開拓地にて

ある農夫の性の記録

第三部

青年期

 

四 引き戸

 

 冬の日々が過ぎて行く。小谷のおじさん、おばさんとの生活、いや、親子ゲームはまったくもって順調であった。時間の経過とともに、私の中に片思いの苦しさが生じてくるようになるのだが、当初はそこまでの葛藤などありはしない。

 好きな男と一緒に暮らしているのである。毎日が幸せで仕方ない。例えおじさんに何か小言の一つも言われるようなことがあっても、好きな男からの苦言と指導である。それは私にとって愛のムチでしかなく、素直に受け入れられるというものだ。そして、その素直さはおじさん夫婦の好印象を育てて行く。

 自分たちに懐いてくれるのだから、向こうだって気分が悪いはずがない。私は至って愛想の良い下宿人であった。畢竟、二人も自然と私をかわいがってくれるという結果になる。今、思い返してみても、表向きは、実に良好な人間関係が築けた三年間であったといえるだろう。

 

 その年の年末年始は自宅に戻って過ごしたが、三が日が終わるや否や、私は小谷のおじさん宅に戻った。もはや、こちらが本拠地で正に「戻った」という感覚であった。

 下宿当初、そこはやはり他人様の家であったから、私はひどく緊張していた。しかし、下宿生活が長くなるにつれ、慣れが出てくるのは必然である。やがて、それは油断に繋がっていく。

 センズリひとつするのにも、常に緊張と警戒を怠らなかった私だったが、二か月も経つと事情が変わってくる。つまり、階下のことなど大して気にせずに、真っ昼間から自室でシコシコするのが当たり前になっていた。己の分身を包んだ塵紙は、外の便所にポイである。

 そんな油断が赤面ものの事件を生む。普段は雪の少ない盆地にも、雪が積もっていたから、一月下旬、寒さの一番厳しい大寒頃のことだったのだろうと思う。

 ある日の午後、私はおじさんの家にいた。恐らく日曜日だったのだろう。その週は、その冬一番の寒波に襲われていたので、私は、帰宅を見送り、週末もおじさんの家にとどまっていた。

 私は自室の畳に寝転び、ぼんやりと天井を見つめていた。大寒波の真っ最中である。視線を窓の外に移すと、雪の少ない旧市街地でも、いつ止むとも知れない細かい雪片が降り続いていた。大雪は常に静けさを生む。雪が物音を吸収するからだ。

 その日、私は冬休み前に出された英語の宿題に四苦八苦していた。宿題とは、有名なウェブスターの「あしながおじさん」の翻訳である。原書をもとにしたテキスト本を一冊丸々手渡され、一か月以内に読破するというのが課題だった。

 さほど難しい英文ではないのだが、丸ごと一作品だから、とにかく分量が膨大である。しかも、知らない単語が頻出するのだ。読んでいる時間よりも、辞書を引いている時間の方が圧倒的に長かった。もっとも今となって思うに、英語の先生にしたら、辞書を引かせる訓練をすることこそが、課題の最大の目的だったのかもしれない。その証拠に、ただ読めばよいのである。翻訳をノートに書くなど、面倒な作業は一切不要であった。だから、別に読まなくても「読んだ」と言えば、それで終わりなのである。一応、負担になり過ぎないような措置は取られていたわけだ。

 しかし、日常生活や学校生活においては、これは言い換えれば性行為以外ではということになるのだが、私は至ってまじめな生徒だった。大まかに読み流すこと、ましてや読んでもいないものを、「読んだ」などと言うことのできない性分で、とにかくバカ正直に一文ずつ翻訳しながら読んでいった。これでは時間ばかりが過ぎていく。主人公が女性というのも、もうひとつモチベーションにつながらず、とにかくストレスばかりが大きい宿題であった。

