里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農夫の性の記録

第一部

少年期

 

七 家族のいない夜に

 

 血の繋がった祖父と孫の爛れた関係であったが、男同士だと罪悪感は薄い。妊娠の心配がないからだろう。私も祖父も、性処理の一環として捉えていた面があり、禁じられた行為という意識は皆無だった。

 そんな風だったから、一度肉体関係ができてしまうと後は早かった。祖父との肛門性交が日常生活の一部になっていったのである。一緒に入浴しては声を殺し、よがり泣く祖父。激しく祖父の肛門を犯し、私も歓喜の呻きとともに放精した。

 祖父も私も正常位が好きだった。やはり、お互いの顔が見ることができないと性の喜びは半減してしまう。

 男臭い風貌や肉体に相反して、祖父はセックスでは完全に女だった。初めての契りの時から、その片鱗は随所に垣間見ることができたが、お互いの肉体を知り尽くしていくうちに、その傾向はますます顕著になっていった。

 肛門を犯される時の、まるで女のような喘き声。その淫靡さは言葉では表現できない程だったが、その祖父も、精を放つ瞬間だけは、我に返ったように男に戻った。その瞬間、祖父は、しばしば、

「男~。男~。」

 と口走った。亀頭から勢いよく精液を飛び散らせながら、祖父がそう絶叫するのを、私は何度耳にしたことだろう。

 祖父の言葉の奥底には、当時私が気づいていた以上に、性的に抑圧され続け、性欲を持て余し続けた、祖父の悲痛で哀しい、心の叫びが隠されていたように思う。

 

「俺は今、男に抱かれている。」

「俺は、ずっと男が好きだった。」

「男に抱かれたくてたまらなかったのに、それは叶わず、好きでもない女を無理して抱いてきた。辛かった。苦しかった。」

「今、やっと男とセックスできた。」

「自分も、他の男達同様、性的に満たされた、男の中の男になれた。」

「真の意味で、一人前の男になれたんだ。」

 

 もしかしたら、祖父はそう叫びたかったのではないか。田舎で生まれ育ち、田舎で生きて行くことを選んだ祖父は、ホモとしての性癖を心から満足させたことなど、私との関係ができるまで一度たりとしてなかったのだと思う。

 祖父は若い男が好きだった。後日、祖父から

「地元で唯一の同好の仲間だ。」

 と紹介された男は、五十を優に超えた頭髪の薄い男だった。ふけ専ならともかく、若さ溢れる瑞々しい肉体に性的興奮を覚える祖父が、彼を相手にして性的充足を得たとは到底思えなかった。

 例え男の手の中で、いや男に肛門を貫かれながら射精できたとしても、それは単なる放精に過ぎない。例えるなら、下顎を痙攣させながら、子孫を残すためだけに精をはき出す、鮭の授精みたいなものであろう。つまり、出すだけ。

 そんな射精の後、大きな虚脱感とともに湧き上がってくるのは、結局、空しさだけだったのではあるまいか。

 私とのセックスを通し、祖父は、ようやく本当の意味での性的満足を得た。そこに至るまでには六十五年間の葛藤があったはずだ。

 心の奥に押し隠してきた、切実な心の叫び。祖父は射精とともに、もっと直接的に言ってしまえば、キトキトに勃起した、ずる剥けの亀頭から飛び散る精液とともに、それらを解き放ってしまいたかったのかもしれない。

 よがり泣く祖父の、まるで女のような切なげな表情。そして、射精の瞬間の「男~。男~。」という男臭い雄叫び。そのどちらもが祖父の真の姿であった。家族の中で真の祖父の姿を知っていたのは、父でも祖母でもなく、この私だけだったのだ。

 そこには、完全勃起すらしていない、半萎えのような陰茎からも、男は精液をダラダラと垂れ流すことがあるのだという、驚愕の生態までもが含まれていた。

 祖父との性行為を少しでも思い出すと、私の股間は今でもすぐに熱くなる。そして、祖父との十年は、私の性癖を決定づけた。

 以後、五十年近くの時間、それは私の人生の大半なのだが、普通の男が繁殖と子育てに費やす時間とエネルギーのほとんどを、私は祖父に似た、祖父の代わりになってくれる、男らしさに溢れた親爺を探し求めることに費やすことになるのである。

 

 その後の人生で、苦しいまでに惚れた男が何人かいた。ここで言う「惚れた」とは、好みの男かどうか、もっと言うとセックスしたいとかしたくないとかいうレベルの話ではない。

 最も適切な言葉で表現すれば、「想っている」とでも言えばよいだろうか。姿を見るだけで気持ちが明るくなる。会合でたまたま隣の席になったりしたら、もう嬉しくてたまらない。もはや、これは愛であろう。

 しかし、男と男で愛情を表現することは許されない。だから、苦しくなる。告白の結果が玉砕であろうと、自分の気持ちを伝えられるなんて、ケでない男達のなんて幸せなことよ。

 私に、いや大部分の隠れホモにあるのは、一方的な片想いばかりであった。私が心底惚れた男は、外見が好みだったのは大前提であるが、男らしさと内面の優しさ、そして、陽気さと繊細さ、土臭さと知性、それら相矛盾する要素の混沌。そんな男たちであった。

なぜかそういうタイプの男はホモには少ない。だから、私が深く愛する男は、たいてい組合員以外なのだ。

 高校時代、冬季間だけ下宿していた、町場の農家の主人K。四十を過ぎた頃、仕事の関係で知りあい、一緒に飲みに行くこともあったY氏。そして、婿さん・・・。いずれも男などまったく興味を示さない男ばかりであった。

 かといって私はノンケ好きというわけではない。むしろ、惚れた男がホモであって欲しいと常に願っている。しかし、話はそううまくは行かないのだ。

 誰よりもセックスが好きなのに、惚れた男とはセックスなしで接していくしかない。しかも、やたらベタベタ話しかけるわけにも行かないし、熱い視線に気づかれることさえ許されない。結果、姿を見れただけで嬉しいという、何とも惨めな結末だけが待っている。

 唯一の例外は婿さんである。家族として一つ屋根の下(二世帯住宅だが、一応ひとつ屋根の下である)で生活する毎日。しかも、婿さんの精液の分身である孫たちに囲まれている。何より、三人には私の血も流れているのだ。その上、三人とも私が切望した男の子である。

 正直、セックスこそできなかったが、私の心は充分満たされていると言って良い。そこに苦しさ、切なさなど微塵もない。今後も婿さんとセックスする日など来るはずがないし、それを望んでもいない。それが実現した時のことを考えると、むしろ恐ろしささえ感じてしまう。

