裏に、性癖が影響していたのは間違いがないだろう。同性愛者という秘密を抱えていたので、多くの級友たちと付き合い、彼らに話をあわせて、好きな女性生徒の話をするのが苦痛だったのだ。T夫は、どちらかというと硬派で、至って真面目な少年だったから、異性の話などほとんどしなくて済み、付き合っていても気楽だった。

 ただ、学年全体を見回してみた時、やはり私のような文学少年はごく僅かで、周囲からは、身体はごついのに、本ばかり読んでいる変な奴と思われている節はあった。

 一方、T夫は絵が好きで、休み時間も、よく自席で太平洋戦争中の戦闘機の絵を鉛筆で描いていた。そんな時、大抵、私は彼の隣で本を読んでいた。

 大人になってから、T夫本人に言われたことがある。

「雄ちゃんはいつも本を読んでいた。俺は本、嫌いだった。何の共通点もないのに、俺達、なんで気があったんだろう。」

 そうだろうか。私に言わせれば、孤独を好むという点で、二人は根源的に似ていたと思う。そのことをT夫に伝えた時、私は心の中で言葉を続けた。

「それと、T夫とお前の父さんの容貌や体型が、俺の好みだったからだよ。」

 私やT夫のような男子に対し、周囲を見渡せば逆のベクトルの連中が大半だった。そんな中、級友を押さえつけ、陰茎をしごきたてて衆人環視の前で射精させてやろうと、虎視眈々と機会を窺っていたのが、例のH樹である。彼に追従し、H樹の手下のようになっている者も多かった。正直、学年全体に漂う下品のレベルが、想像できようというものだ。

 私はエロは好きだが、いじめのようなことは好まない。それに、広く浅く付き合うよりも、T夫と狭く深く付き合っていた方が、T夫の父親とも接点が作りやすそうである。そんな私にとって、友人はT夫だけで充分だった。

 こうして学年が上がれば上がるほど、歳を取れば取る程、私は我が道を進むようになっていった。娘は私のこの辺の性質を頑固と受け取っているようだ。ちなみに、孫二号が、このタイプである。

 ここまで、当時の田舎の子供たちの雰囲気について語ってきたが、確かなことが一つある。それは、真面目であれ不真面目であれ、意外と田舎の子は性知識の面で早熟な者が多かったことだ。 

 両親のセックスの現場を見たことがある者も多かったから、みんな早くから男と女の間で何が行われるか理解していた。男と男が何をするのかさえ、知っている者がいた。

 それらの裏には、年長者や先輩の存在があった。からかい半分に性知識やセンズリの仕方を、若輩者に教えるのである。実際、中学の友人には、近所の先輩やおじさんにセンズリのやり方を教わったという輩が何人もいた。

 私のように、何も知らずに精通を迎える者は、奇跡的な存在ともいえた。いや、私の場合は精通が早すぎただけのことだろう。

 実際、私だって意味はわからなかったものの、卑猥な手付きで上下運動を再現させながら、

「センズリ覚えたか?」

 などと、近所の親父の、下衆なからかい対象になることが何度もあった。

 もしも、私の精通があと二年遅ければ、つまり、小学校六年生であったなら、すべてを理解し知識的準備ができた上で、その日を迎えることができただろう。

 後でわかったことだが、多くの同級生が小六で自慰を覚えていた。もっと言えば、クラスの何人、もっと言えば誰と誰がセンズリを覚えていたか。実は私は、当時、そのほぼすべて把握していた。なぜならH樹が、それらを一覧表にまとめており、それを何度も見せられたからだ。

 一覧表のT夫の「チン毛」、「センズリ」の欄にも○が付いていた。H樹は、T夫の精通についても、本人から体験を聞き出していた。

 T夫の精通も風呂場でのことだったらしい。H樹によると、小学校六年の夏休み、T夫は風呂で自らの勃起した逸物を戦闘機の操縦桿に見立て、ゼロ戦の操縦を再現していたらしい。すると、突然、気持ちよくなって射精したという。

 私はこれを聞いて、T夫には悪いが、思わず吹き出してしまった。なぜなら、先にも書いたように、休み時間、T夫はいつも戦闘機、しかも、大抵はゼロ戦の絵を描いていたからだ。

