里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農夫の性の記録

第一部

少年期

 

一 序章

 

 私は現在六十七歳。地方で専業農家として、土とともに生きてきた。私が周囲の農家の面々と大きく違っていたのは、生まれながらの真性ホモであったという点である。

 そんな私の自己紹介は体験談の中で、追々進めて行くとして、私が自分の性の記録を残したいと思うようになったのは、自分自身の老いにある。農業で身体を使ってきたから、私は自分の肉体に少なからずの自信を持っていた。

 町で見かける同年齢の男達より、胸板も厚かったし、太股や脛だって逞しかった。余分な贅肉はないわけではないが少ない方だろう。かといってスポーツジムで鍛えたような、スポーツ選手の肉体でもない。日々の労働で自然とついた筋肉。それが私の肉体だった。

 そして、その身体、特に下半身を覆う体毛の濃さにも満足していた。私自身が臑毛の濃い男が好きなので、自分だってそうありたい。一般的に、女性には忌み嫌われる臑毛だが、ホモの世界では一定量の需要がある。

 そんな私が、自分の老いを、嫌でも意識せざるを得なくなったのは、還暦を迎えて間もなくのことであった。

 長年の激しい農作業が祟ったのであろう。その年の梅雨入りと同時に、ついに私の肉体は悲鳴をあげた。椎間板ヘルニアの発症である。腰から足にかけて始まった痛みは、やがて座骨神経痛へと進んだ。正直、腰というより足の付け根から足先にかけてが痛いのだ。特に足の付け根の痛みは、ちぎれるような、という表現がぴったりだ。

 そもそも座骨神経痛の痛みは、経験のない人にはなかなか理解してもらえない。あえて言うなら足が吊った時の痛みに似ている。足が吊った時の六割くらいの痛みが二十四時間続くのだ。当然、立ってなどいられない。

 症状の一番重かった最初の二週間、私はまともに立ち上がることさえできず、トイレに行くにも、家の中を這って歩くしかなかった。外出などもってのほかで、麻酔科への通院と最低限の筋力を維持するためのリハビリ以外は、三ヶ月もの間、ただ布団の上に横たわって過ごすしかなかった。

 病院からは、一日に二十錠もの痛み止めを処方された。しかし、その中のある薬剤の副作用で、私は勃起はするのに、いくら擦っても射精できない状態に陥ってしまった。チンボが、まるでただの棒になったような感覚で、いくら擦っても「感じる」ことがないのである。

 その薬はサインバルタ。実は、これは抗うつ薬である。脳から出される、天然の痛み止め物質の分泌を促進するためだったのだが、私には体質的に合わなかった。

 射精できないような状態は、精神的にも男を追い詰める。まして、私は六十歳を越えても、毎日のセンズリなど当たり前、休日など日に五~六回も射精することがあるような男なのだ。

 かつてホモサウナに初めて足を踏み入れたときなど、二十四時間で十四回も射精したことがある。これは一日の射精回数の、生涯での最高記録だ。ホモサウナでの経験を語るのはまたの機会に譲るとして、思い返せば、幼少の頃より私は人一倍の射精回数を誇ってきた。小学校六年生の時、友人が相互センズリした話を聞かされ、あまりの興奮に帰宅してから就寝までの間に七回射精した。帰宅が午後四時頃、当時、就寝は夜十時頃だったから、わずか七時間の間に七回も射精したことになる。

 その他にも、学校の休み時間、講堂のあまり生徒が使わない便所で、校長先生のことを思いながら、日中だけで四~五回も射精することもよくあった。当時の校長先生は、細身で髭の剃り跡の濃い男だった。

 この射精回数については、私の祖父も同様だった。私もそうだったのだが、むしろ、相手さえ変われば何回でも可能だといってよかった。もしかしたら、遺伝的なものもあるのかもしれない。

 そんな私が、薬の副作用とはいえ、射精できないのは、ただでさえ落ち込みがちな病床にあって、さらに大きな不安を駆り立てるだけだった。射精できない状態は、精神的にも肉体的にも、何ひとつ良いことはない。

 そこで、私は、医師に自分の状態を伝え、サインバルタの服薬だけは中止したいと願い出た。担当医は分厚い医学書を丁寧にめくりながら説明した。

「製薬メーカーからの記載には、射精できなくなるという副作用はないのですが、薬の成分から考えると、私は充分にあり得る副作用だと思います。服薬は中止しましょう。ただし、一気に止めてはだめです。」