 セックスの後、ホモに残されているのは、次第に冷めていく感情だけである。我が家に置き換えてみれば、平穏な日常の崩壊ともいえる。

 私は婿さんに惚れている。だから、あたたかく接することができる。多分、私が婿さんに好感を抱いていることは、婿さんにも伝わっていることだろう。まさか、それが単に「馬が合う」でなく、愛情だなどとは夢にも思っていないだろうが・・・。

 昔から、人は「思えば思われる」ものなのだ。それは男女間だけでなく、男の友情の世界でも同じだと私は思う。

 誰だって、相手が自分に好感を抱いているか否かは自然と感じるものだろう。好感を抱いてくれる相手を、こちらが一方的に嫌がるというのは、セックスが介在する時だ。

 おそらく婿さんとセックスする日など、永遠にやって来ない。畢竟、セックスが介在しないから、婿さんも、私の好感に対し、不快感を抱かず、素直にそれを受けとめてくれるのである。

 私と婿さんさえうまくいけば、我が家は自然とうまく行く。それはわかりきっていることだ。だから、もしも、娘の選んだ男、つまり、婿さんがタイプ外の男だったら、娘からの同居の申し出があっても、私はかたくなにそれを拒んだであろう。うまく行かないことは目に見えている。それ程、ホモはタイプにうるさいのである。

 結果的に婿さんとの同居はうまく行った。そして、私も婿さんも一度、うまく行く状態を経験すると、それを壊したいとは思わない。その方が幸せに暮らせるのだから当然だろう。

 こうして、お互いの中に多少波風が立つことがあっても、その場限りで水に流し、腹の中に貯め込まないこと。そして、良好な関係を大切にしようと努力し続けることが習性となった。いずれにせよ、大切なのは、何かあった後の人間関係の修復なのだ。

「いつも旦那を立ててくれてありがとう。」

 娘のこの言葉に、我が家の微妙なバランスが見事に言い表されている。

 

 しかし、私と婿さんの場合、ただ同居するというだけにとどまらなかった。その後、二人は職業まで同じになり、ともに汗を流して労働することになるのである。当然、共有する時間も極めて長い。

 それでも良好な関係を築けて来れたのは、私が農業に専念する前に携わっていた、ある職業の経験があったからだろうと思う。その職業を通し、私は人間関係を良好に保つコツをつかんでいた。そう、良好な人間関係の構築には、さまざまな駆け引きが必要なのである。

 ここから先は書くか書くまいか非常に悩んだ。しかし、辿り着いた結論は、書かないと、これ以上書き続けることは不可能であるということだった。だから、正直に書く。私は高校卒業後、大学に進学した。そして、ある職業に就いた。そして、三十年近く、その職業に身を投じた。

 農業は実家の父が中心になっていた。父が達者だったからだ。もちろん、手伝うことも多かったが、手伝いと自分が仕切るのには雲泥の差がある。私は農地を父に任せ、日常は仕事に没頭した。畢竟、農業は主に土日に行うことになる。しかし、仕事が入り土日も休めないことが多かった。

 好きな仕事に専念できたとはいえ、女とセックスせざるを得ないなど、苦痛なことも多かったから、仕事に没頭するのには、その心の溝を埋めるという意味合いも含まれていたと思う。

 しかし、時の流れは容赦ない現実を突きつける。やがて、父もそろそろ八十に手が届く年齢になり、次第に体力が落ちてきた。

 私は決断を迫られつつあった。しかし、三十年続けた仕事にやりがいも感じていたし、未練もあった。何より、その職業に向いていることは、自他共に認めるところだった。

 あと一年だけ、もう一年だけ。その繰り返しの中で数年が過ぎた。祖父の時もそうだったのだが、人間はある年齢を過ぎると急速に衰える。いよいよ父にその時期が迫っていた。

 このままでは農地の維持が困難になるのは目に見えている。もはや迷っている時間などなかった。私はついに決断した。天職とまで思っていた職業を捨て、農地を維持することを選んだのだ。

「祖父の切り開いた土地を捨てることなどできはしない。」

 私の最終的な決断理由である。農地には祖父の夢、喜び、悲しみ、苦しみ、それらすべてが染みこんでいた。農地は祖父と一体だった、それは、もはや祖父の肉体の一部であり、血のようなものでもあった。

 祖父と交わり、体液を交換し続けてきた私に、それを捨て去ることなどできるはずがなかった。

 そうと決めたからには、急がねばならない。父が動けるうちに農地を継いで、父から受け継がねばならぬことが山のようにあった。

 こうして私は停年を十年程残して早期退職することとなった。当時、退職金のかなりの部分を保障してもらえる、早期退職制度が導入されていたことも、決断に影響した。

 どの職種でもそうだったと思うのだが、団塊の世代があまりに多く、私の職種でも若手の採用が極めて少ないという歪な状態が長期に渡って続いていた。

 早期退職者を募集してでも、その分で新規採用を増やさないと、将来的に大変な事態になることは明白だったのだ。わかりやすくいうと、団塊の世代が一気に退職期に入る十~十五年後、三十代、四十代が極端に不足することになる。結果、空洞化が顕著になり現場が立ち行かなくなることが危惧されていたのである。

 こうして私は三十年に渡った〇〇人生に終止符を打った。大学出たての若者だった私も、いつの間にか五十歳になっていた。同時に、それは専業農家としての第二の人生のスタートでもあった。

 

 閑話休題。祖父との性の楽しみは、セックスそのものだけではなかった。祖父が語る、性の想い出話も私にとっては、この上もないほど刺激的なものだった。

 何しろエロ本も簡単には手に入らないような、山の開拓地での暮らしである。しかも、日常的に接することのできる大人の男は家族、つまり祖父と父、近所の男たち、そして、学校の先生くらいのもの。今と違って気軽に利用できる温泉施設もなかった時代、好みの男の生殖器を見ることでさえ、決してたやすいことではなかった。

 実際、ケの男でなくても、私の性癖に一致した男は数少なく、祖父、校長先生、当時PTA会長をしていた、同級生のT君の父親くらいなものであった。ましてや、仲間の男で好きな容姿の男など、祖父以外にいるはずもない。そもそも祖父と私以外に、私の生活圏にホモが存在していたのかさえ疑わしい。

 祖父とのセックスは刺激的だったが、そこはホモの悲しい性、所詮ホモは多情である。同じようなセックスが続くと、すぐに満足できなくなってくる。

 それは小学校六年生の私でさえ、成熟した大人と何ら変わることはなかった。常により強い刺激を求め、貪欲にセックスを追求していく。祖父の想い出話はその始まりで、私の性欲を充分に満たしてくれた。