 そんなイライラにも手っ取り早い解消法があった。自らを慰めるあの行為である。私の手は自然と下半身に伸びていった。座卓の下から塵紙を取り出し左手に持つ。

 普段なら、せめて部屋の引き戸を完全に閉めてからズボンを下ろすのだが、この日は十センチばかり開いていた。いや、正確には、意図的に開けておいたのである。なぜなら、部屋でストーブを炊いていたから、完全に締め切ると一酸化炭素中毒の可能性がある。常に少し開けておくようおじさん夫婦にきつく言い渡されていたのである。おじさん夫婦にしても、預かった以上は、安全を確保する責任がある。

 私はズボンを下ろし、シャツを胸までめくった。結局、部屋の入口の引き戸はそのままであった。

「新鮮な空気を入れないといけないし、はるばる(?)戸を閉めにいくのもめんどくさい・・・。そもそも二人とも滅多に二階には来ないんだから、大丈夫さ・・・。」

 そんな油断があった。私は越中褌の紐を緩めた。花結びにしているだけだから、引っ張るだけで褌の紐はすぐに緩んだ。あとは褌の前垂れをめくれば、すぐに生殖器が剥き出しである。私は陰茎に右手を伸ばし、目をつぶって好きな男のことを考え始めた。

 祖父、鍼灸師、友人Tの父親、小谷のおじさん、R太郎先生、早瀬先生、当時、何かとメディアに登場することの多かった三島由紀夫。三島の胸毛やすね毛、ホモだという噂もあった。あのたくましい肉体にもかかわらず、すね毛だらけの足を高々と持ち上げられ、肛門に猛り狂ったチンボを挿入されて女のようによがるのだろうか・・・。時には触られてもいない性器からダラダラと精液を垂れ流すのかもしれない・・・。想像しながら逸物をしごくと、すぐに陰茎が硬くなる。

 目をつぶったまま、私は手の平に唾をつけ、亀頭を包み込むように擦りあげた。陰茎は限界にまで勃起し、臍につきそうな程、反り返っていた。

 男同士が愛し合う場面が次々と脳裏をよぎる。なんとも卑猥で美しい世界だ。そんな想像の世界の中で、竿を握って上下に動かすのは実に心地よいものである。これが、一般的なセンズリであろう。

 しかし、皮を大きく後方に剥きあげ、潤滑剤を使って亀頭を中心とした敏感な部分を撫でるように摩擦するのはもっと気持ちがよい。すぐに射精したい時、私は前者の方法を採用するが、時間をかけたい時は後者を選ぶ。私は、その時の状況により、二種類のセンズリを使い分けていた。

 その日、私は後者を選んだ。亀頭を撫でまわす方法である。たっぷりと唾をつけ、ゆっくりと敏感な部分をなで回し続けた。ひと撫でごとに何ともいえない快感が広がり、思わず腰を引くほどだ。周囲の物音など、もはや耳に入らない。目を閉じ想像をさらに逞しくした。

 想像の中で、私は先述した七人の男達に次々と肛門を貫かれていた。逞しく毛深い肉体が私に覆いかぶさり、激しく口を吸ってくる。次第に自分の顔が上気してくるのがわかった。部屋の中には、荒くなった私の呼吸だけが響いている。もう射精が近い。

「んん、あっ!」

 私は押し殺した声をもらし、大きく身体をのけぞらせた。亀頭から飛び散った精液が指や陰毛に絡みつく。最初の一筋は胸の辺りまで届いた。私は塵紙に手を伸ばした。その時、階段がきしむ音をはっきりと耳にした。

 おじさん達は滅多に二階には来なかった。茶の間と階段を仕切る板戸を開け、階下から声を掛けて終わりである、しかし、世の中に例外のない決まりなどあるはずがない。  

 物音に驚いた私は、慌てて入口の引き戸を開け、部屋から顔だけ出して階段を見下ろした。まだ下半身は剥き出しのままである。

 私の目に飛び込んで来たのは、階段と茶の間の板戸をそっと締め、音を立てないよう気を配りながら、静かに消えようとするおじさんの背中だった。

 その日、おじさんはたまたま二階にあがって来たのだろう。もしかしたら、隣の納戸に何かを探しに来たのかもしれない。私の部屋の引き戸に隙間があり、中から怪しげな物音がしたら、そっと覗いてみるのは、ごく当然の振る舞いといえた。もはや孤独な行為を見られたことは間違いないように思われた。