 その時、私には医師の言葉の意味がわかっていなかった。実は、一度飲み始めてしまった抗うつ剤を中止するのは、とても大変な作業なのだ。毎日、少しずつ飲む量を減らしていき、薬剤の血中濃度が下がっても、平穏でいられるよう調整していかなければならない。

 医師の説明により、頭では理解したつもりになっていたが、実際に血中濃度が下がるにつれ、私は精神的に不安定になっていった。

 いよいよ完全断薬の日、私は、なぜか涙が止まらなくなり、終いには台所の隅に踞って号泣するありさまだった。今までなかった私の姿に娘は言葉を失い、隣で婿さんは途方にくれていた。婿さんにとっては、私は温厚な義父という認識しかなかったからだろう。

 確かに椎間板ヘルニアは辛いものだが、何も号泣する程の理由にはならない。とにかく、たいした理由などないのに、泣きわめかずにはいられなかったのだ。射精不全に続く、それが二つ目の副作用だった。

 翌日、完全に血中濃度が0になって、ようやく私は落ち着きを取り戻した。インターネットで検索すると、射精不全と意味のない号泣は、サインバルタ服用者の多くに見られる副作用のようだった。

 

 夏が過ぎた頃、ようやく椎間板ヘルニアの痛みは落ち着いてきた。

 担当医によると、多くの場合、白血球がヘルニアの病巣を異物として認識して攻撃する。こうして病巣が縮小し痛みが癒えていくのだ。本当に手術が必要な症例はほとんどないらしい。そもそも手術の場合、再発率が非常に高いそうだ。私のヘルニアは、医師が驚くほどの大きさで、

「これでよく昨日まで立っていられましたね。」

 と開口一番、医師が同情するくらいだったのだが、かえってそれがよかった。白血球は、即座に異物と判断。発症から三ヶ月を過ぎた頃から、急速に痛みが引いていった。

 やがて、私の表情に明るさが戻り、娘、婿さんも、ひとまず安堵の表情を浮かべていた。

 

 しかし、その矢先、今度は痔ろうが私を襲った。長年、アナルセックスでウケだったことが原因であろう。

 結局、私は翌年三月末の梅の花の咲く頃、六十一歳を迎えるのとほぼ同時に、生涯で初めての頸椎麻酔と手術を経験するはめになった。初めて、そして唯一経験した手術が痔の手術だったのは、ホモ、しかもアナルウケの宿命だったのだろう。

 こうして怒濤のような、私の還暦の一年間は終わった。まるで人生の汚点のような一年だった。

 幼い頃から、健康優良児だった私にとって、一年間にわたって体調不良に振り回されるなど、生涯で初めての経験だった。人は経験しないとわからないことがたくさんある。私は、六十歳にして、初めて病気の辛さや不安、いや病気の人の切なさを、ようやく人並みに理解できたといってよかった。

 いずれの病も、命にかかわるような大病でなかったことは不幸中の幸いであった。しかし、相次いだ身体の不調は、自らのこれまでの生き方を見直し、今後の人生について考えるひとつの契機となった。

 もっとも、昔の人は、大きな損には小さな得が必ずあるといったものだが、それは本当で、私は寝込んでいた三ヶ月間に、インターネットやスマートフォンの使い方を身につけることができた。その二つは布団に横になりながらでも可能だったし、何より寝ているだけの三ヶ月間、下半身をしごいては、日に何度も身体を麻痺させながら、白い樹液を迸らせるしか楽しみがないのだ。

 もともとワードやパワーポイントは使っていたので、その気になりさえすえば、なんとか使いこなすまで、さほどの日数を必要としなかった。

 

 ところで、本来、私は読書好きだ。幼少時から性癖の異なる同年代の友人と遊ぶよりも、一人、読書にふけり、一人、空想の中で自由に物語を綴ることの方が好きだった。

 大人になってもそれは変わらない。今でも感動的な小説やエッセイをよく読む。しかし、不思議なことに、寝込んでいた三ヶ月間は、精液にまみれたホモ体験談以外はまったく読む気になれなかった。健全な書物、ましてや感動的な物語などには何の興味も湧かなかったのである。