 祖父の話に興奮した私は、すぐに二発目、三発目を求めて祖父の肛門に、勢いを取り戻した陰茎をあてがったものだ。それは祖父も同じだったのだろう。祖父も私を興奮させて喜んでいる節があったし、初老の男が十代の若者を相手にするために必要な、セックスへの起爆剤でもあった。

 

 そういえば、祖父の思い出話の中で、特に印象に残っているものがある。それは、祖父が初めてセンズリを覚えた日の想い出話である。

 祖父がセンズリを覚えたのは小学校四年の夏のことだったという。時は明治時代末。戦後の教育基本法による六三三制とは違い、忠君愛国が謳われた教育勅語の下での学校教育の時代である。

 今とは時代背景も異なり、祖父の話の細部の記憶も既に曖昧なので、私の想像で補うしかない部分もあるのだが、祖父の話は、大まかに次のようなものだった。

 

 当たり前の話だが、当時は村の学校にプールなどなく、川が子供たちの水泳場だった。夏の夕方、ある時間帯になると、子供たちが三々五々、河原に集まってくるのである。そして、年長者が見守る中、夕涼みがてら水の子になって遊ぶのだ。

 そこには、汚れた身体を洗い流す意味あいもあった。風呂を毎日たてることなどできない時代だったのだ。当時、風呂を沸かすための労力はあまりに大きかったのだ。

 実際、夏場の黄昏時、農作業を終えた親爺が、褌一丁で川で行水している姿は、祖父の幼少期より五十年以上が経過した、高度経済成長期に突入した直後の田舎でも、まだまだごくありふれた日常の一部に過ぎなかった。

 もっとも中には、それを見て陰茎を硬くする私のような異端児もいたわけだが・・・。

 昭和三十年代後半、私の少年時代も、まだ学校にプールなど存在しなかったから、祖父の話は手に取るように想像できた。ちなみに、末妹の世代になると、山間の小規模校であっても、小中学校にプールがあるのは当たり前になっていたから、中学校の部活動の有無も含め、私の世代というのは、学校教育の激変期だったのかもしれない。やはり、きっかけは東京オリンピックだったのだろう。

 さて、川に集まった少年達であるが、夜の帳が降りてくまでの時間を、思いのままに過ごすわけである。中には見上げるような大岩の上から、淵に飛び込む年長者もいて、下級生は憧れの眼差しで見つめていたらしい。

 そんな年長者の中に一人、年少者たちから恐怖の対象となっていた少年がいた。彼は祖父より二つ歳上で、少年たちのボス的存在であったようだ。身体つきも際だって逞しく、当然、力も強かったが、とにかく粗野で喧嘩っ早かった。

 当時は義務教育は四年間だった時代なので、もしかしたら既に農家の跡取りとして、昼間は一人前に働いていた少年だったのかもしれない。だとしたら、まだまだ遊びたい盛りの彼らにとって、一日の中で日暮れまでの、その僅かな時間帯だけが、唯一、子供らしさを露呈できる瞬間だったのだろう。

 もっとも、当時は、細かな背景は気にせず、祖父の艶話に、チンボを硬くしながら聞き入っていた次第なので、正直、その辺りはよくわからない。

 そんなある日、彼が川原の学童たちに集合をかけた。

「いいもん見せてやる。センズリかいてやるから、よく見とけよ。」

 そう言うが否や、ズボンを下ろし、既に勃起していた逸物をしごきだしたというのだ。その少年の取り巻き達も、既にセンズリを覚えていたのだろう。

「やれ。やれ。見せてやれ。」

 などと面白がって口々に囃したてた。

 やがて、少年は息を弾ませながら、全身を硬直させた。そして、一瞬、大きく弓形に身体をのけぞらせたかと思うと、亀頭の先から勢いよく精液を噴出させた。それは一m近くも離れた、河原の岩を直撃した。

「なんか出たっ!」

 少年達が半ば呆気に取られ、口々に叫んだ。予想だにしなかった展開に、訳がわからない呈で、お互いに顔を見合わせるしかない下級生達。

 やがて、その少年は、肩で息をしながら、下級生たちに訓示を垂れた。それは、大人の男ならみんなやっている行為であること、父親が母親に陰茎を突っ込み、呻き声とともに、たった今放出された液体を注入することで子供ができること、強烈な快感があること。そして、最後に付け加えることを忘れなかった。

「お前らも今晩、家でやってみろ。ツーンとして気持ちいいぞ。ただし、やりすぎると身長が伸びなくなるし、バカになるから気をつけろ。」

 もちろん祖父はそれを実行した。もっとも当時の祖父は、まだ肉体的に幼すぎた。快感はあったが射精はできなかったという。祖父が初めて精液を放ったのは、それから半年も後のことだったという。

 いずれにせよ、小学校四年生にして、祖父はセンズリの虜になっていった。そして、その魔力から逃れられず、

「背が伸びないのではないか。バカになるのではないか。」

 という強迫観念に怯える日々を送ることになったわけである。

 ちなみに私の容姿には、当時の祖父の面影が強く残っている。体毛の濃さや、身長一七四㎝、体重六八㎏、細身だが筋肉質の体型もよく似ている。私の世代の平均値を考えた時、やや大柄な部類に入るだろう。バカになったかどうかがともかく、身長の伸びないなどという心配は、まったくの徒労に過ぎなかったことは明白であろう。

 

 この話を祖父から聞かされたのは、私と祖父の二人だけが留守番として家に残り、初めて全裸で抱き合って眠った小学校六年、十一歳の秋のことだった。

 その夜、いつも以上に淫乱で卑猥な行為を終えると、祖父は厚い胸板の中に私を抱きしめ、しばしの寝物語に及んだ。いつも以上に淫乱で卑猥・・・。その意味については後述するとして、私は既に何度も射精し、性を満喫した幸福感を身体中に感じながら、この祖父の思い出話に聞き入った。私同様、既に数回精を放ち、すっかり柔らかくなった祖父の陰茎を握りしめながら・・・。

 

 その頃には、既に私の性成熟は凄まじい早さで進んでいた。勃起時には亀頭が露出するようになり、脛毛もほぼ生え揃っていた。そして、多くの人が高校生に見紛うほど、身体つきも逞しくなっていた。それから三年半後、実際に高校生になった私と違っていたのは、まだ髭がさほど濃くなかったこと位であったろう。

「風呂場以外で祖父と一つになりたい。もっと時間をかけて愛し合いたい。」

 祖父と結ばれてから後、切にそう願いながら、この時まで果たせずにいた。それが、ようやく実現した。その喜びは大きかった。

 セックスの後、裸の祖父に裸のまま抱かれて眠る喜び。私が祖父の陰茎を握り、祖父も私の陰茎を握りながら眠りにつき、ふと目覚めた時、お互いに口を吸いあい、そのまま思いのままに求め合う。

