金木犀

その1

勇二の章

 

 いつもの月曜、いつもの朝。「アトラススポーツジム神戸店」の玄関を入った俺は、事務所のみんなに大声で挨拶をすると個室へと引っ込んだ。

 

 事務所の連中にしてみれば年下の上役の顔なんか朝からあんまり眺めたくもないだろうし、俺自身もいつのまにか身に付いてしまった標準語がつい口をついて出る度に感じる、「この東京かぶれが」という笑いを含んだ周りの視線もきつかったし。
 2ヶ月前に東京本社から生まれ育った神戸の支店へと転勤が決まったときには感謝もしたんだ。それでも本社と関西支局との間の微妙な溝のせいか、最初の内は他の連中の目には震災後の復興にわざわざ中央から派遣されたよそ者と移ったようだった。
 このところは出身がこっちだっていうのも広がってきたみたいで、みんなの目も変わってきている。それでも、歓迎会で冗談交じりに聞いた「東京本社からの回し者」っていう言葉は、まだ耳の奥にちょっと残ってる。
 そいつを払拭するためにもばりばり仕事しなきゃ、そんな月曜の朝のことだった。

 

 毎朝の日課になっている前日分の新規会員名簿を手に取る。この神戸店は関西支局では支配人のいる梅田店についで規模も大きく毎日数名の登録がある。
 事務手続きに口を出すわけでもないが、スポーツジムの人気は設備も充実度やサービスの質も重要だが、トレーナーと客の相性だというのも10年以上の本社勤務でたたき込まれてきてる。
 バイトも入れて11人のトレーナーが適正に配置できてるか確認するのも、副支配人の俺の仕事の一つだ。自分も学生のときからトレーナーのバイトをしててそのまま就職してしまった口だから、この辺の勘所はなかなかのものだと思っていた。

 

 さすがにトレーナー時代のように毎日マシンを使うというわけにもいかないが、それでも週4日はマシンとフリーウエイト、有酸素運動で鍛えている。中学時代から柔道に明け暮れ、高校の時には県の強化選手にまで選ばれた172センチ、85キロの身体もそれほどなまっちゃいない。体脂肪も20%ジャストを維持してるし、技術的にも結構勉強してるつもりだから、そこらへんの体育大生にだって負けないはずだ。

 

 職員が交代で入れるコーヒーを飲みながら、昨日入会したメンバーの申込書と体位体力の記録用カルテを眺める。4枚目をめくったとき、俺は心臓が止まりそうになった。

 

 新規男性会員、36才。俺より二つ上。氏名欄に力強く書かれているその名、高橋文男・・・。

 

 顔写真、住所、何度も見返した。生年月日、8月生まれ。その日は俺が必死にそらんじた、たった一つの日付。
 右上の証明写真は、高校時代に憧れで俺の胸を焦がした男の顔を、いや中年の域へと差し掛かり男臭さがさらに増しているその顔を、見まがうことのない鮮明さで写し取っている。

 

 高橋文男・・・、タカ先輩・・・。
 高校時代の俺の、ただ一人の憧れだった人・・・。先輩は卒業後、確か市役所に就職し、その2年後に俺は東京の大学へと進学した。
 入部の日に笑いかけてくれた先輩・・・。引退式のときにつけてもらった稽古・・・。無理を言って貰った先輩の道着・・・、たった一年の出逢いと別れ・・・。
 俺の脳裏に、高校時代の思い出が走馬燈のように広がっていく・・・。

 

 

「普通科1年C組、正岡勇二です。よろしくお願いしますっ」
 入部申込書に必要事項を書き込んだ俺は、道場につめていた先輩達に挨拶をした。中学時代から柔道一筋の部活小僧だった俺が、この部を選んだのは当たり前だった。

 

 ほとんどが俺よりでかい先輩達の中で、タカ先輩は背の低さで逆に目立ってたんだ。小柄な身体に盛り上がった肩、ぶっとい太股。はだけた道着の袷から覗いた胸肉の滑らかさは、俺の目を慌てて逸らさせるほど肉感的だった。

 

「正岡勇二か、そやな、正岡は2年にもおるから勇二にしとこか、勇二に」
 先輩は俺の顔を見上げながら、にっこり笑って声をかけてくれた。俺、そのときにもう先輩に惚れちまってたのかもしれない。

 