 納屋の倉庫、そこは古い農具が押し込んであるスペースなのだが、そこの天井裏には、サムソン、豊満、シルバーなど、過去何十年分ものホモ雑誌が隠されていた。一番古いものは一九八七年のものだった。私が三十四歳の時のものである。当時、雨で外作業のできない日には、納屋の古い農具の陰で、これらの雑誌を逸物をしごきながら読みふけり、勢いよく濃い精液を吹き上げたものだ。

 とにかく、寝込んでいた三ヶ月間、私は痛む身体を庇いながら、それらを持ち出し、自室で横になりながら読み返した。昭和の体験談の淫靡な雰囲気は、私のような汚れ専の傾向を併せ持つ男にとって大きな興奮を呼び起こす。

 それらを読み尽くすと、次はインターネットでホモ体験談を探す毎日だった。そんな日が数ヶ月も続けば、掲示板やブログ、SNS、ホモアプリに詳しくなるのも当然だった。これらは、私が情報化社会に適応した、新たな性生活を始める契機となった。

 

 五十代までの私にとって、十年後の自分の姿を想像することなど、実に容易なことだった。しかし、六十代も後半になった今、十年後、七十代後半の自分を想像するのは、なかなか難しい。果たして健康でいられるのだろうか。私は農業を天職と思っているが、その農業を、婿さんと続けていられるのだろうか。

 これが二十年後はどうかという話になると、もういけない。そもそも自分が生身の肉体として、この世に存在しているのかさえ怪しいではないか。下手をすれば墓の中である。いや、よく考えると八十七歳なら、そうなっている可能性の方が大きい。

 そう考えた時、私は自分が歩んだ性遍歴を書きとめておきたいと思った。書いておかなければ、いつか私の肉体が消滅する時、私の体験したことも消え去ってしまう。そして、その日は、ある日、突然にやって来るかもしれないのだ。

 椎間板ヘルニアと痔ろうがそうであったように・・・。

 

 私は同性しか愛せないという、特殊な性癖を抱えてこの世に生を受けた。同時に、性的少数派でさえ、眉をひそめかねない許されざる性遍歴を歩んできた。それは六十年間、誰にも語ることのできないものだった。

 私に残された時間は、どんなに生きても後二十年くらいのものだろう。健康でいられる期間は、もっと短いかもしれない。しかし、今から書き始めれば、自身の書いたものを。納得のいくまで推敲するくらいの時間は残されているはずだ。

 自分の特殊な性癖を他人に晒すのには、常に大きな不安がついてまわる。しかし、私は自分に言い聞かせる。

「機は熟した。そろそろ語ってもよい時だ。」

 私が世間体だけのための結婚という選択をしてしまったせいで、結果的に三十年以上にも渡り、騙し続けることになってしまった妻も、もはやこの世にはいない。私が内面をさらけ出すことで、妻を傷つけてしまう心配もない。

 

 男と男が愛しあう世界に生きる者は、親友にも、子供にも、まして親などには、言えるはずのない、闇の部分を常に心の奥に抱えている。

 普通の男たちが、その気になりさえすれば、心の垣根を取り払い、腹を割って語り合える、あるいは酔った上でのことだからと水に流せる、そんな酒の席でさえ、私たちは自分の些細な言動のひとつひとつを常に制御しつづけなければならない。

 僅か一言が身を滅ぼすことに繋がりかねないからだ。しがない田舎百姓の私でさえそうなのだから、社会的地位のある御仁にとったら、なお更のことであろう。

 自分をわかってもらえない孤独感、これは実に恐ろしいのだ。素振りさえ許されない闇は、自分の中でどす黒い澱となり、やがて心の奥に溜まっていく。だから、苦しむのだ。

 私は、その澱を吐き出したいと思った。そして、何よりも、それを吐き出し、形ある物として残すことは、私がこの世に生を受けた証にもなるのではないか・・・。

 

 いつしか私は、自分の性体験を少しずつ体験談にまとめ始めた。そして、使い方を覚えたてのインターネットの掲示板やSNSに、それを投稿し始めた。その際、私が最も気を配ったのは、自分の身許が割れないよう、細心の注意を払うことであったことは言うまでもない。