 それだけのことで私は幸せの絶頂だった。だからこそ、この日の祖父の寝物語は、鮮明な記憶として私の脳裏に深く刻まれることとなった。

 

 私は、祖父と二人で過ごす一夜を常に望んでいたが、祖父母、両親、五人の妹に私、十人もの大家族である以上、それは夢物語に過ぎなかった。所詮、叶わぬ夢と諦めるしかない現実を、私は恨んだ。

 そもそも、私と祖父が二人だけになれることさえ限られた機会、限られた場所以外では不可能だったのだ。納戸の隅のような風呂場。そこだけが、私と祖父の密会場所であった。

 そんな日常ではあったが、「例外のない答えはない」とはよくいったもので、やはり、そこにも例外はあった。私と祖父が、ついに恋人のように抱き合いながら朝まで眠ることができる日がやってきたのだ。それは、年に一度きり、ある特別な事情で私と祖父以外の家族八人が、揃って家を留守にする夜であった。

 初めて祖父と結ばれてから、祖父が亡くなるまでの十年程の間に、私と祖父は何度肛門性交に及んだかわからない。それは優に千回に達していたかもしれない。祖父の直腸に放った精液の量はいかばかりであろうか。数千億の子種が祖父の直腸内で受精相手を求めるも叶わず、虚しく、その生を終えていった。

 とはいえ、朝まで裸で抱き合って眠ることができた夜となると、両手で数える程しかない。そんな限られた機会だったから、そのいずれもの記憶が、私の中で鮮明だ。

 毎年、一回、決まって秋に巡ってくる特別な日が、その貴重な夜であった。母の実家の秋祭りの夜である。

 

 小学校六年、初めて祖父と二人、抱き合って朝まで過ごした夜のことを、私は忘れることができない。しかし、それはこれまで書き記してきた、祖父の魅惑的な思い出話を聞くことができたからではない。祖父のそれは、むしろ、付随的なことに過ぎなかった。

 この夜、私はあまりに強烈な性体験をした。それは、実に強烈で卑猥な体験だったが、感動的で美しくさえあった。何しろ、私は祖父のトコロテン射精を目の当たりにしたのだから。

 祖父と、初めて結ばれてから既に半年ほど経っており、私は多少の性行為では驚かなくなっていた。しかし、触りもしないのに、ピクピクと蠢く性器。くごもった呻き声を漏らしながら、ダラダラと性を放つ祖父の憂いに満ちた表情。それらを目の前にした時、男と男の性行為には、私なぞ知るよしもない、官能的で淫らな世界が、まだまだ数多く存在していることを、否応なしに思い知らされた。

 

 前置きが長くなってしまったが、そろそろ、私の脳裏に強烈に焼き付いて、決して消え去ることのない、あの時の衝撃的な一夜のことに筆を進めることとしたい。

 

 当時も今も、母の実家のある村の秋祭りは盛大である。正直、私の住む開拓地、そして本家(祖父の実家)のある隣接地区のチンケな祭りとは訳が違う。何しろ獅子舞が火花を噴くのである。実は、獅子の口に花火を仕込んであるだけなのだが、初めてそれを目にした時、田舎者の私は度肝を抜かれた。

 母の実家でも、その辺は心得ていて、秋祭りには必ず声をかけてくれるのだ。

 母の実家では、秋祭りの日には、夕方早々から親戚を集めて宴が持たれる。我が家もそれに招かれて行くわけである。農村では、祭りに多くの人を呼び、盛大に振る舞うことが一種のステイタスでもあったから、豊かな家には百人近くの人が招かれていた。もっとも、母の実家は小作あがりの貧農で、宴といってもこじんまりとしたものであった。

 母の実家は山向こうの隣接した地区とはいえ、当時は徒歩と電車、バスしか交通手段がなく、日帰りできる状況ではなかったから、祖父以外の家族が総出で、一泊でお呼ばれしていくのである。

 祖父は犬と猫の世話があるという理由で家に残るのが常だった。母の夫、つまり私の父が残るのはおかしな話であったし、実際、誰かが残るなら祖父か祖母であったろう。結局、祖父が残っていたわけだが、祖父の本心はといえば、嫁の実家など、正直、鬱陶しかっただけのことだったと思う。本当に行きたければ、自分が行って祖母が残ったはずなのだ。

 当時は、まだまだ男尊女卑の時代で、祖母が何か言おうものなら、

「女は黙っていろっ。」

 それで済まされるのが関の山だった。それは、なにも我が家だけの話ではない。それが普通だったのだ。

 そんな時代だったので、祖母は損な役回りも多かった。しかし、やはり祖母は一枚上手だった。見事にだまされた振りをして、結局、祖父をうまく扱っていたのである。所詮、祖父は祖母の手の内で動いていただけの話である。祭りの件にしても、

「嫌な役はいつも私に押し付けるんだから。」

 などと口では文句ばかりだったが、実際はどうかといえば、それはかなり怪しい。むしろ、内心では祭りに呼ばれていくことを喜んでいた節がある。ご馳走を食べ、親戚の女同士、世間話に花を咲かせる機会であったからだ。しかも、滅多に見ることのない、火を噴く獅子舞まで鑑賞できるのである。娯楽の少ない農村にとって、数少ない楽しみの一つであった。

 私が気づいていた位だから、祖母の本心には祖父も気づいていたはずで、祖母を祭りに行かせるというのは、普段、ろくに言葉もかけない妻に対する、祖父独自のねぎらいの意味も含まれていたのかもしれない。

 祖父は武骨で無教養、そして淫乱だったが、心底の優しい男でもあった。

 しかし、そんな祖母のタヌキぶりを思うと、時々、祖母は私と祖父の関係に気づいていたのではないか。気づいていて知らないふりをしていただけではないかと不安になることがある。

 まさか、それを知ったら、平常心でいられるはずがないと思うので、その想像はすぐに私の中で打ち消されるのだが、いつも心の隅に潜んでいて、ある時、ふと顔をもたげるのだ。

 

 私が小学校六年生の秋も、母の実家の秋祭りの季節が巡ってきた。母の実家の秋祭りは、毎年、九月中旬であった。この祭り、私が成人した頃には毎年九月十四日、十五日だった。九月十五日が敬老の日で休日だったからだ。しかし、今では敬老の日が第三月曜に移行されたので、今では第三土曜、日曜が期日となった。

 ここまで書いて、私に中にある疑問が生じた。毎年、九月十四日、十五日の開催だとすると、当然、平日にあたる年の方が圧倒的に多かったはずである。実際、午後から祭りに行くからと、うきうきしながら、学校に行っていた記憶がある。

