「黒爺(くろじい)、その小屋とやらはまだか?」
「若、もうしばらくでござります。次の峠を下りゆけば、見えて参りましょう」
深い山の杣道であった。
先を行くはまだ若き犬獣人。
後ろを守るは見事に漆黒の獣毛を纏った虎族の男である。
若武者はまだ元服したばかりといったところか。音を立てぬようにと腰の物を背に負うその姿は、犬族の中でも小柄な方であろう。
行く手を指し示しながら若者の歩調に合わせている大柄な虎獣人は、これはもう高齢と言ってもよい年齢のようである。
並べ立てば、虎族の男の胸ほどの高さにまでしか犬族の若者の背は届くまい。
2人とも、軽装の出で立ちである。
西方から広がる黒雲の雨にはまだ追い付かれてはいないのにもかかわらず、両人の衣は重たげにじっとりと濡れ、汗と泥だけでは無い異臭を放っていた。
「ああ、黒爺! あそこか?」
「さようでございます。周りを見て参りますので、若はしばしお待ちを」
冬季の炭焼きにでも使うものなのか、辿り着いた山小屋はそこそこに広く、裏手の井戸もまだ生きているようである。
周囲を警戒する虎族の男の背を見つめる若き犬族の瞳は、すでに泣きはらしたかのように潤んでいた。
「外も内も、大丈夫のようでございますな。近付く者あれば分かるよう、少し仕掛けもしておきました。どれ、上がる前に衣を脱ぎましょう。私も若も、身体も衣も一度水を通さねばなりますまい」
「あ、ああ、そうだな……。このままでは日が差すところでは歩けはしないだろうし……」
老人の促しに、若き犬族が訥々と答える。
不安げな若者の意思を鼓舞するためか、虎族の男が笑いながら返事を返す。
「はははは。武之進(たけのしん)様の衣も早く水を通しておかねば、やれ戌亥(いぬい)の息子はいまだに小便垂れかと笑われてしまいますな」
「し、知っておったのか……!」
「犬族のあなた様ほどでは無いかもですが、拙者の鼻も、そこそこ利くのでございますよ。さ、私の衣とて、返り血を落とさねば山の獣を引き寄せてしまいます。一緒に洗いますので、早くお脱ぎを」
虎族に促され、大事そうに脚絆を外し、その衣を脱ぎだしたのは、戌亥武之進(いぬいたけのしん)という犬族の若武者である。
まだ耳の形も整ったばかりの(この時代、成人の儀となる『元服』において、犬族にあたっては耳を小さく立てる整形が通過儀礼として慣例化している)、若い、いや、虎族の男からしてみれば『幼い』とすら言える若者であった。
その若者は、いまだ少年から青年へと変化する過程にあり、この時代の平均的な犬族の成人としてみても、小柄な体格であった。
くるりとした瞳はまだ世の闇を知らず、その手はまだ他者の命を奪ってはいない。
若者は意を決したかのような思い詰めた表情で、衣を脱ぎ去った。下帯として締めていた六尺褌がぐっりょりと濡れ、異臭を放っている。
「ささ、褌もこちらへ。今さら恥ずかしがられて、どうしますか」
とうに自らの衣服を脱いだ虎族の男が催促をする。
男のもっさりと茂った黒々とした体毛には、わずかに白いものが混じっている。
老虎族のゆったりとした所作の中でも隆々たる筋肉の鎧をまとったような体躯はその律動を露わにし、目の前にした若者にとっては眩しく思えるほどの裸体であった。
その褌の前布は小山のように盛り上がり、チラチラと垣間見をする若者の視線を十分に意識しているようだ。
対する犬若者の股間のそれは、伸びゆく体格に比してもいささか矮小なものに思える。
先端はわずかに鈴口を覗かせてはいるが、平常な状態でも見事に剥け上がった虎族の男のものと比べると、その形状の違いは明らかであった。
「黒爺のは、その、やっぱり、大きいな……」
「ご自分のものとお比べになられておられるのですかな、武之進様」
「あ、その……。気にならぬと言えば、嘘になるのだが……。その……、黒爺のものは、父上様のものよりも、はるかに大きいではないか」
「はは、御父上も立派なものをお持ちでございましたぞ。さて、衣も身体も裏の井戸にて流しましょう。武之進様も、こちらへ」
互いの言葉の選びようから判断すれば、主君筋とそれに仕えるものの会話であろうか。
始終敬意を尽くす虎老人は、その名を黒虎(くろとら)と呼ばれていた。
