里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農夫の性の記録

第五部

熟年期

 

六 最高記録

 

 福島県の農家の親爺、秀さんとは破局を迎えるまでの八年の間、年に一、二回の頻度で逢い引きしていた。私は毎年、夏と年末に一週間程度、一人旅に出るのが恒例行事になっていたから、その際に、福島県に立ち寄って逢瀬を重ねたのだが、お互い日程を調整し、山形県や宮城県、新潟県の湯治宿で落ち合うこともあった。

 ざっと思い返しただけでも、新潟県の出湯温泉清廣館、山形県の肘折温泉のつたや、瀬見温泉不喜楼、宮城県の鳴子温泉農民の家、そして、福島県の不動湯温泉、赤湯温泉好山荘。逢引に利用した湯治宿は右手に余る。

 そこでは夜な夜な、時には昼間から男同士の淫靡な光景が繰り広げられた。これらの湯治宿の壁や扉は昔ながらの造りの場合が多く、防音効果などないに等しい。畢竟、外に音が漏れぬよう、二人は声を押し殺して行為に及んだ。枕元の明かりだけが灯った薄暗い室内に、僅かな呻き声だけが響く。それがまたお互いの興奮を高めた。

 中には変わり種の温泉もあった。秋田県の奥八九郎温泉という野湯に行ったこともある。ここは山中にぽっかりと空間が広がり、大量のお湯が自噴しているのである。その誰もいない山中で裸の男二人が抱き合った。この時のことは、改めて次章で語っていきたい。

 秀さんと深い仲にあった当時、私は五十代前半。妻は健在だったが、私から女のいる気配など皆無だった(実際、いないのだから当たり前なのだが)から、

「行ってらっしゃい。」

 と快く送り出してくれたものだ。

 それに妻は妻で、近所の農家の嫁仲間と連れだって、しばしば近くの美味しいと評判の店にランチに出かけたり、観光旅行に出かけたりしていたから、ある意味ギブ&テイクと言えなくもなかった。

 もう一つ浮気を疑われないコツがある。それはできるだけ貧乏旅を極めることだ。超安上がりの旅を喜ぶ女性などおりはしないだろうから、これはなかなか効果がある。その点、ホモというのは楽なもので、セックスが中心の付き合いになるので、山奥の昭和風旅館や木造の寂れた旅館の方が性的興奮が高まるという癖を持つ者も多い。私と秀さんは正にそれであった。

 私の節約ぶりは徹底していた。高速道路は一切使わず、数百㎞を一般道で夜間に移動した。一般道を使う場合、昼間は渋滞していることが多く、道程が進まないからだ。

 食事はアルファ米を持参し、コッヘルで沸かしたお湯で調理。副菜は、旅先のスーパーや道の駅、直売所で惣菜や土地の名物などを購入した。飲み物代も道程が長くなるとバカにならない。そこでクーラーボックスを持参し、コンビニで購入した氷とペットボトルで対応した。

 宿に関しても格安を貫いた。だから、秀さんとの宿泊日以外は、基本的に車中泊だった。秀さんとの夜だけは宿に泊まったが、その場合も、多くは一泊二千円程度で済む、山間の湯治場の自炊部を選ぶことが多かった。

 旅の途中で福島県に立ち寄る時は、しばしば不動湯温泉が逢引の場として選ばれたことは前述した通りである。普段、私は格安旅行を極めることに楽しさを見出していたが、その日だけは温泉旅館を満喫した。

 逢引の度に、その精力のすごさで私を驚かせた秀さんだったが、七四歳の時に大けがをして入院してからは、以前ほどの回数はこなせなくなってしまった。それでも一晩に二回は射精した。七十代半ばの話である。それまでが異常すぎたのだ。

 大けがするまでは本当にすごかった。古希をとうに過ぎていたにもかかわらず、一晩で六、七回も射精したことがあった。私も回数多く射精できる方だが、六八歳の今、さすがにこの親爺にはかなわない。これほど精力の強い男には、その後、ついぞ出会うことがなかった。

 私の人生の中で、最も数多く秘肛を許し、種を付けられた相手は秀さんである。一行日記を紐解くと、逢い引きの回数は十四回に及び、精を注ぎ込まれた回数は六十回を軽く超える。

 十四回が多いか少ないかの判断は難しいところだが、お互い二百㎞以上も離れた所に住みながら、結局、八年間も続いたのだから、ホモの肉体関係としては続いた類であろう。

 