 私はその場で頭を抱えた。自らの陰茎をいじくっている場面を見られたくらいなら、まだ笑い話で済むだろう。しかし、射精の瞬間まで見られたとあっては洒落にもならない。唯一の救いは、放出の瞬間に、

「おじさんっ!」

 などと口走らなかったことか・・・。とにかく最早手遅れ、後の祭りである。

 私はすぐに階下に降りて行く気にもなれず、鬱屈とした思いで自室に閉じこもるしかなかった。しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。

 その日、私は午後からおじさんの仕事を手伝う約束をしていた。別にそうしろと言われたわけではなく、自分から買って出たのだから、行くしかないだろう。むしろ、本来は好きな男と一緒に働けるだから、何とも楽しい時間となるはずだった。

 階下で物音がする。おじさんが出かける準備をしているのだろう。もしかしたら、さっきのことだって、

「準備はできているか?」

 などと声を掛けに来たのかもしれない。普段は階下から声をかけるだけだが、たまには直接声を掛けたくなる日だってあるだろう。何しろ、この坊主は自分に懐いているのだ・・・。

 私は勇気を出して階下に降りて行った。おじさんは軽トラックの準備をしていた。私は黙って靴を履き、おじさんの準備が終わるのを待った。

「さ、行くか。」

 何事もなかったように、おじさんが言った。私は頷き、おじさんの後に付いて軽トラックに乗り込んだ。

 その日の午後の作業は何とも気まずいものだった。おじさんの顔をまともに見ることができないのである。それを知ってか知らずか、おじさんはいつもと何も変わらない。黙々と作業を続けていた。

 やがて、夕闇が迫り、周囲を夜の帳が包み始めた頃、その日の作業は終わりとなった。

「そろそろ帰ろうか・・・。助かったよ。」

 私は黙って頷いた。家に向かう途中、おじさんが話しかけて来た。

「頂きもんの水ようかんがあるから、帰ったらおばさんに貰うといい。」

 私はうつむいたままで小さく頷くだけだった。もしかしたら、今日、おじさんが二階に来たのは、

「水ようかんを食べないか。」

 と声をかけに来てくれたのかもしれなかった。そういえば、今までも、サプライズがある時には、おじさんは二階に顔を出した。今回もそうだったのかもしれない。

 今もそうなのだが、当時から私は甘い物に目がなかった。開拓地での暮らしでは、高級な菓子類は滅多にお目にかかれない貴重品だったから、一種憧憬にも近い感情があった。おじさん達は、それをよく知っていたから、私を喜ばせようとしたのだろう。

 夕食の間も、私はずっと下を向いていた。まだ、おじさんの顔をまともに見ることができずにいたのである。

「具合でも悪いの?」

 おばさんが心配して尋ねてきた。私はその時だけは無理して笑顔を浮かべ、

「大丈夫です。」

 と答えるのだが、またすぐに黙り込んでしまう。おじさんも黙ったままであった。おじさんだって困っていたのだろう。おばさんは、ただ訳がわからないという程で首を傾げていた。おじさんと私が喧嘩をしたと勘違いしていたかもしれない。

 もしかしたら孤独な行為を見られずに済んだのではないかという淡い期待も、心の奥底に潜んでいる。そうだ、そうに違いない。どうか、そうであって欲しい。私は強引に自分にそう信じ込ませようとした。しかし、そう思えば思うほどため息が出る。あの状態で見られていないはずがないのである。見ていないなら、おじさんだって足音を忍ばせて階下に戻る必要などないではないか・・・。

 

 柱時計が九時を告げた。朝の早いおじさん夫婦は、そろそろ寝る時間である。明日も朝から肉体労働が続く。私も学校に行く前に朝の仕事を手伝うのが日課だったから、とにかく寝るしかなかった。

 私は小便を済ませてしまうことにした。便所は外である。当時、地方の家では便所は外の別棟にあるのが普通で、おじさんの家もその例に漏れなかったことは、先に記した通りである。