 ところが、午後、家族総出で出かけていった記憶がある一方、学校を早退した記憶がないのである。放課後、子供たちの下校早々に出発していたということなのだろうかとも思ったが、徒歩とバスを乗り継いで行くしかなかった当時、それでは到着が夜になるはずで、かなり忙しい日程と言わざるを得ない。しかも、まだ明るいうちに母の実家に到着していた記憶がある。しかも、昼食は自宅で取っていた記憶すらあるのだ。母が妹に外出の準備をさせている間に、私が昼食の片付けを手伝った記憶があるので、間違いない。

 これはどういうことだ? そこで調べてみた。すると、敬老の日が祝日に制定されたのは、昭和四十一年からとあった。つまり、私が幼少期を過ごした昭和三十年代は、十五日も休日ではなかったらしい。

 ここでさらなる疑問が生じてきた。翌日、つまり十五日の学校はどうしていたのだろうかということである。私は健康優良児で、無遅刻無欠席なのが誇りだったから、欠席するはずがなかった。そもそも祭りのために休むなど、両親も祖父母も許さなかったであろう。

 これは一つの可能性を示唆している。つまり、こういうことだろう。母の実家の祭りは、その昔も九月中旬の土日開催だったのではないかということだ。それがいつの時からか敬老の日の開催に移行し、再び土日開催に戻ったのかもしれない。

 このように自叙伝を書いていると、いろいろな疑問が生じてくる。その理由を追究する中で、当時のできごとの裏面が見えてくる。しかし、その真偽を確かめることは困難だ。確かめたくても、祖父母はもちろん、母も父も、そして、もうこの世にはいないのだから。

 私もやがてこの世から消えて行く。時の流れは、ある意味で残酷だともいえる。そこに一人の人間が存在したことさえ、時間の移ろいとともに、まるでそれが当たり前であるかのように、人々の心の中から消し去っていく。

 

 閑話休題。その年の祭りがいつもと違ったのは、夏休みを待たずして、私が早々、祖父と留守番をすると宣言したことだった。

 早熟だった私は、身体も大人なみになり、既に精神的にも少年期を脱しつつあった。いわゆるお年頃である。喜々として出かけていく妹たちを尻目に、家族とのお出かけを嬉しがるような精神段階を既に越えているのは、誰の目にも明らかだったので、両親も仕方がないという体で、あっさり納得してくれた。

 

 母の実家は我が家から十㎞ほどの所だったので、距離的にはさほど遠いわけではないのだが、いかんせん山向こうだった。山越えの道路はなく(今もない)、ぐるっと山を半周しなければならないのである。当時は一時間近く歩いてバス停に出て、そこから町までバス。さらに電車、バスを乗り継いで行くよりほかに手立てがなかった。今なら自動車で三十分である。バス亭までは大人の足なら一時間程だったが、妹達を連れていくので、実際の距離以上に時間がかかった。疲れたとぐずる妹達を、大人が負ぶったり、おだてて歩かせたりを繰り返すのである。バスに乗っても、今度は、やれおしっこだ、やれ乗り物酔いだと次々にハプニングが起こるから(この辺りは、六十年経っても、私の孫三人とのお出かけでも変わらない。)、ほぼ半日がかり。まさに一大行事であった。

 

 とうとうその日が来た。午後、昼食を済ますと家族八人は揃って出かけて行った。家族の後ろ姿が小さくなり、やがて低い尾根の向こうに消えると、家に残された私と祖父の間に、ねちっこい視線が絡みあった。

 陽は一日のうちで一番高い時間帯だったが、そんなことは関係なかった。私は明るいうちから風呂の準備を始めた。しかし、今と違い、井戸と風呂場を何度も往復して湯船を水で満たし、薪で沸かすのである。沸き上がるまでに二時間はかかる。

 早く祖父に抱かれたい。祖父のオメコにチンボを突っ込み、祖父を狂わせたい。私の頭の中にはそれしかなかった。風呂が沸くまでの時間のなんともどかしかったことよ。しかし、その待ち時間が逆によいのだ。

 男は精を放ってしまえば、例え二発目、三発目が可能だったとしても、そこには一発目のような高まりはない。快感だって遠く及ばない。ある意味、萎える一方だ。一発目の放精に向けて、必死に気持ちの高まりを抑えている時間を、私は嫌いではなかった。

「さて入るとするか。お前も一緒に入るんだろう?」

 やがて、風呂が沸くと祖父が母屋から顔を出して言った。もちろん異論などあろうはずがない。祖父の言葉を合図に二人は風呂に向かった。まだ夕方には早すぎたが、私の陰茎は、高まる期待で既に敏感になっており、下着が触れるだけで何ともいえない心地よさを感じた。それは胸の奥から沸き上がってくる、どこかもどかしさにも似た感情を伴っていた。

 いつものように褌を外す祖父。渦巻く濃い臑毛と密生した陰毛の中に、祖父の陰茎がそそり勃っている。

 それを見た刹那、私の亀頭から一筋の滴が、床へと糸を引いた。そっと亀頭に手をやると既に先走りが溢れている。

 たまらなくなった私は、脱衣しながら、祖父の陰茎に手を伸ばした。祖父は、

「焦るなや。今日は向こうでたっぷりできるでな。」

 とだけ言い、勃起した自らのチンボをしごいて、母屋の方を顎でしゃくってみせた。祖父の目には、奥底に卑猥な光が宿っていた。

 それまで風呂場以外で、祖父との行為に及んだことがなかった私は、居室、まして布団の上でのセックスというものがどんなものなのか、想像できずにいたが、実際のそれは、風呂場での言わば「交尾」とはまったく違っていた。精を放った後にも、余韻と愛情があった。一番違っていたのは、ほどよく疲れ二人はまどろむ。しかし、目覚めとともにまたセックスがあるということだった。

 それはセックスの本当の意味でのすばらしさでもあるのだが、当時の私にそんなことが想像できるはずもなかった。私はひたすら自らの陰茎をおしなだめながら、その時に向け、いそいそと身体を洗い清めるばかりであった。

「雄吉、爺ちゃん、ちょっとやることがあるで、先に家に戻っていろや。」

 祖父が、私に指示した。私は、祖父が後ろをきれいにするつもりなのだと察した。

 初結合で汚れてしまって以来、祖父はその辺には神経質になっていた。しかし、私にしてみたら、好きな男のものなら別に平気だったし、風呂場で愛し合うのなら、そのまま洗い流してしまえば充分に事足りた。

 しかし、布団で愛し合うとすれば、そうも行かない。やはり、きれいにしてあるに越したことはないだろう。

 私は祖父の気持ちを汲んで、無言で頷いた。風呂場の隅に、ガラス製の浣腸器が置かれているのが目に入った。

 