 確か、あれは二回目の逢い引きの時のことだった。まだ二回目の逢瀬だったから、会いたくて仕方なかったし、お互いの肉体に新鮮さを感じていた時期でもある。男女でいえば、まだまだ新婚気分真っ盛りとでも言おうか。

 ある日、大学の同窓会の案内が送られてきた。開催は三月半ば。幹事がたまたま新潟県の十日町市在住だったこともあり、場所は新潟県中越地域の某温泉地とあった。

 不動湯温泉での秀さんとの逢い引きから三ヶ月が過ぎていた。毎日のように電話で話していたが、秀さんに抱かれたいという思いは日に日に募って、苦しいほどであった。

 私が、このチャンスを見逃すはずがなかった。こんな時は変に嘘をついた方が疑われる。私は妻に、もう一泊して新潟県の名所旧跡に立ち寄って来たいと申し出た。十日町博物館の火焔型縄文土器、弥彦神社、寺泊の魚の市場通り、良寛記念館。立ち寄りたい所はたくさんあるが、秀さんとの逢瀬が主目的なのだから、実際に立ち寄るのは魚市場のみ。証拠としてお土産の海産物を購入するだけになろう。

 自分でいうのも何だが、毎日、汗まみれになって真摯に労働していたし、家事も自分から手伝っていた。賭け事はもちろん、煙草もやらない。酒は飲むが、月に数回。芋焼酎のお湯割り一杯程度。表面上は真面目を絵に描いたような男であった。

 そうは言っても私は飲めないわけではなく、むしろ、酒には強い。晩酌にあまり興味はないのは、単に一人で飲んでも楽しくないのと、酒そのものを美味しいと思わないからというのが理由に過ぎないのだが、妻にしてみると、これはかなり好感度が高いらしい。酒に関していえば、婿さんと同居するようになってからの方が回数が増えた。やはり、飲んで楽しい相手がいないと酒はうまくないのである。

 ここまで話せば想像していただけるだろうが、私は家族はもちろん、近所でも至って真面目な人物で通っているのである。農家仲間と他県に宿泊研修に行くことがある。そういう時、懇親会後、ソープランドに繰り出す輩も多々いるが、私は真面目な男として通っているので誘われることもない。男しか愛せない私にとって、これはむしろ好都合である。

 こういう時の懇親会もなかなか露骨である。旅先だという気の緩みもあり、酔いがまわると、周囲の者どもは当然のように女の話と猥談を始める。そんな時、

「お前はくそ真面目だから・・・。」

 と半分バカにされた言い方をされるが、私は内心ほくそ笑んでいる。

 正直、彼らのセックス体験など大したことがないのだ。私は生でのセックスこそ片手に余る程の体験しかないが、本来避妊具であるゴム製品を使ったセックスなら、数え切れない程の体験がある。ホモサウナや淫乱旅館、仲間しかいないノンケサウナ、特に昭和時代にそれらに出入りしていたホモに対し、体験した相手の数など聞く方が野暮であろう。

 閑話休題。普段、これだけ真面目に日常生活を送っていると、年に一、二回の旅行は問題なく許してもらえる。

 こうして新潟県の下越地方で会おうという話が秀さんとの間でまとまった。まだ雪が残る三月半ばのことであった。

 選んだのは出湯温泉清廣館。木造三階建ての由緒ある宿である。同窓会の翌日、午後二時頃に宿の近くで落ち合い、そのままチェックインした。一通り部屋でお互いの身体をまさぐった後、風呂に向かった。

 出湯温泉の場合、それぞれの宿の大浴場は比較的こじんまりとしていることが多いようだ。実は道向かいの寺院の境内に共同浴場があり、そこに入浴しに行くのがここの湯治スタイルなのである。当然、この宿の大浴場もごく小さなものであった。

 実際、大部分の宿泊客は共同浴場に行くので、風呂には私達以外には誰もいなかった。浴室に足を踏み入れるやいなや、

「我慢でぎねぇ。おまんご、しだい。」

 そう言って秀さんが私を浴室の床に押し倒し、自らの唇で私の唇をふさいできた。

「秀さん、待てや。洗ってからだ。」

「雄坊、俺が洗っでやる。」

 秀さんは自分の身体で石鹸を泡立てると、私に抱き着いてきた。石鹸の泡がお互いの触感を敏感に刺激し包み込んだ。秀さんの農夫らしい荒れた手の感触が、適度な刺激となって肌に心地よかった。