 私は階段を下りて下駄を履き、玄関の引き戸をガラガラと開けて外に出た。いつの間にか雪はやんでいた。背後の山は、まだ雪雲の中だったが、上空には雲の切れ間ができ、そこから星がのぞいていた。

「明日の朝は寒いだろうな・・・。」

 私はふとそんなことを思った。

 寒気の残った晴れた朝は、氷点下十度以下の冷え込みを記録することも珍しくない。吹雪から晴天へのダイナミックな変化は驚くほど劇的だ。例えその先に厳しい寒さが持っているとしても、本来、それは気持ちを明るくさせるものだが、私の気分は少しも晴れなかった。

 小便を済ませ、玄関に戻って来ると、丁度おじさんが玄関から出てきた。おじさんも便所に行くのだろう。「起こしてしまったかな」と私は少し申し訳なく感じた。

 しかし、今思えば、おじさんはタイミングを見計らってわざと外に出てきたのだろう。私は固まっていた。好きな男の前だと、これまでの性経験から来る自信などまったく役に立たない。初心な子どものように、純真一途な気持ちになってしまうのだ。

 私の強ばったままの表情を見て、さすがにおじさんも気の毒に思ったらしく、少しの間、何かを考えていたが、意を決したように、

「ま、戸を閉めるべき時には閉めるこった。」

 とだけ言ってニヤリと笑った。

 しばしの間。そして、しばしの沈黙。次の瞬間、私は思わず小さく吹き出してしまった。夜だから大声を出すわけにはいかないが、「閉めるこった」の「こった」が何ともおかしかったのである。「閉めなさい」では却って顔を引きつらせてしまっていただろう。「こった」には、どことなく、

「俺もよくやったもんだ。男なら誰もが通る道さ。気にするな。」

 というニュアンスが含まれているように感じられた。おじさんも吊られて苦笑いである。お互い、ようやくに氷解。私は照れ笑いしながら頭をポリポリとかいた。

 これで終わりである。散々、引っ張ってオチも何もなく、淫乱な行為も一切なし。期待させてしまって本当に申し訳ないが、惚れた男の前だと人は純真無垢になるのである。

 私は、それまで実年齢に似つかわしくない程の性体験を積み重ねていたから、どこか大人を斜めから見ているところがあった。態度に出さないよう細心の注意を払っていたが、素直な気持ちで年上の男に接することが少なかった。どこかで相手を見下していたのかもしれない。

「こんなにいやらしいこと、まだやったことないべ?」

 そんな感情が常に心の奥底にあったのである。しかし、私は小谷のおじさんといると、ただただ心が切なかった。一緒にいられることは嬉しいのだが、自分の思いが一方通行でしかない辛さが、どんなものなのかを初めて知ることができた。同時に、小谷のおじさんの前では、永遠に純真無垢な存在でありたいと願ってもいた。

 最後に懺悔する。あの時の優しさと慈愛に満ちた、おじさんの精一杯の温かい言葉にさえ、私は性的欲情を覚えてしまい、センズリのネタに使ってしまった。センズリを見られたことそのものに、性的興奮を覚えたわけである。まったくもって私は罪深い男だ。果たして私が淫乱というべきなのか、それが標準的な男の性(さが)というべきなのか・・・・。

 ただ、このできごとを通して、おじさんと私の間に二人だけの秘密ができた。ある意味、プラトニックな男と男の秘密である。それは肉親さえも知らない、家族の中で一番好きだった祖父さえも知らない、私とおじさん、"二人だけの秘密"だった。祖父と私が共有していた秘密に比べたら、些細なものに過ぎなかったが、やはり秘密は秘密である。私にとっては、祖父との秘密以上に大切なものだった。

 不思議なもので、人は秘密を共有すると心と心が通じ合う。その日を境に、私とおじさんは今まで以上に打ち解けあえた。少なくても私はそんな思いを強くした。多分、それはおじさんも同じだったはずだ。二人の中だけで通じ合う気持ち、それは言葉にして伝わるものではなく、まるで一種のテレパシーのようなものである。その思いは、生涯を通して確かに二人の中に存在し続けた。