 そこで、話の大筋やエピソードは事実だが、個人情報に関する部分はオブラートに包むことにした。早い話、歪曲したのだ。

 偽名を使うのは当然のこととして、年齢や家族構成も微妙に事実を曲げた。他にも、例えば、本来は孫が三人いるのにもかかわらず、当初、孫は二人としておいた。

 それだけではない。私に息子がおらず娘が婿をとったのは事実であるが、私も婿養子に入ったという話は事実ではない。私が実家を出たことにした方が、身許がわかりにくかろうと思ったまでのことである。小さな変更点に至っては枚挙に暇がない。

 実際は、私は六人兄弟姉妹の長男で、下に五人の妹がいる立場だった。祖父が、私を殊のほか溺愛したのは、私がたった一人の男の内孫だったからである。また祖母が早いうちに亡くなったとも書いたが、実際に祖母が亡くなったのは、私が高校生になる頃の話である。いろいろな事情があって、祖父と二人だけで留守番することになったのだが、祖母が家を空けた理由を書くのが煩わしかったのだ。

 そういえば、かつて養蚕をしていた部屋でセンズリに耽った・・・というようなことを書いたこともある。これも事実ではない。農具の置いてある納屋でセンズリしていたのは本当だが、私の住む開拓地が開かれたのは戦後のことで、その頃には既に養蚕は下火になりつつあった。外国産生糸の輸入が増え、価格の低迷が顕著だったからだ。だから、我が家が養蚕に取り組んだことは一度もない。県内で養蚕が盛んだったのは、明治から昭和初期にかけての話である。その頃からの農家には、納屋に古い養蚕の道具が残されているのは珍しい話ではない。

 私は、それを書いた方が体験談が面白くなるだろうと思った。そこで子供の頃に本家、つまり祖父の実家の納屋で目にした光景を、思い出して書いたのだ。

 

 農家の長男だったことに恨みはない。そもそも私は農業を継ぐことに迷いはなかった。農業は祖父の職業である。私も祖父のようになりたかった。しかも、そこには私の性癖を刺激する土臭さがある。しかし、農業を継ぐという決断には、家系を未来に繋ぐことが求められた。つまり、女とセックスして子孫を作れということだ。私の家は開拓農家だったが、それでもそれは使命だった。まして旧家と呼ばれる家柄の場合、その責任はあまりに重い。

 結局、私は、三十歳を越えた頃、本人の意思に関係なく、結婚という人生を選ばざるを得なくなった。その選択には、嫌々見合い結婚し、子孫を残すためだけに、男とのセックスを想像しながら、嫌々女とセックスするという、哀れな結末があるだけだった。

 もしも、結婚という選択肢を拒むことができたなら、私の人生はどうなっていただろう。

 少なくとも、三十年以上にも渡り、妻を騙し続けなくても済んだだろう。同時に、もっと多くの男と知り合い、肌と肌を重ねることができたかもしれない。確かに、それは快楽の追求ではあるが、幸せだったかというと疑問符も残る。なぜなら、娘はもちろん、孫もいないという人生を選ぶことになるからだ。

 私は、祖父のような逞しい農夫になりたいと望んでいたから、紆余曲折を経ながらも、最終的に、農業を生涯の職業に選んだことに、何の後悔もない。それに、農業を継いでいなかったら、婿さんと同じ目標を持ち、力を合わせて働く日々だって来なかったことになる。それは考えたくもないことだ。

 このことからもお解りだろうが、私は娘の夫に十年来の片想いをしている。しかし、そこに苦しさはない。なぜなら、セックスできないというだけで、家族として一つ屋根の下に暮らすことが叶ったからだ。

 ノンケの婿さんとはセックスがない。セックスがないから飽きることもない。だから、十年以上も良好な関係を保っているのだろう。娘に、

「いつも旦那をたててくれて感謝している。」

 と言われたことがあるが、正直、娘には謝るしかない。好きなタイプだから婿さんをたて、婿さんに優しく接することができるだけなのだ。

 そんな婿さんとの出会いや、初めて一緒に入浴し、婿さんの裸体を目にした日、それらの想い出は今でも鮮明だ。時には婿さんの裸体、そして、婿さんに抱かれる自分を想像しながら、自らを慰めることもある。婿さんとのエピソードも、別の章で語って行きたいと考えている。