 ちなみに、T夫は建国記念日が誕生日である。つまり、彼の精通は十一歳だったわけだ。私はこれについて、T夫に聞いてみたことはない。しかし、H樹のことだ。私の精通についても、知っていることをT夫に話していたに違いない。

 自分の小学生時代、中学生時代の思い出を書いていると、孫一号や彼の友人など、今の小中学生は実に上品だと感じる。生と性を生き抜くバイタリティに欠ける面は否めないが、少子高齢化の中、丁寧に指導されて育ってきたという社会背景があるのだろう。これも含めて、それが今という時代なのかもしれない。

 

 ところで、入学して三ヶ月も経った頃だっただろうか。保健体育の授業で性教育が行われた。当時、体育と家庭科の授業は男女別に実施され、その代わりニつの学級の男子が一緒に授業を受けることで、教科担任の授業数を相殺していた。私の学級の男子の保健体育の授業は、H樹の学級の男子と一緒だった。

 件の性教育であるが、昔のこととて大した内容ではない。セックスそのものを扱うのではなく、思春期の身体の変化についての学習であった。授業をしてくれたのは、もちろん早瀬先生である。

 人間には第二次性徴期があるとか、身体が成長すると精通があるとか、梅毒や淋病など性行為を介在して広がる感染症があるとか、その程度の内容である。

 既に祖父とのホモセックスの中で、種付けや顔射、祖父のトコロテン射精まで目のあたりにしていた私にとって、大部分は改めて学ぶほどの内容ではなかったが、性感染症の話だけは全く知らない知識であった。

「もしも爺ちゃんが、性感染症に罹っていたら、俺も罹っているだろうな・・・。」

 早瀬先生の説明を聞きながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。あれだけ激しい行為をしていて、万が一の場合、感染リスクを回避できた可能性など、あり得ない。しかし、不思議と怖くはなかった。運命共同体になるとは、そういうことなのだろう。

 

 件の性教育に話を戻そう。先にも書いた通り、当時、体育は完全に男女別々に行われていたから、教室内は田舎の悪ガキばかりであった。基本的に悪気があるわけではない。単に下品が大好きなだけなのだ。

 精通のくだりになると、

「どういうときに出るん?」

 男子の何人かが、ニヤニヤしながら知っていて、早瀬先生に聞くのである。早瀬先生が、

「寝ている間に出てしまったりする。」

 と説明すると、

「こすっても出るよなぁ。」

 と答えた生徒がいた。H樹であった。あえて聞こえよがしに周囲と言葉をかわす始末で、ちょっと悪質ではないかと私は不快だった。

 H樹の、ある種、粘質的な部分が私は好きになれなかった。相互手淫をしながらも、学年が進むにつれ、疎遠になっていったのは、その辺りにも原因があった。

 私とH樹が親友になれなかった理由は他にもある。実はH樹は学業に関しては、至って優秀な生徒だった。特に理数系が得意で、実際、地元の進学校に進み、高校卒業後は有名国立大学に合格する程の秀才だったのだ。つまり、学業でも私のライバルだったわけである。文系科目が得意な私と得意科目が違っていたのが救いだったが、クラスが違ったとはいえ、私の首席の地位を、学年で唯一、脅かしかねない男、それがH樹だった。いや、違う。私は友人関係に、成績など持ち込むタイプではない。私がH樹に心を開けなかった最大の理由は、H樹が自分のタイプとはかけ離れた容貌だったからだろう。ホモは外見にうるさいのである。これはどちらが心が狭いといえるのだろう。外見で人間を判断しているという時点で、実は後者なのかもしれない。

 中学時代、私が一番親しく付き合ったT夫は、もちろんケの男ではないが、すね毛が濃く、眉のくっきりした少年だった。家が農家だったから、畑仕事で鍛えられており、小柄ながらがっちりした身体つきで、丸刈りがよく似合った。早い話、H樹とは正反対の容貌だったのだ。ここでも私は外見で人を区別してしまっている。しかも、親父はブラシのような胸毛の持ち主で、T夫も胸毛男に成長する可能性を秘めていた。当然、彼は私のズリネタになっていく。ホモとノンケの友情は、片方だけに性欲と愛情が絡んでいるのでややこしい。