 このできごと以降、私はおじさんに何でも相談するようになった。身体のこと(髭の上手な剃り方とかその程度だが)、高校卒業後の進路のこと、ある職業に就きたいこと、それへの不安。その都度、おじさんは人生の先輩として的確な助言をしてくれた。

 ただし、当たり前のことだが、自分が、男が好きだということだけは打ち明けられなかった。まして、目の前のあなたが好きですなどと言えるはずもない。そういえば、一度、

「雄吉、お前は時々、普段のようすからは想像できないくらい怖い顔をしているときがある。怖いというか、険しいというか・・・。」

 おじさんにそんなことを言われたことがあった。その表情は私の奥底に潜んだ、どうしようもない孤独感から生まれていたのかもしれない。そして、その孤独の根源にあるのは、自分が同性愛者であるという、人と共有できない秘密中の秘密であった。

 心から信頼した相手であっても、完全には心を割って話せない。ところが、相手は心を割って話してくれているから、事態は複雑で、どこか悲しい。悲しい気分なのに、それを取り繕って笑いあわねばならないのは切ないことだ。

 同性愛者とは常に寂しく、そして、常にどこか悲しい。もっとも、当時、私は将来に不安こそ感じていたが、自分が同性愛者であることじたいについては、特別悩んでいた訳ではなかったので、今となっては全く詮ないことである。

 

 センズリというのは男の特権。そこには生々しいほどの少年期の性が溢れる。そして、男にとってセンズリとは大人になる第一歩であり、肉体の成熟の証である。男なら誰もがそこに至るまでに様々なドラマを経ているものだ。それはきっとおじさんも同じことだったのだろう。

 センズリとは男にしかわからない、女には決して入り込めない特殊な世界なのである。オナニーでも、マスターベーションでも、ハンドジョブでも、自慰でも、手淫でも、まして悪習(三島由起夫はこう呼んでいる)でもない。やはり、「センズリ」は「センズリ」で、それ以上でもそれ以下でもない。私はそう思う。

 あの日、おじさんがどこまで目撃したのかは、結局、聞かずじまいだった。今、思えばチラッと見てしまい、

「こりゃ、まずい。」

 と慌てて引き返した程度のことだったのかもしれない。むしろ、その可能性の方が高いだろう。しかし、

「戸は閉めるこった。」

 の言葉からも判るように、見られたことだけは間違いない。

 私の中には、表向きの感情と相反する別の思いが、胸の奥底に常に宿っていた。それは射精まで、そう、呻き声とともに私の亀頭から精液が飛び出る瞬間までを、おじさんが諸に目撃したのであって欲しいという思いである。

 それは思春期以前、もっと幼い頃から自分の中にあった感情であった。私は初めて射精した頃から、自分の性癖が許されないものであることを知っていた。そこから生じる孤独感は、祖父との関係だけで解消できるものではなかった。

 ホモに生まれついたことに起因する寂しさ、切なさ、悲しさ、それらはまるで本能のように根深い願望で、心の中で必死に打ち消そうとしても、後から後からまるでマグマのように、時に強く、時に激しく湧き上がってくるのである。

 私は老け専であり汚れ専であるが、もしかしたら露出好きな面もあるのかもしれない。というのも、それはセンズリを見られた話に限ったことではないからだ。

 私は自分の体験をどんな形であれ、公開し周知させることに、ある種の性的興奮を常に覚えている。今、こうしてこの文章を書いている時も、私の陰茎は硬くそそり立っているのである。

 書くことは根気のいる作業である。しかし、それでも頑張ってしまうのは、どこかで"性的満足"を得られるからだ。人間の行動を支配しているのは、結局は性欲である。人間はセックスなしには生きられない生物なのだ。心底そう思う。

 

 高校卒業後、私は地元の大学に進学した。大学四年間のうち、一年目の教養課程は、県内の別の都市に置かれていたので、私はおじさんの家を出ることになった。

 大学二年生からは、県庁所在地での学園生活に戻ったが、昭和四十年代後半になると交通事情は大きく改善していた。県内の豪雪地帯でも、機械除雪が普及し、冬でも車で入れる集落が増えていった。開拓地も冬季の車の通行が確保されるようになり、よほどの大雪でもない限り、冬でも自宅からの通学が可能になっていた。