 三十分も経ったろうか。私は窓から風呂場を眺め、祖父の姿を求め続けた。おそらく念入りに処理していたのだろう。祖父はなかなか現れなかった。

 肛門の洗浄は難しい。あくまで肛門と直腸あたりだけを洗浄しなければならないからだ。奥まで水を入れすぎると軟便と化して、かえって手に負えなくなる。

 今、この瞬間にも、祖父が相撲や剣道で言うところの、いわゆる蹲踞、通称うんこ座りの姿勢で自らの肛門に温水を注入している。そんな祖父の姿を想像するだけで、私の股間はキトキトに勃起した。

 そろそろ私が待ちくたびれた頃、祖父が越中褌ひとつで風呂場から現れた。田舎の庭は開放的な空間だ。塀や垣根など明確な仕切りがあるわけでもなく、道路という公共スペースから、植え込みやあちこちに残った雑木を経て、緩やかに私的空間に移行していく。

 当然、祖父の越中褌姿は道路からも丸見えだったろう。風呂場が離れや半露天にあることが普通だった田舎では、半裸で庭にいることは格段珍しい光景ではなかった。

 しかし、当時でも、越中褌は既に滅多にお目にかかれない代物になっていた。祖父は田舎の人で、おそらく同性愛の情報からは隔絶された世界で生きていた。しかし、本能的に褌に欲情を覚えるらしく、ひどくこだわりを持っていた。

 それにしても、ホモに共通の、この褌への熱い思いはいったい何なのだろう。屋外での褌一枚の半裸体は、私のような、ふけ専かつ、スジ筋専には、たまらない魅力となる。露出癖のある輩なら、なおさらであろう。

 年齢を感じさせない逞しい肉体。うずまく臑毛。それらが、まだ高い陽の光に照らされている。それは、ある意味神々しくさえもあった。

 祖父が、そのまま裏口から母屋に入るのが見えた。

 

 祖父が眼前に現れた。私は祖父に吸い寄せられるように近づき、抱きついた。火照りの残った祖父の肉体がうっすらと汗をかいている。私は祖父の口を吸った。祖父も迷うことなく受け入れてくれた。

 やがて、祖父は私を北の間と呼ばれ、日常あまり使っていない部屋に導いた。そこには既に蒲団が敷かれていた。私が風呂の準備をしている間に、祖父が準備しておいたのだろう。

 北の間は昼間でも薄暗く、陽光とは無縁の部屋である。何しろ南側がすべて壁で、窓は北側にしかないのだ。ただ裸電球が一つ、寒々とぶら下がっていた。

 普段は陰気なだけで半分物置のような部屋だったが、セックスとなると話は別である。湿っぽさと暗さが淫靡さを呼び覚ますのである。

 しかし、祖父が敢えてこの部屋を選んだのには、もっと切実な理由があった。というのも、田舎では公共スペースと私的空間の垣根が曖昧で、近所の者が、いきなり家にあがって来ることなど、日常茶飯事なのだ。

 実際、我が家も玄関の鍵など掛けたことがなかった。いざ掛けようとしたら壊れていて、結局、面倒くさくなり、そのまま十年近くも放置してしまった、などという話も耳にしたことがある。

 南側(庭)に面した、表部屋で愛し合おうものなら、下手をすれば、孫と祖父、しかも男同士が全裸で絡み合っている場面に、いきなり踏み込まれないとも限らない。

 件の北の間であるが、茶の間から続いた仏間を通り抜け、さらにその奥にあたっていたから、突然踏み込まれる可能性など皆無だった。早い話、北の間が一番安全な部屋だったのである。

 ちなみに、当時の我が家は入植当時の建物ではなく、その隣に、私が生まれる数年前に建てられた木造の平屋だった。さすがに開拓小屋のように一間きりというわけではなかったが、けっして上等な建物の部類ではなく、板壁の粗末なあばら屋に過ぎなかった。

 この家は娘が婿を取る時に建て直すことになるのだが、新築を心待ちにする家族を尻目に、祖父とのセックスの想い出が消えるようで、私の胸の内は複雑だった。

 

 二人だけの夜の始まりであった。外はまだ明るかったが、北の間の湿っぽさと薄暗さが、二人の欲情を刺激した。

 祖父がただ一つ身に付けていた越中褌に手を伸ばし、ゆっくりと紐を緩めた。褌が畳にハラリと落ちる。祖父のチンボは既に臍につきそうなくらいに激しく勃起していた。

 私も服を脱ぎ捨て全裸になると、一気に祖父を煎餅布団へと押し倒した。それは祖父が日頃から使っている、祖父の体臭の染みついた布団だった。祖父はわざわざ自室から、自分の布団を北の間に運んだのだ。

 そこには弾けた精液、そして、激しいセックスの果てに汚物で布団を汚してしまうかもしれないという思惑が多分に働いていた。押し入れにしまい込まれた、普段使っていない布団を汚そうものなら、家族に説明のつけようがない。

 私は、枕元に置いてあったオロナイン軟膏に手を伸ばした。女性器からは自然と潤いが溢れてくる。しかし、男のオマンコではそうは行かない。そういう仕組みにはなっていないのだから仕方ない。それは、今も五十五年前も変わらない。当然、さまざまなものが代用された。つば、馬油、ごま油など、それこそ多種多様であったが、祖父との交情を重ねる中で、私はオロナイン軟膏を使うことを覚えていった。

 私はそれをチンボに塗るやいなや、一気に祖父の肛門にあてがい、正常位で強引に奥へと押し行った。

 風呂で充分にほぐしてあったのだろう。元より使い込まれている祖父の肛門は、呆気ないほど簡単に私を受け入れた。

「爺ちゃんのオマンコ、ぶっ壊れるまで突いてくれ。」

「男汁、爺ちゃんの中にいっぱい出してくれ。」

「男~、男~。」

 家に誰もいなかったためだろう。その日の祖父の乱れ方は凄まじかった。祖父の声に興奮した私は滅茶苦茶に腰を使った。すごい勢いで私のチンボが祖父の肛門を出入りし続けた。

 この半年で、祖父と肛門性交を何十回も繰り返していた。私の陰茎はすっかり鍛えられて、もはやそう簡単には射精しなくなっていた。

 この日、先に音をあげたのは祖父の方だった。

 身体をくの字に曲げ、赤子がおしめを替える時の体位でよがる祖父。私は祖父の足首をつかんで、足を高くかかげさせた。祖父のつま先が顔につきそうになっている。

 突然、祖父が切なげな呻き声をたて、毛だらけの太ももを痙攣させた。同時に、関節に毛の生えた祖父の両足の指に、キュッと力が入る。それまで伸ばされていた足の指が収縮した。次の瞬間、ふいに祖父の腹に力が入り、腹筋が一瞬盛り上がった。