若き戌亥武之進が父、戌亥源三郎(いぬいげんざぶろう)の下で働く、忍びの者である。
武家の子である戌亥武之進の外歩きに忍びの者が付くことはある意味当然な時代ではあったが、それは他の供のもの達から距離を置き、周囲への警戒を怠らぬ役目としてであろう。
主君筋のものと忍びの者が、このような距離感での道中とは、2人にいったい何があったのか。
話は数日前へと遡る。
………………。
…………。
……。
「して、熊谷(くまがや)殿は間に合わぬと申すか」
「間に合わぬ、という状況とはいささか違うものかと思われますぞ、源三朗様。もはや猪西(いにし)の軍勢、我が領地を取り巻くこと十重二十重の陣を敷いております。赤虎(あかとら)よりの知らせに拠りますれば熊谷様も馳せ参じようとされたようではございますが、いかにもこの包囲を越えることならず、たいそうに悔やんでおられるとか……」
問答をしているのは戌亥家当主、戌亥源三郎と、いずれも虎族である3人の庭の者であった。
源三朗の後ろに控えるのは、次期当主たる息子であろう。
話に出た『熊谷家』とは、この『戌亥家』領主源三朗と嫡男と、ともに友家としての『契り』を結んでいる間柄である。
「もはや戌亥の家もここまでか……。黄虎(きとら)よ、『つや』と『えん』の様子はどうじゃ?」
若き庭の者、それこそ武之進とさほど年も変わらぬであろう『黄虎』と呼ばれる虎族の若者に、源三朗が問う。
尋ねた『つや』は源三朗の正妻、『えん』は側室であった。2人はともに屋敷の離れにて住まっている。
「は……。お二方ともその意志は固く、あくまでも殿と、この屋敷と、命ある限り最期まで伴にされると仰っておられます。赤虎とともに説得を試みましたが、意を反することは出来ませんでした」
「黄虎よ、相分かった……。2人ともよく仕えてくれた。両名ともに、我には過ぎたおなごじゃったな……」
源三朗の言葉に、若き黄虎がその頭を落とす。
「して、赤虎よ、『ふせ』についての首尾は上手くいったようだな」
戌亥家当主、源三朗には4人の仔がいた。
いや、正確には正妻である『つや』との間に3名、側室の『えん』との間に4名の仔を成したのではあったが、7人の仔のうち、3つの年を数えたのは、そのうちの4名だけだったのである。
長子として戌亥家を嗣ぐべく育った『つや』の仔、戌亥源之進(いぬいげんのしん)は、先の戦での傷で、若きその命を落としていた。
この場にて、当主たる源三朗の後ろに控えるは次男である戌亥甲子丸(こうしまる)であった。一昨年には元服も済ませ、その武者振りも立ち上がった耳に見事に沿うもののようだ。
その面構えは既に次期当主たるに相応しく、その姿は背筋を伸ばした伸びやかな体躯を見せている。父と庭の者達の話にも凜とした表情を崩さぬのは、父の名代とも成りうる者としての緊張からくるものでもあるのだろう。
「上手くいったかどうかは『ふせ』様からすると、また違う見方でもござりましょうが……」
答えたのは『赤虎(あかとら)』と呼ばれた、やはり庭の者。甲子丸よりはいささか年長の、鍛えられた肢体が逞しい青年である。
どうやらここ戌亥家では、3人の忍びとの契約を結んでいるようだ。
「あれもかなり暴れたようだな。くろ(黒虎のこと)の手も煩わせたと聞いておる」
「ふせ様におきましては奥方様方とともに喉を突くと泣き叫ばれましたので、やむを得ずに当て身を喰らわせ、気が付かぬうちに赤虎の手にて猿日様の御寺へとお連れいたしております。さすがに領外の寺までは猪西(いにし)の者どもの手も伸びはしますまい」
「それでよい。若いおなごは良き夫に巡り会うのが幸せであろう。男共のようにその命を家の名に賭けるには、忍びないものじゃ……」
源三郎と庭の者達の会話は、負け戦濃厚なこの戦いの中、家中の女子どもを如何にして領外へと逃がすかのものであった。
「して、くろ(黒虎)よ。武之進(たけのしん)については、後見のお前に任そうと思っておる」
「はっ。この黒虎、一命を賭し、武之進様を熊谷様の下へと送り届け申し仕ります」
「それについてはな……。黒虎よ、後で我が寝所へと来い。そこでの言葉が我の最後の言葉となろう」