 いずれにせよ、私は世間体に負けた。そして、結婚の道を選んだが、もし自分自身に正直に生きることを選んでいたら、婿さんと同じ屋根の下で暮らすこともなかった。やはり、最後の最後で、人生は何がプラスに働くかわからない。人生は本当に不思議なものだ。 

 

 今回、三太さんのご厚意で、私の書き溜めたものを、改めて発表する場を設定していただくことができた。三太さんとのやり取りのきっかけは、Twitterを使い始めたことだった。

 椎間板ヘルニアで動くことされままならなかった三ヶ月間がなければ、私がTwitterを始めることはなかったであろう。もしかしたら、Twitterの存在さえ知らないままだったかもしれない。そうしたら、三太さんとの繋がりも生まれず、この作品が陽の目をみることもなかったはずだ。

 今は椎間板ヘルニアに多少の感謝さえ感じている。祖父ではないが、あれは、きっと山の神様が「休め」と言ってくれていたのだろう。

 

 本当に人の未来とは予測のつかないものだが、辛い経験で、人生が豊かになることもある。逆もしかり。予測がつかないから、誰もが生きていけるのだろう。

 未来を知る能力など欲しいとも思わない。残された命の長さが、日に日に短くなるのを感じながら生きるなど、私にはできそうにない。あと数年で七十歳、いよいよ古希が近づいてきた。そんな今、ますますその思いは強くなる。

「長い目でみれば、幸福と不幸は同じくらいやってくる。全部あわせれば、だいたい相殺されて普通になる。」

 幼い頃、しばしば耳にした、祖父の口癖である。おそらくこれは真理である。それを信じて祖父は生きていた。私が、あと何年生きられるかは誰にもわからない。しかし、私は、残された人生を、祖父の言葉を信じて生きていくだけだ。

 

 さて、今回、今までにない形で、自分の体験談を公開するにあたり、改めて私が考えたことがある。それは、これまでの体験談を時系列で再構築した、私小説のようなものを書けないかということだった。

 これまで、Twitterで体験談を連載して来たのだが、一話完結、それも情報量の少ない短文のうちは、自分に都合の悪い部分や身許が割れそうな部分を歪曲しても何の問題もなかった。ちなみに、Twitterは最大でも百四十字までしか許容されない。

 しかし、文章が長くなればなる程、私小説のような形態に近づければ近づける程、事実を曲げたままでは、書けないことが明確になって行った。私は痛感した。このままでは無理だ。書けない・・・と。

 どういうことかと言えば、事実を歪曲した部分は、必ずといってよいほど、書き続けるうちに辻褄が合わなくなるのだ。そうなると、事実を小出しにしていくしかなくなる。当然、以前、書いた内容と齟齬が生じる。

 結局、新たに真実を出したことで、食い違いが出た部分はすべて書き直さなければならなくなる。これでは、書いても書いても同じ箇所を行ったり来たりするだけで、いつになっても話は先に進まない。かといって、そのままにすることは、物語の破綻を意味している。

 もしも歪曲した内容を完全に記憶していられるのなら、おそらく何を書いても問題ないだろう。話の辻褄をあわせるのも容易だ。

 しかし、生憎、真実以外を長時間記憶しておけるだけの頭脳を、私は持ち合わせていない。私にあるのは大したことのない記憶力、そして、滅多に体験した人がいない、淫乱すぎる何より、世間では決して許されざる類の性体験だけである。

 所詮、私はたいした学歴もなく、淫らなセックスの前にはすべての理性を失ってしまう、自堕落な男に過ぎないのだ。

 

 今回、物語を再構成するにあたり、思い切って、これまで事実を歪曲した部分は、すべて書き直すこととした。真実をさらけ出し、ありのままを書くだけの覚悟が決まったともいえる。

 私が過去に書いたものを、たまたま読む機会があった方は、細部(?)に食い違いがあることに気がつかれるだろうが、それは以上のような理由による。嘘を読ませてしまったことについては、

「本当に申しわけない。」

 の一言である。ただ、エピソード事態は歪曲していないので、改定したものも全体的な印象は変わっていないはずである。

 

 今、ここで私の性を見直すことは、自らの生、いや人生を見直すことにほかならない。ホモにとってセックスは人生に直結している。性、それはホモの人生そのものである。

 そのためには、まず私の生い立ち、そして、私が坊主から男になった頃のことについて語らねばなるまい。私の性の目覚めは、小学校五年生の梅雨時に遡る。