「あぁ~、女になる・・・。」

 祖父が喉の奥で呻いた瞬間、触りもしない祖父の亀頭から、濃い精液がダラダラと流れ出た。祖父の放精に合わせ、私はさらにピストンを早めた。肛門が壊れるような私のピストン、それを苦も無く受け入れる祖父。祖父の迸りは、そのまま二回、三回と続いた。

「あ~、あ~。あ~。」

 その間、祖父は切なく泣き続けた。

 私の子種も、出口を求めている。急速に高まる射精感の中、ついにその時が来た。

「爺ちゃん、出るよ・・・。」

 腰を打ち付けながら、祖父を抱きしめ、祖父の項に唇を這わせながら、私は祖父の耳元で小さく呻いた。

「顔~、顔~。」

 祖父が私の耳元で小さく叫んだ。その言葉にハッとなった私は、祖父の首筋をなめ回すのをやめた、改めて祖父の顔を覗き込んだ。

「爺ちゃんの顔に、汁、かけてくれや。」

 臍の辺りに自らが放った大量の精液を宿したまま、祖父は私の目を見すえ、静かに、しかし、はっきりとした口調で答えた。

 これまでも祖父から、男と男の行為を散々仕込まれてきた私であった。祖父の言う通りに振る舞っていれば、最高の快楽を得られることを知っていたから、迷いなどあるはずもなかった。

 私は祖父の肛門から逸物をニュルリと引き抜くと、祖父の身体をまたぎ、祖父の喉仏の辺りで一気にしごいた。

 私の睾丸が祖父の顎の辺りに何度も当たった。

「爺ちゃん、出るぞ。出るとこ見てて。」

 私が呻いた。祖父が舌をビラビラさせて放精を促す。

「あぁ、爺ちゃんっ。」

「来て~、来て~。」

 祖父が狂ったように叫んだ。私は射精の瞬間、握ったチンボの角度を下向きに調整した。精液が凄い勢いで飛び出して祖父の顔を直撃した。何時間もがまんしていた上での初弾である。それはビシャッと音を立てる程、力強いものだった。

 私の精液の飛散は二度、三度と続いた。興奮していたのだろう。濃厚でいつもより黄色味のかかった男汁が、祖父の鼻から目元を見る見るうちにまっ白に染めていく。驚くほどの量だった。

 祖父はといえば、私の出した精液を舌でぺろぺろとなめ回していた。

 嵐は過ぎた。興奮が次第に醒めて行く。私は塵紙を祖父に手渡した。祖父が自ら顔面を覆った精液を拭き取っている。私は祖父に口づけした。男らしい祖父の匂いに包まれながら、私はホモセックスのすばらしさを堪能していた。

 

 私と祖父は、そのまま一緒に風呂に入り、お互いの皮膚にねっとりと残った汗を流した。

 二人で湯船に浸りながら、祖父が男同士で交尾すると、女役は触られなくても射精することがあること、そして、顔に放精することは、男女間でも行われる行為であることを教えてくれた。私は尋ねずにはいられなかった。

「爺ちゃん、今までにも触らないで、出したことは?」

 しばしの間があった。

「ある・・・。」

 祖父は、一言そう答えた。

 

 その夜、私は初めて祖父に全裸のまま抱かれて眠った。もちろん祖父も生まれたままの姿であった。この章の冒頭に記した、祖父の初センズリの想い出話を寝物語に聞いたのは、この時のことである。

 祖父に抱かれていると心からゆったりとした気分になれた。肉体的には大人顔負けの私だったが、そこはまだ十一歳。内面はまだまだ子供であった。

 確かに、私は祖父とのセックスではタチだった。しかし、精神的には祖父に寄りかかっていたのは明らかであろう。私は今では完全なウケであるから、この頃から、精神的にはウケ体質だったのだと思う。

 しかし、そんな満たされた思いの中にも、微妙な変化が芽生え初めているのを子供心にも感じていた。それは、今後、祖父が老いていくという、避けることのできない宿命と密接に繋がっていた。

 当初、私の庇護者だった祖父。しかし、時間の流れとともに、否応なしに祖父は老いて行く。誰もが七十歳を過ぎると急速に衰えるものだが、平均寿命が今ほど長くなかった昭和三十年代後半、それは今以上に顕著だった。その一方で、私は確実に大人になっていく。

 この日、祖父をトコロテン射精に導いたことは、祖父を完全な女にしたことを意味していた。私が祖父を精神的に支配した瞬間だったといってもよい。

 やがて、二人の関係の中で、それは一層鮮明になっていくのだが、私の成長とともに、私が祖父を庇護するようになっていった。つまり、祖父が私に精神的にも肉体的にも依存するようになっていったのである。祖父のトコロテン射精の瞬間こそが、その出発点だった。

 祖父を支えるのは平気だったが、やはり、私は根っからのウケだった。私を支え、受け入れてくれる逞しい年輩男を求め始めるのは必然だった。やがて、その欲求は、私を激しく犯してくれる親爺を追い求める形で発露し、私の終生の命題となって行くのだが、それは祖父の死後の話である。

 

 その夜、私は目を覚ます度に二度、三度と祖父の身体を求めた。そして、その都度、祖父の直腸の奥深くに精を放った。祖父もその都度射精した。当時、既に祖父は六十六歳になっていたから、今、思えばもの凄い精力だったと思う。

 さすがに、朝方の肛交では、中出しの後、ゆっくりと陰茎を引き抜くと、亀頭の雁首にベットリと便が付いていた。私の精液がたっぷりまじった便だった。

 祖父は、辺りに漂った匂いで、漏便の事実に気づいたようだった。

「すまん。」

 祖父はしきりに気にしていたが、私は意にも介さなかった。五回も六回も精液を放たれ、そのまま、洗浄することもなく眠りについたのである。軟便化しない方が不思議というものだ。

「うんこが怖くてアナルセックスなんてできるか。」

 これは、数十年後、私が激しい肛門性交の末に脱糞した時、当時、私が愛していた、地元の親爺さんが残した言葉である。無論、私の肛門を犯したのは、その親爺さんであったのだが、私はこれを名言と捉えている。

 その言葉は多くの事柄を示唆してくれる。許容、寛大さ、包容力、そして、何よりも、お前のものなら汚物であっても平気だという、どうしようもなく深い愛情・・・。

 好きな男のものであれば、汚物でさえ愛情の一端となる。一人の男を、男が愛するとは、そういうことである。

 