源三朗の言葉は、もはや己の命亡き者としてのものであった。
その覚悟は後ろに控える息子、甲子丸の表情からも、当主とその跡取り、両名共に同じ決意が見えたのである。
………………。
…………。
……。
果たして、粗末な山小屋に身を寄せる2人は、負け戦も明瞭な家屋敷から密かに抜け出した、戌亥家の最後の男子である『武之進』と、その後見でもあり戌亥家3代にわたり庭の者として過ごしてきた『黒虎』の両名であった。
「冷えて参りましたが、着物が乾くまでは褌だけで過ごさねばなりませぬ。このような夜は肌と肌との触れあいこそが、体温を低下させぬ術でございます。私の胸に背を預け、互いに温め合いながら夜は過ごしましょうぞ」
昼間は日が差せば汗ばむほどの陽気にもなる季節ではあったが、山の夜は一気に気温が下がっていく。
乾きのよい一重の衣類といえど、身に付けるまでに乾くには、丸々一晩はかかりそうな具合であった。
「あ、ああ、そうだな、黒爺……。新しい褌を用意してくれているのか?」
「乾いた布は如何様にも使える便利なものでございます。我ら忍びの者は、常にある程度の白布は持ち歩いているのでございますよ」
褌や腹巻きとしての利用はもとより、傷の手当てや様々な用途への準備か。黒虎の背負う荷物には、細々とした用具が効率良く納められているようだ。
「やはり、私の逸物がかなり気になっておられるようですな、武之進様?」
「う、あ、その……。やっぱり、その、どうしても、黒爺のは、大きいな、と思ってしまって……」
井戸にて身を清める前から武之進の興味が黒虎の巨大とも言える逸物へと向いていることは、先ほどの2人の会話からも明らかである。
褌を締めてもらっている武之進の視線が、ちらちらと虎獣人の股間へと走っていた。
取り出した白布を裂き、武之進の腰に新しい褌を締める黒虎は、まだ己の股間をぶらつかせながらの裸体である。
常態であるにもかかわらずむっくりとした太さの肉茎とくっきりと剥け上がり露出した亀頭の丸々とした艶やかさは、まだその先端を朝顔の蕾のように閉じたままの武之進にとっては、まさに眩いほどのものなのだろう。
「はははは。武之進殿ももう少し大人になられれば、いささかはその豆鞘のような逸物も大きくなりましょうぞ」
見せつけるかのようにずんと腰を突き出した黒虎は、おどけたように己の逸物をぶんぶんと振り立てる。
その滑稽な仕草は、暗い気持ちにならざるを得ない逃避行を少しでも明るいものにしようとの年長者ゆえの思いからのものではあるのだが、若き武之進がそこまでの想いを酌み取ることは、まだまだ出来ぬようであった。
馬鹿にされたとでも思ったのか、ぷいと横を向く武之進。
暖を取るようにと囲炉裏には火を熾してはあるのだが、それすらも追っ手への標とならぬように極力小さなものへと黒虎が調整している。
熱量高き若者の肉体ではあっても、宵の寒さに互いに身を寄せることはさすがに避けえない。壁際に座りこんだ老虎族の胸へと、おずおずとその背を預けた武之進なのであった。
背中から伝わる老虎族の温もりに、曲げていた臍の向きが元に戻ったのか、若者がぽつりぽつりと呟き始めた。
「私は絶対に逃げ延びて、父上が、兄様達が、必死に守ってくれた戌亥家の復興を成すつもりだ。黒爺、一緒に私の夢を叶えてくれ無いか」
互いに裸体を寄せ合う中、背中を守る黒虎へと武之進が問うた。
「私ども庭の者、忍びの者は主家当主であられる源三朗様との契約によってお仕えしてきた身。それはあくまでも一代毎の契約によって為されるものであり、源三朗様とのそれが自動的に武之進様に引き継がれるわけではございません」
低く柔らかな響きではあるのだが、その内容は、あまりにも冷酷な、あまりにも冷徹な、黒虎の言葉であった。
共に屋敷を抜け、父と兄が盃を交わした熊谷家へと向かう者として、当然賛意が得られるものとばかり考えていた武之進にとっては、かなりのショックな返答であったろう。
若き、いや、幼き武之進ではあっても、武家の習い、庭の者との契約に関しては既に見知ったことである。
「それは分かってる。分かっていることではあるが、おそらくは父上も兄上様も、すでに亡くなっておられることだろう。それでもこの私、戌亥家の唯一の生き残り、戌亥武之進と、共に歩むとは言ってくれないのか」