 

 閑話休題。その日の授業でも、早瀬先生を困らせようとするH樹。私は早瀬先生が好きだったから、困らせるのは嫌だった。だから、露骨な物言いは控えていたが、その場の雰囲気は、男性同性愛者にとっては、性的でなかなか刺激的ともいえた。実は、それはH樹も同じだったのかもしれない。そんな「個の性癖」に追従する者が出て来るから、田舎の男子は言葉や行動が粗雑で、全くもって手に負えない。

 しかし、早瀬先生はやはりベテランであった。そんなことで狼狽えたりはしなかった。

 早瀬先生は、これはもうざっくばらんに行くしかないと悟ったのだろう。授業は、急に打ち解けた感じになった。そうなると悪ガキ連中も乗ってくる。冷やかしの言葉はいつしか消えていった。話が発毛の話になると、

「俺、まだだ。」

「俺、もう生えてる。」

 このくらいの会話はまだいい。そのうち、

「雄吉が一番早かったべ?」

 と大声でクラス中に同意を求める輩が出てくるから、こっちとしてはたまったものではない。越中褌のことまでばらされるのではないかと、私は肝を冷やした。

 しかし、幸いにもそんな話にはならず、授業は終盤を迎えた。授業の最後に、早瀬先生は黒板に松茸のような絵を描き説明を加えた。

「大人になると、こういう風に先っぽが剥けてくるんだ。」

 その瞬間、H樹の視線がこちらに向いたのを、私は見逃さなかった。亀頭の露出は、H樹にとって最重要課題だった。

 その時、タイミングよく終業のベルが鳴った。気がつくと私の陰茎は硬くなっていた。私は早瀬先生に対しても、強い性的魅力を感じていたのだ。

 授業が終わると同時に、私は滅多に人が来ない体育館の便所に駆け込んだ。そして、松茸の絵を描く早瀬先生の顔を思い浮かべながら逸物をしごき、勢いよく精を放った。

 

 その日の帰り道のことだった。H樹が例の神社で私を待ち伏せていた。

「今日、体育の授業の後、急いで出ていったけど、どこに行ったん?」 

 私は、腹が痛くなったと答えた。H樹はそれ以上追求しなかったが、私が何をしていたかを、知っているような気がした。

 二人はしばらく取り留めのないことを話していたが、H樹が、今日の性教育に話題を振ってきた。射精について説明する早瀬先生の姿が頭に浮かび、私は勃起してきた。不意にH樹が言った。

「俺も生えてきたぞ。」

 三ヶ月前、H樹のそれには微かな兆ししかなかった。それはあくまで兆しだった。今、それはどうなっているのだろう。

 H樹が神社の裏を指差し、顎をしゃくって歩きだした。「来いよ」という意味だった。私は高鳴る鼓動をおさえて、後に従った。

 神社の裏は木立ちに囲まれ、周囲から死角になっていた。H樹がズボンの中から逸物を取り出した。陰茎を覆う確かな叢(くさむら)があった。私に比べれば、まだまだ密林とはいえず、細く柔らかな存在だったが、明らかな茂みが陰茎を覆い始めていた。そこには三ヶ月前とは違う淫靡さがあった。

 既にH樹の陰茎は天を向いていた。叢の存在に比べ、陰茎そのものに大きな変化はないように感じた。もっとも、たった三ヶ月で、外見上の劇的変化があるはずもなかった。

 H樹が目で合図した。私はH樹の直立した陰茎を握った。祖父以外の逸物を握るのは、それが初めてだった。やるべきことは一つである。私は、それを一心不乱に扱いた。絶頂はすぐにやって来た。

「見とけよっ。」

 H樹が叫ぶやいなや、それは大きく脈動し、H樹がのけぞった。真っ白い雄の樹液がダラダラと地面に垂れた。H樹は、勃起しても亀頭が自然露出しないので、皮つるみとなるから、あまり飛ばないのだ。

「中学に入ってじきに出るようになった。」

 H樹が満足げに大きく息をついた。自分の性殖器の成長を、誇りたかったのだろう。

 H樹の射精を目のあたりにし、私も興奮していた。私は急いでズボンを膝まで下ろし下半身を丸出しにすると、越中褌の紐を緩めた。それは、下ろしたズボンを覆うように、ヒラリと空を舞った。