 祖父との行為は、祖父が死ぬまで十年に渡って続いたが、それはどんどん過激なものになっていった。やがて、先述した祖父の知人を交え、私は十代半ばで乱交(正確には3P)を経験するに至るのである。しかし、当時の私には三人でセックスしているという意識はあったが、それが乱交だとは思っていなかった。私の意識下での乱交とは、センズリの際に思い描く、何十人もの男に、次々と犯され、大量の精液を中出しされていく行為のことであった。

 誰もがそうなのだろうが、性的刺激に対し、人間の感覚は常に麻痺していく。そして、次第に物足りなさを覚え、より濃厚な刺激を求め続けるようになるのだ。人間はセックスなしでは生きられない生物なのだとつくづく思う。

 しかも、ホモには妊娠の心配がない。おまけに、当時は死に至る不治の病もなかった。高度経済成長を迎えた昭和三十年代半ば頃から、昭和五十年代年代末頃までの二十年間。この間に死の病が登場し、蔓延するのだが、その間、ホモの世界は享楽の時代そのものだった。ホモ同士のセックスは、それはそれは凄いもので、とても昨今の比ではない。一言でいえば、乱交・・・、いや、あれは輪姦というのだろう。正にその二文字がぴったりであった。

 淫乱旅館やホモサウナ、映画館などの発展場では、生堀り中出しは当たり前。それも一晩中、相手をとっかえひっかえセックスし続けるのだ。私は三十歳を過ぎ、例の病が登場するまで、コンドームというものを使用したのはもちろん、まともに見たことさえなかった。妊娠しないから、必要なかったのである。

 誤解のないように書き添えておくが、私は誰かれ見境なく、来る人拒まずにセックスできるような男ではない。生、中出しとなれば尚更である。そういった行為に興味がないわけではない。むしろ、病気の心配さえなければ、一度でいいからしてみたいと思う、しかし、万が一の感染リスクを思うと、とてもその勇気がない。そう、私は基本的に臆病で慎重なのだ。

 ただ、私の中には、それと相反する感情も確かに存在する。それは心から信じた、好きな男とだけ生で結合し、心の奥底から愛し合いたいという感情だ。だから、例え感染症の危険がないとしても、私は好きな男をまじえての乱交には、興味がない。

 好きな男が、別の男とセックスしている場面を見たくないのだ。男とは浮気なものであるから、私の知らないところでどうしていようと仕方のないことだと思うが、目の前で生々しい行為が繰り広げられるのは切な過ぎる。

 乱交、それは、発展場での一夜限りの関係だから、可能な行為なのではないかと思う。むしろ、好きな男が相手なら、一人の男と朝までみっちりセックスしたいと思う。

 だから、都会の淫乱ホモサウナのような不特定多数の集まる発展場は、基本的に覗きが目的だった。病気のリスクを考えると、自分が当事者になるのは抵抗があるが、乱交だって見るだけなら、実に楽しいものだ。狂ったようにセックスし続ける同好の輩を観察しては興奮を高め、その場で自らを慰めた。私のそれは、時にはホモサウナ滞在した一昼夜で、十回以上に及ぶことさえあった。

 私がホモサウナで放った精液は、受付で配られる黄色タオル、ミックスルームの床や壁、そして男達の汗のしみこんだ布団へと染みこんでいった。それらの繊維の中で、私の何億もの精虫たちは受精する相手を求め、所詮、無駄な蠢きを続けていたことであろう。

 そんな臆病な私だったから、身体を許す男との出会いは地元の映画館か飲み屋、あるいはホモ仲間の紹介が中心だった。しかし、もともと絶対数の少ない世界である。都会の発展場を出会いの場から消去すると、出会いの機会は極端に減ってしまう。

 実際、体内への体液の交換を伴うような、濃厚な関係をもった男の数は、五十年間で片手で間に合ってしまう程度のものだ。だから、私の体内に精を放った男の顔は、今でもはっきりと脳裏に思い描くことができる。

 祖父、祖父の知人で整体師のNさん、サムソンで知りあった東北の農家の親爺、脱糞を笑って許してくれた地元の親爺、そして、現在進行中のS治。

 初体験から五十五年以上経ったが、生で種を注ぎ、注いでもらった男は、この五人・・・、いや祖父には、挿入し体液を注入したことはあっても、挿入されたことはなかったので、中出しされた相手といったら、この四人以外には思い出せない。

 しかし、コンドームを使ったアナルセックスとなると話は別である。田舎の専業農家という出会いの少ない世界に暮らしながら、私も所詮は多情な、ごくごく普通のホモであった。

 所用で家を空ける度、東京、大阪、名古屋など大都会はもちろん、金沢、富山、新潟、福井、仙台、前橋、岐阜、姫路、広島、青森、弘前、秋田、山形、盛岡、それこそ日本各地の発展場を夜な夜な徘徊した。

 そして、好きなタイプの男を見つけては、セーフセックスを自分への口実に、いきり勃った男の逸物を受け入れてきた。

 そんな私の肉体は、次第に開発され、やがて、祖父と同様、トコロテン射精が可能な身体へと変貌して行った。果たしてこれは進化なのだろうか・・・。

 

 小学校の卒業と合わせるように、私は少年期を脱しようとしていた。同年代の友人に比べれば、随分早い青年期への移行だったが、歩んでいた性遍歴を思えば、当然といえば当然の結果ともいえた。

 やがて性的に完全に成熟した私は、祖父が亡くなると同時に、当然のように一人の雄として、決して受精することのない生殖と、生殖の相手を求め始めて行くこととなる。

 しかし、そんな私にも、乱交の他にもう一つ、どうしてもできなかったことがあった。それは、ミックスルームでのアナルセックスである。例え発展場であっても、私は必ず個室を取った。私は肉体的な快楽はもちろんだが、それ以上に心の隙間をセックスで埋めたくて堪らなかった。ミックスルームでのセックスには、それがなかった。

 心の隙間、それは田舎という閉鎖空間で生きる、抑圧されたホモ男の苦しみであり、痛切な心の叫びでもあった。

「男~。男~。」

 放精とともに、そう叫んでいた祖父の心情も、これと似たものだったのかもしれない。

 

 これで私の小学生時代の回想録に、ひとまず幕を下ろすこととしたい。

 次章では中学、高校時代の、まだ未熟さが多分に残る性の想い出に加え、成熟した大人の男として私が歩んだ、いや理想の男を求め続けた、性遍歴を書き綴ってみたい。

 それは、好きな相手に告白することも許されず、好きでもない相手と子孫を残さねばならないという、あまりにも苦しい日々の始まりであった。

 

 

つづく(未)

 

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