 しかし、おじさんの家から私の通う〇〇大学〇〇〇部までは、徒歩わずか数分であった。私は、学校帰りにしばしば顔を出した。仕事の手伝いをすることも多かった。

 大学生になった私が初めて仕事を手伝った時、おじさんはアルバイト料を払おうとした。私は腹を立てながら真剣に断った。そんなつもりではなかったからだ。私はおじさんが好きだっただけなのである。おじさんに対して多少なりとも腹を立てたのは、後にも先にもその時だけであった。

 そんな思い出の多いおじさんの家だが、私が大学に進学してから五、六年後、大きな改修工事が行われた。おじさん夫婦が甥夫婦と養子縁組をするにあたっての改修だった。便所と風呂が母屋の中に設(しつら)えられた。

 私が暮らした部屋はそのままだったが、隣にあった広い納戸には畳が入れられ、広い立派な四間つづきの和室となった。そこが甥夫婦の生活の場であった。言ってみれば、日本家屋的二世帯住宅である。工事が進む中、私を案内するおじさんの表情は晴れやかだった。

 おじさんの甥だが、おじさんに少し雰囲気が似ていて、なかなか良い男であった。あと二十歳ばかり年かさだったら、きっと私のタイプだったことだろう。甥夫婦は、あの納戸のあった場所で、何回も何回も夫婦の交わりを繰り返し、甥は身体を痙攣させて放精したに違いない。私は、ついそんなことを考えてしまう。

 

 おじさんが甥夫婦と同居するようになってからは、年に数回挨拶に行く以外、私はおじさんの家に顔を出さなくなった。私とおじさんの濃厚な親子ゲームは終わろうとしていた。おじさんには新たな息子ができたのだから、私の出る幕ではない。ただ、おじさんとの交流は、その後も細々と続いたし、些細な親子ゲームも継続された。

 私のおじさんの家での生活は、たったの三年間。しかも、一年のうちの半年間のみだったから、実質的には一年半だったことになる。しかし、その日々は私に大きな影響を与えた。

 私が、おじさんとの交流から学んだことは、人を好きになる「切なさ」である。叶わぬことが切ないことだと知った時、私は自分の十年後を思ん図った。確かなことは、私が結婚したとしても、おじさんとの生活で感じたような満足感や幸福感は得られそうにないということだった。私は、背筋が寒くなった。

 私の未来には、愛情のない結婚生活が待っている。その現実に気づいた時、私は自分自身に固く誓った。

「何がなんでも開拓地を出なければならない。閉鎖されたコミュニティでの生活には地獄しか待っていない。」

 将来のことを考えれば考える程、私の中には、ケの男にしかわからない、新たな葛藤が生まれていた。今後、自分はこの葛藤と生きていくしかない。きっと祖父もそうだったのだろう。

 先述したように、おじさんとの交流は細々と続き、おじさんが八十八歳で亡くなるまで続いた。年に数回一緒に酒を飲み、語り合う。ただそれだけだったが、私はその日を楽しみにしていたし、その時は親子ゲームの復活の時でもあった。

 おじさんの死から既に四半世紀が経つ。今では、私自身が当時のおじさんより、ずっと年輩になってしまった。

 先日、私は偶然におじさんの家の前を車で通りかかった。今では甥夫婦の、さらにその子どもの世代になっているはずである。私は驚いた。そこには既に懐かしい建物はなく、更地が広がっていたのである。そして、工事人が新たな家を築くべく、土台作りに汗を流していた。

「そうか。建て直すのだな・・・。」

 私は呟いた。あれから五十年である。開拓地の私の家も、二世帯住宅に建て直してから、既に十年以上の歳月が流れている。

 時間は常に流れていく。おじさんとの思い出の証はどんどん少なくなっていくが、それは仕方のないことだ。しかし、おじさんは私の心の中に生きている。そして、これからも生き続けていくだろう。私が生きている限り、当時の、一番男盛りの姿のままで。