 抱え込んだらすっぽり俺の身体に隠れてしまうぐらいの先輩の身体。個人戦は体重別とはいえ、学校対抗の団体戦ではそんなこと関係ない。柔よく剛を制すって言うけど、やっぱり体重差は大きなハンディになってしまう。5人一組の団体戦で、代表であるAチームの先鋒を2年間務めた先輩の力量は、誰にも身体の小ささを指摘できないほどの切れのあるものだったんだ。

 

 俺の中にいつの間にか芽生えた先輩へのほのかな憧れ。その思いは、俺が自分自身の中で受け入れる前に、急速に先輩の肉体そのものへの志向へと形を変えていっちまった。

 

 先輩の笑顔、先輩の声、先輩が書いたノート、そのすべてが俺の五感を揺さぶった。稽古をつけてもらおうと組み合えば、10代の肉体が正直に反応する。練習中に勃ってしまえば思うような稽古は出来ない。なんとか納めようと思っても目の端に映る先輩の姿がそれを許さなかったし。

 

 そんなとき俺は、練習後に掃除や洗濯を終えた同級の奴と別れて、一人、道場横のトイレに向かう。
 一発抜いて納めるんだけど、終わった後にトイレの壁に飛び散った汁を拭き取るときには、なんとも言えない自己嫌悪が俺を包んでいた。

 

 悶々とした思いを抱えたまま迎えた、先輩達の引退式。入部して6ヶ月、3年生の先輩達が、もう部活には顔を出さなくなる最後の練習日。俺は先輩に稽古をつけて欲しいと頼み込んだ。

 

 あれほど憧れてたくせに、先輩に対して何一つ行動を起こせなかった俺。そんな俺が出来たのは、たった三つのことだけだった。

 

 その最初の一つ。俺、先輩の高校時代の最後の稽古を、俺につけて欲しかったんだ。

 

 俺、先輩と組み合う前から勃ってた気がするな。そんな状態できちんと組み合えるはずなんかないから、あっという間に寝技に持ち込まれちまった。先輩の太い腕が俺の股間にもぐりこんでくる。先輩、俺が勃ってたの分かってたはずだ。でも、先輩は腕をさらに俺の勃起に押しつけるようにして最後まで押さえきった。俺、最後に「ありがとうございました」って頭下げたとき、きっと顔真っ赤にしてたんだと思う。

 

 先輩に俺の思いを伝える代わりに、俺が取った二つ目の行動。でも、これが一番勇気が要ったんだ。俺、引退式が終わった後、更衣室で先輩に声を掛けた。
「先輩、先輩の道着、俺に譲ってもらえませんか」

 

 先輩、びっくりしてた。そりゃそうだろうなあ。団体戦の先鋒だったから下の学年の先鋒を継ぐ奴が道着貰うこととかはあったけど、いきなり一年坊主の、それも二回りはでかい奴が言ってきたんだから。
 それでも、先輩、にっこり笑って言ってくれたんだ。
「ありがとう、俺のん貰ってくれるんか。何ぼ俺には大きめゆうても勇二には着れんへんやろ。まあ下だけやったらなら練習のときでも使えるけどな。まあ片一方だけもうてもしゃあないから両方もうてくれるか」

 

 先輩、俺の妄想なんか全然分かってない様子で、目の前で道着を脱いじゃったよな。俺、部内で先輩の裸、結構見慣れてたつもりなんだけど、そのときは下半身の茂みを見た瞬間に、目を伏せちまってた。自分が今からやろうと思ってることが、先輩の笑顔を思い出す度に、つらい思い出になるって分かってたから。

 

 確かあの日、わざとぐずぐずして着替えなかったんだよな、俺。みんなが「お疲れっしたー」って帰った後、誰もいないのを確認した俺は、練習のときの格好のまま、先輩の畳んだ道着を肩にかついで、トイレに向かったんだ。
 そう、俺がいつもセンズリこいてた、あのトイレ。

 

 俺、先輩の道着を自分のセンズリのためだけに貰っちまったんだ。先輩の下履きに顔を突っ込んでセンズリしたい。先輩の汗やチンポの匂いでイキたい。それだけの思いが俺を突き動かしてた。今から考えると、やっぱり変だったよな、俺って。

 