「私が源三朗様から受けた命は、あなた様を熊谷家領地にお連れし、熊谷様の庇護の下に導くことでございます。そこから先は、熊谷家とあなた様の関係のみが、戌亥家の復興の礎となるものでござりましょう」
理路整然と話す虎獣人から、身体を離す若者。
黒虎の語る源三郎からの『命』とは。そこには黒虎による『物言わぬ嘘』もまた、秘められているのではあったが。
「私がこれほどまでに頼んでも駄目なのか? ならば私と契約を結べ、黒虎。それなら何も文句は無かろう」
そこには一人生き残った戌亥家の男児としての気概が見えていた。
黒虎の言葉は、それはその通りのものではあったのだが、黒虎の内心とは真逆の言葉であり、わざと自らの武之進への思いを断ち切るために口にしたものだった。
武之進のそこまでの決意と成長を嬉しく思いつつも、あくまでも非情な忍びの者を演じる黒虎。
「我ら庭の者との契約は、金子(きんす)によってのみ成り立つもの。名誉や武功とは、侍様方のためのものでありましょう。あなた様に、私との契約を結ぶ金子か、もしくはそれに代わる何かがおありなのか?」
「この後に及んでっ、か、金のことを言うのかっ!」
言い放つ黒虎に、若武者がいきり立つ。
ばっと振り向いた武之進が、その小さな身体を生かしたものか、横殴りに黒虎の顔面に拳を当てようと腕を振った。
「はっ!」
目にも止まらぬ早業であった。
次の瞬間、若者の身体は床に押し付けられ、伸ばした手を固められ、身動き一つ取れない体勢にされてしまっていたのだ。
「く、黒爺……。い、痛い……」
「拙者を誰だと思っておられる、武之進様。先代から戌亥家と契約を交わし、お父上、お兄様方、そしてあなた様にも、武芸の稽古を付けてきたのは、この私、黒虎でございますぞ」
「わ、分かった……。す、済まぬ……。手を、手を離してくれ……」
あまりの痛みに懇願する若者。
スッと手を離し、若者の立ち上がりに手を貸す虎獣人。
座り直した二人の間に、重い空気が流れていく。
「とまれ、あなた様を熊谷家の領地へと案内するまでは、御父上様から引き受けた私の仕事。互いに悪い雰囲気のままでは逃亡も上手くいきませぬ。お家復興のことはさておき、ひとときの休戦といたしましょう」
「あ、ああ……、黒爺の言う通りだな……。お前に手を上げたこと、許せ」
自分に理が無いことも分かっていた武之進が、素直に黒虎の提案を受け入れる。
『あなた様の、いや、戌亥家の皆様のその実直さに、素直さに、心優しき性根に、私は惹かれてしまっているのです。
あなた様のお祖父様、御父上、兄様方、そしてあなた、武之進様。
黄虎や赤虎の心までは分かりませぬが、少なくともこの私は、この黒虎は、忍びの者が持ち得ぬその素直さに、惹かれておるのです。
あなたがお生まれになる前、源三朗様と、えん様との交わりの夜を、私はお二方の寝所の天井裏から、しっかりとこの目で見ておりました。
源三朗様の子種をえん様が頂戴したあの夜の営み。その日から私は、あなた様を、ずっとずっと、見ておったのです』
忍びの者としては、けして表には出せぬ、黒虎の心であった。
金子による『契約』によっては明日は敵方となるやも知れぬ忍びが『情』に絆されてしまえば、その存在の根幹となる『契約による任務』に齟齬を生じることは明らかだった。
それでもその生涯の半分以上を戌亥家3代の男達に使えてきた黒虎にとり、目の前の若者は、単なる依頼主の仔という存在としてはあまりにも大きな煩悩が湧く相手となってしまっていたのである。
「夜は冷えまする。明日のためにも、身体を寄せ合い、休むことといたしましょう」
握手をした手を黒虎に優しく引き寄せられ、再び壮年の虎族へと背中を預けて座る武之進。
「黒爺の身体、温かいな」
そう呟く武之進を、後ろから抱きしめる黒虎。
裸体を寄せ合う、2人。
触れ合い、絡み合う、漆黒にも思える黒虎の獣毛と、まだ和毛(にこげ)とも思えるほどの茶色の武之進の体毛と。
明日の命をも知れぬ緊張は、男としての、雄としての生存本能を昂ぶらせるものなのか。
2人の褌の前袋は、その内容物の存在と昂ぶりを、熱く大きく、示していた。