 お互いの勃起した陰茎が石鹸の泡に包まれ、重なり合った。私の亀頭からも、秀さんの亀頭からも先走りが溢れ、浴室のタイルに一筋の糸を引いた。

 秀さんは、あわよくば最初からそのつもりだったのだろう。タオルの間にローションを忍ばせていた。秀さんは一旦、脱衣所に戻るとバスタオルを二枚持って来た。それを床のタイルの上に広げ、私を押し倒した。

 経験のある方ならわかると思うが、タイルというのはユニットバスとは違う。タイルと皮膚が激しく擦り合わされると、皮が剥けてしまうのだ。

 秀さんは自らの亀頭を私の肛門に押し当てた。それは雁首が見事に発達し何とも言えない卑猥な形をしていた。

 午前中、前日に宿泊した宿にいるうちに中をきれいにしておいたから、汚いものは付かないだろう。そして、挿入。相変わらず上手い。全く痛みがなく二人は繋がった。

 秀さんが激しいピストンを繰り返した。まるで野獣の交尾であった。余程興奮していたのだろう。程なくして秀さんが呻いた。

「ああ雄坊、出る。俺の子種、受げでぐれ。」

 秀さんの動きが止まった。私の直腸内がじんわりと熱くなっていく。

「俺が女なら、きっと今ので子供ができているんだろう・・・。」

 秀さんの精液を体内で感じながら、私はそんな馬鹿げたことを考えていた。

 やがて秀さんは私の身体を離し、陰茎をゆっくりと引き抜いた。秀さんの陰茎は勃り立ったままで萎えることを知らない。引き抜いた陰茎を洗い流しながら、秀さんは平然と言ってのけた。

「続ぎは部屋でゆっぐりやっでやるがら。今日のごと考えだら、興奮しでしまっで、昨日からセンズリのかぎ通しだ・・・。」

 

 最早その夜のことは書くまでもあるまい。一言だけあるとすれば、秀さんの辞書に「逢引に備え子種を温存するなどという文字は存在しなかった。」ということだ。

 一行日記によれば、その後、夕食までに部屋で抜かず四連発。夜、寝がけに二連発。しばらく休んで更に一発。夜中に一発。朝方一発。二日目の午前中に立ち寄った日帰り温泉施設で、他の利用者の目を盗み、露天風呂の陰で相互センズリに及んで一発。別れ際に秀さんの車の中で一発。

 秀さんは二十四時間の間に合計十二回も射精した。これは秀さんとの最高記録である。私も六回放出した。私は他の人より数多く射精できることが密かに自慢だった。しかし、秀さんの前ではそれも霞んでしまう。しかも、秀さんと違って二回、三回と連続して射精することなど、とてもできはしない。それが普通なのだろうが、射精したら、一旦は萎えてしまうのだ。

 秀さんとのセックスで、私が一番驚いたのが、この「連続射精」だった。秀さんは本当にすごかった。それは、ある意味恐ろしい程で、一回放出しても、

「まだまだっ。」

 と叫び、萎える気配など微塵もなく、そのまま二回目を放出する。その後、キスをしていると再び逸物が硬くなってくる。これで三回目に突入である。

 この状況をもう少し詳しく書けば、二回連続で放出すると、本人も、

「雄坊。二回(がい)出したら、もう無理だ。」

 と口では言うのだが、私が、

「秀さんならできる。ああ、キスしたい。すてきだ。」

 などと言葉で煽りながら口を吸うと、再び可能になるのだ。

 時にはそれを繰り返すことで、四回目さえ可能になることがあった。肛門性交はもちろんだが、とにかくキスが好きで、キスで興奮する人だった。

 三回、四回と連続して中出しされると、精液とローションで私の肛門はぐちゃぐちゃになった。行為の後、トイレで踏ん張ると黄色くなった液体がずぶずぶと溢れてきた。時には行為の途中でシーツを黄色く汚してしまうこともあったが、秀さんは、

「これが怖ぐで、男(おどこ)どおまんごなんができるが。」

 と言って、意にも介さなかった。完全なウケの私と違い、根っからのタチだったのだろう。

 そう言えば、一度だけだが、不動湯温泉で私がタチ、秀さんがウケに挑戦したことがあった。しかし、半分も入らないうちに、珍しく秀さんの方から音を上げてしまった。

「痛(いだ)ぐで無理だ。すまん。勘弁しでぐれ。」

 私が慌てて陰茎を引き抜くと、亀頭の雁首の辺りにべったりと便が付着していた。本人もやったことがないと言っていたが、本当にアナルセックスでのウケの経験は皆無だったのだろう。

 後にも先にも、私が満足しないうちに秀さんがセックスで音を上げたのは、この時だけであった。