 道着の下履きを足下まで下ろすと、下着をつけていない下半身が剥き出しになる。道着に擦れて先走りの露まで浮かべているチンポをぎゅっと握りしめると、俺はたった一人の行為を始めた。
 先輩の道着をしばっていた帯を解くと、汗の冷えたむっとする匂いが広がる。俺は汗を吸った下履きの股間の部分を鼻に押しつけてた。
 道着に染み込んだ先輩の股ぐらの匂い。汗とどこか特有の雄臭さが混ざり合ったその匂いが、俺を獣に変える。

 

「セ、先輩っ、タカ先輩っ、俺っ、俺っ」

 

 部員達がいつも練習してる道場のトイレで下半身を剥き出し、汗くさい道着の匂いを嗅ぎながらセンズリこいている俺。端から見れば変態だと罵られるような行為に、俺は没頭する。
 今日は、もう、誰もここにはこない。そんな考えが俺のセンズリを更にいやらしい行為へと導く。

 

 俺は右手にだらりと唾液を垂らすと、自分のチンポにまぶしつけた。ぬちゃぬちゃという卑猥な音と、唾液ですべりを増した手のひらが刺激するサオの感覚が、一層の高みへと俺を追いやっていく。

 

「先輩っ、俺っ、タカ先輩のチンポ、チンポしゃぶりてえよっ、ああっ、いいよっ」

 

 イキそうになると、前後運動を止め先走りのあふれ出る鈴口をいじくりまわす。身の置き場のないような刺激に思わず前かがみになっちまう。何度もイく寸前の絶頂を味わった俺は、いよいよ最後の仕上げに取りかかった。

 

「先輩っ、タカ先輩っ、俺っ、俺っ、イくっ、イくっ」
 小声で先輩の名前を呼びながら、俺のセンズリがクライマックスを迎える。立ったままの射精に、膝ががくがくと揺れる。
 びゅっ、びゅっと、いきおいよく飛んだ雄汁が、正面の壁に音をたててぶつかった。どろりとした汁が、ゆっくりと流れ落ちる。
 俺は狭い個室の壁にどんと背をつくと、そのままずるずるとしゃがみこんだ。窓の外から漂ってくる金木犀の香りと季節外れの栗の花の匂いが混じり合い、俺の身体にいつまでもまとわりついていた。

 

 憧れて憧れて、狂うほどに思っていても何にも出来なかった俺。そんな俺が先輩に対して取れた、たった三つのこと。最後の一つは、先輩が卒業した後の話だ。

 

 俺、自分の大学合格を伝えたくて、たった一度だけ勇気を振り絞って先輩の家に電話したんだ。先輩はまるで自分のことのように喜んでくれた。
 でもそのときの俺って、先輩が合格祝いだと言って誘ってくれた飲み会も、上京の準備があるからと断ってしまったんだ。会えばきっと泣いてしまうだろうって自分で思ってたし、社会人になった先輩を目の前にして、何もしないでいられる自信も無かったし・・・。

 

 

「副支配人、入っていいですか」
 部屋のドアをノックする音に、俺はあわてて現実へと頭を切り替える。当時は勃起すると道着に擦れて痛かったチンポが、今はスラックスを押し上げ、小山のような盛り上がりを見せている。

 

「ウチの庭にいっぱい咲いてたんですよ。嫌いな人もいるけど、副支配人は大丈夫ですか?」
「ありがとう。俺は好きな花だよ」
 女の子が花瓶の水を換えてきたようだった。俺は椅子に座ったまま礼を言った。こぼれんばかりの金木犀の花。その甘い香りが、再び高校時代の記憶を揺り起こす。
 そう言えば、引退式。今頃の季節だったっけ・・・。

 

 自分が男好きだと分かっていても、なかなか行動には移せなかった俺。社会人になっても雑誌やビデオで一人慰めることはあっても、実際の男の身体に接したことは数えるほどしかなかった。結局、俺、先輩の影、引きずってるみたいだ。

 

 さすがに10年以上も昔の思い出となれば、少しは冷静になれるようだった。これからは大人のつきあいしなきゃな・・・、そう思って先輩の、いや高橋さんの書類にもう一度目を通した。

 

 担当トレーナー、その小さな欄に「佐田」の印鑑。その赤い小さな印影を見たとき、俺の心の中に一筋の暗雲が漂った。

 

 佐田幸雄、幸雄の奴、あいつが担当ってことは・・・。