 私は、H樹にも同じようにズボンを下ろすよう促した。私の脳裏にあったのは、風呂場での祖父との行為であった。勃起した陰茎と陰茎を重ねあわせる、あの行為である。

 H樹が、言われるままにズボンとパンツを膝まで下ろした。最早、主導権は完全に私に移っていた。私の方が遙かに経験を積んでいたのだから、当然といえば当然だろう。興奮しきっていた私は、無我夢中だった。私の右手にはH樹の精液が付着していたが、構わなかった。

 力を失ったH樹の陰茎を左手で握り、H樹の精液まみれの右手で自らの陰茎をしごきながら、H樹のそれに近づけた。私の方が四倍はあるだろう。私は祖父との行為を再現しようと、右手をさらに激しく動かした。

「出るっ。」

 私はすぐに射精した。私の放った大量の精液は、H樹の逸物にベットリと降り掛かった。私は大きく息をついた。

 次の瞬間、H樹の萎えた陰茎がみるみるうちに力を取り戻し、再び隆々と聳え立った。

 H樹は包皮を反転させ、亀頭を露出させた。私の精液がダラリと陰茎を伝って、地面に垂れた。H樹は私の精液にまみれた逸物をしごきたてたが、すぐに光悦した表情を浮かべ、二度目の精を放った。

 私の精液に触れた瞬間、まるで生き物のように生を取り戻すH樹の生殖器。力強く勃ちあがるそれを見た瞬間、私は、H樹も潜在的な男性同性愛であることを確信した。そうでなければ、説明できないことが多すぎる。しかし、H樹は、まだ自分の中に眠る同性愛に気づいてはいないだろう。そんなことを考えながら、私は再び逸物をしごいた。

 

 私は帰宅するといつものように風呂をたてた。そして、何食わぬ顔で祖父と入浴した。

 擦りすぎて血の滲んだ私の陰茎をみて、祖父はニヤニヤした。

「センズリのし過ぎだ。何回出したんだ?」

 祖父の問いに私は答えた。

「続けて五回。」

 嘘ではなかった。あの後、私とH樹は相互手淫を繰り返した。最後の一回は、お互い自らをしごきあげ、タイミングを合わせて、ほぼ同時に射精した。もちろん、その日のできごとは祖父には秘密だった。

「何かいいことあったんか?」

 祖父の問いに、私は性教育の時間のことだけを話した。

 祖父は話を聞きながら、擦り切れ、あちこち赤剥けになった私の陰茎を、湯船の中で優しく揉んでくれた。

 私は祖父に身体を委ねながら、祖父とH樹がセックスをしたら、どうなるのだろうかと想像していた。私の脳裏には、H樹が祖父の肛門を犯し、触れもしない祖父の性器から、ダラダラと精液を垂れ流す場面が、渦巻いていた。

 そんなことが実現するはずもなかったが、私は祖父が、私以外の誰かに犯され、よがり狂う姿を見たいと願うようになっていた。早瀬先生に犯されトコロテン射精する祖父、T夫の父親に犯されトコロテン射精する祖父、T夫に犯されトコロテン射精する祖父、そして、三人に次々と輪姦され、肛門からダラダラと精液を溢れさせる祖父。それが行き着く先はいつも同じだった。想像の中で、私は三人に正常位で犯される祖父に跨がり、上下に身体を揺すっていた。私の中に潜むウケの資質が、徐々に目覚めつつあった。

 

 この日の後、しばらくの間、私とH樹は急接近した。よく話をしたし、彼の家も訪問した。神社でH樹が待ち伏せしていたことも何度かあった。もちろん、目的は一つであった。

 当時の、H樹の話題といえば、誰に対しても陰毛と亀頭の露出の有無、センズリと射精の経験、それらに関するものばかりであった。

 それを一覧表にまとめ、一人悦に入っていたのがH樹である。私がH樹に接近したのは、一覧表を前に、H樹とセンズリや飛び散る精液について語りあう時間が待ち遠しかったからだ。しかも、私はその一覧表や会話に性的興奮を覚えていた。しかも、H樹もまた性的興奮を覚えているらしいことに気づいていた。そして、最後は決まって相互手淫になるのだった、

 しかし、H樹の行動は徐々にエスカレートしていった。友人を押さえつけ、強引に射精させるなど、もはや性的暴力である。H樹は、この悪習にのめり込んでいく。私にはH樹の深層心理が理解できるような気がした。周囲はどう感じていたか知らないが、私の目には、最早、それはH樹が己の性欲をコントロールできなくなってしまっているように映った。

 ネットも同性愛誌もない時代である。あったとしても田舎の中学生にはハードルが高すぎる。結局、ホモとしての性欲の捌け口が、そこにしかなかったのであろう。

 しかし、私自身は、その性的暴力に付き合う気はさらさらなかった。H樹の悪習の高まりに反比例するかのように、私は、次第にH樹と距離を置き始め、中学二年に進級する頃には、完全に疎遠になっていた。そこにはT夫と懇意になったという事情もあった。

 好意的に解釈すれば、成長に伴う友人関係の再構築と取れないこともなかった。しかし、根底にあるものは違っていた。やはり、私は汚れ専、ふけ専であった。男らしい顔立ちのT夫と違い、どちらかというと優男のH樹には、さしたる性的魅力を感じていなかったのだ。

 早い話、男として大してタイプでもないH樹との性行為ともいえない性行為、単なる相互手淫に、私は飽きたのである。もしかしたら、それはH樹も同じだったのかもしれない。ホモにありがちな「一人の男に飽きる」という感情を、本人が知らぬうちに、H樹自身もまた、心のどこかに抱いていたとしても不思議ではない。

 

 中学時代の三年間において、私はH樹のあらゆる行動に同性愛的傾向を感じ取っていたが、その違和感は、他の級友たちも同様だったらしい。ただ、中一の段階では、その違和感は、級友たちにとっては同性愛とは結びついていなかったようだ。

 しかし、ニ年半後、中学を卒業する頃になると、様相が変わってきた。クラスの男子の多くは、女のことばかり考え、好きな女を追いかけるようになっていた。

 男子同士、お互いに興味本位で触りあったり、センズリをかき合ったりする少年期に特有な行動は、多くの者にとって既に遠い過去のものになっていたのだ。最早、誰がセンズリしようが、毛が生えようが、射精しようが、そんなことに興味はなくなっていたのだが、H樹は相変わらずチンボとセンズリの話ばかりしていた。

 そんなH樹が、周囲から奇異な目で見られ始たのは当然のことだった。

「あいつ、すぐにしごきあいしたがる。ひょっとして男色なんじゃないのか?」

 そう言ってT夫は顔をしかめた。「男色家」という言葉とともに顔をしかめられると、私は内心で非常に辛かったのだが、その感情は常に心の奥に押し込めた。私は肯定も否定もせず、その場を流すのが常だった。

 しかし、H樹に対し同じような疑問を持つ輩が、私やT夫以外にも、何人も存在していたのである。H樹が男色だという噂を耳にする度に、私は、強制センズリなどという類の暴挙を繰り返す集団から、早めに足を洗っておいてよかったと心から安堵した。

 私はホモであり、陰茎から弾け飛ぶ精液そのものに興奮を覚える。強制センズリの魅力に取り付かれたら、H樹同様、そこから抜け出せなくなっていた気がした。

 男は好きだがホモという噂は困る。そんな噂がたったら、この田舎の小さなコミュニティの中で生きてはいけない。例え、それが少年期のことであったとしても、一度周囲から張られてしまったレッテルは、生涯ついてまわりかねない。それが田舎なのである。

 きっと祖父も同じだったのだろう。だからこそ、祖父は自分の性癖を必死に隠し続けた。田舎のホモは祖父だけではなかったはずだ。本当にタイプの相手と、一度もセックスすることなく亡くなっていった男が、田舎にはたくさんいたことだろう。何とも悲しい話である。

 いずれにせよ、常にもっと理想の男を求め続け、飽きたら簡単に乗り換えていく。これは、ほとんどの男性同性愛者の普遍的行動といえるであろう。辺鄙な山奥の少年の間にも、「ホモの縮図」は確かに存在していたわけである。