里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農夫の性の記録

第二部

思春期

 

四 親父たちの中で

 

 中学時代、私の脳内で性の対象となった男は、実はさほど多くはない。ホモは誰もがそうであろうが、自分のタイプ以外の男にはとかく冷たい。私自身とて例外ではなく、年輩で臑毛の濃い男以外には欲情しないことを、当時から自覚していた。しかし、小耳に挟む友人の会話から判断するに、どうもケでない男は必ずしもそうではないらしい。

「やらせてくれるなら誰でもいい。」

 という級友も多く、彼らは、女であれば、相手が誰であろうと勃起するらしいことを知った。

 それだけホモの世界は、性の対象が細分化されており、自分がタイプでも、向こうはそうでもないということが多い。好けば好かれるという論理が成立しない世界なのである。

 ホモの世界で相思相愛になるのは奇跡に近い。そもそもケの男で、年齢的にも外見的にも、そして、人柄的にもタイプの男というのは、全国に数百人しかいないのではないだろうかとさえ思う。全人口の半分は女だから、男の人口は六千万人。六千万人で数百人ということは、三十万人に一人。つまり、県庁所在地の街に一人か二人という計算になる。これまでの出会いを振り返ってみると、これはあながちでたらめな数値とも思えない。

 ただ私の好みは一つだけというわけではなかった。異なった二つのタイプの親爺に、私は強く惹かれ、それは光と陰のように常に表裏一体であった。

 一つめは祖父のように、余分な贅肉のない筋肉質の年輩者である。この場合、顎がこけていた方が、より好ましかった。

 もう一つは腹まわりは多少出ているが、肩と胸板が盛りあがり、脚の筋肉が発達して眉の太い熟年者であった。簡単にいえば、西郷隆盛のような男である。

 前者は例外的に比較的若くても可能な場合もあったが、大抵は六十代以上が理想であった。一方、後者は五十代、あるいは四十代後半であっても、充分、私の性癖を満足させた。ただ、いずれの場合も、脛毛が濃いことが絶対条件であった。

 今でこそ完全なウケである私だが、当初はタチもできた。私はウケをするなら、前者のような男に抱かれたかったが、なぜかタチをするなら後者のような男を抱きたかった。私が祖父の肉体に食傷気味になったのは、もしかしたらこの性癖に原因があったのかもしれない。

 私が、しばしば祖父の肛門を犯していたことは、これまでも語ってきたが、本当は祖父のような体型の男には、我がアナルを激しく犯してほしいと願っていた。祖父は私が抱きたい男ではなく、私が抱かれたい男だったのだ。

 しかし、その願いはついぞ叶わなかった。祖父がそれを望まなかったからだ。祖父が根っからのウケだったことも理由の一つだろう。しかし、最大の理由は、自らが肉親を犯すという能動的な行為そのものに、抵抗があったのかもしれない。受動的な行為は許せても、能動的な態度は受け入れられない。祖父はそんな気持ちを抱えていたのかもしれない。

 いずれにせよ、ホモは好みにうるさい。中学生だった私もそれは同じだった。そんな私のお眼鏡に適った男といえば、祖父、早瀬先生、R太郎先生、T夫の親父。身近な男では、この四名くらいのものである。

 完全に別世界の人であるならば、三島由紀夫、三船敏郎、佐藤栄作、これらの男たちも私の空想の中で性の餌食となっていた。

 三船敏郎、三島由紀夫は、祖父や早瀬先生、R太郎先生と同じタイプの男であった。一方、佐藤栄作やT夫の父親は、後者のタイプの男といえただろう。

 これまでの章で、祖父と早瀬先生については語ってきた。この章では、残りの二人、R太郎先生とT夫の親父について書き記してみたい。

 

 まずはR太郎先生である。R太郎先生は、私が入学した時、すでに五十九歳で、正直、お爺さんのような先生であった。教育公務員の定年退職は六十歳である。当時は、今と違って再任用制度もなかっただろうから、その年が教員人生最後の年で、何というか一言でいうと枯れていた。そして、私達がニ年生に進級すると同時に、R太郎先生も教職から引退された。

 R太郎先生は、私のクラスの国語の教科担任だったが、何かあると、すぐ教科書の全文書き取りをさせることで有名だった。正直、全文を書き写すなど、手間がかかるばかりで、大して読解力の向上には繋がらないだろう。

 だから、生徒たちには人気がなく、陰では、名前のR太郎をもじってA太郎、略してAちゃんなどと渾名されていた。

 Aちゃんはスリムな男だった。頭髪は白髪が混ざっていたが、短めに刈り込んでいた。とはいえ、筋肉質なわけでもなかったから、初めてあった時には、痩せぎみな老人という印象しかなく、特に性と直結するような存在ではなかった。

 しかし、ある日を境にAちゃんは、私のセンズリの中にしばしば登場するようになった。

「R太郎先生っ」

 と小さく叫びながら、何度精を放ったことか。センズリに登場するようになってから、私はR太郎先生を「Aちゃん」と呼ばなくなった。性の対象になるだけで、敬意を示すようになったのだから、性欲というのは実に勝手なものだ。

 私がR太郎先生に男を感じるようになったのは、ある夏の日のできごとがきっかけだった。昭和三十年代、プールのある小学校はまれだったが、昭和四十年代に入ると、田舎の小学校でもプールは急速に普及し、数年のうちに学校にとって、当たり前の施設になっていった。一方、中学校は、小学校より若干早く普及していったようだ。いずれにせよ、私が入学した時には、既に中学校には立派なプールがあった。

 夏休みのことであった。当時、夏休みの前半のみ、正確には全校招集日の八月六日までは、生徒向けに学校のプールが開放されていた。学校の先生が日替わりで当番をしてくださったのだ。

 ところで、先日、孫一号に聞いてみたが、今は夏休み中のプール開放は実施されていないようである。恐らく安全上の問題もあるし、市民プール等も充実しているからだろう。

 当時の私は家の仕事があったから、毎日というのは気が引けた。祖父も父も炎天下で働いていたから、自分だけが楽をしているようで申し訳なかったのだ。だが、級友と同じように夏を楽しみたいという気持ちもある。何よりエアコンもない時代だから、八月上旬の午後は、家の中にいても蒸し風呂の中にいるようなものなのだ。

 そこで私は考えた。午前中は畑を手伝おう。昼食後、祖父達も午後は夕方まで屋内で昼寝して過ごす。その時間帯に抜け出してプールで泳ぐのだ。昼を食べて学校に行き、プールに入って涼もう。学校のプール開放は午後二時からの一時間だったから、三時に学校を出ると、急げば四時半には家に着く。祖父達のために風呂をたてる時間は充分に確保できた。祖父達も、午後畑に出るのは、涼しい風が吹き始める四時過ぎからだったから、これなら気兼ねする必要もあまりないし、祖父達の不満もないだろう。

 こうしてプール開放を最大限利用する、その夏の新たなルーティーンが、夏休みと同時に始まった。

 今で言うなら、その日は猛暑日だったのだろう。屋外はもちろん、家の中もうだるような暑さであった。いつものように昼を食べると、私は家を出た。事前に打ち合わせてあったので、本村でT夫と待ち合わせ、一緒に歩いて学校に向かった。

 少し早く着き過ぎたようだ。私とT夫はプールに続く階段に座って待っていた。やがて、その日の当番の先生がやってきた。R太郎先生ことA太郎先生、通称Aちゃんであった。Aちゃん、いや、やはり敬意を込めてR太郎先生と呼ぼう。R太郎先生は白い肌シャツを着ていたが、下半身は水着だった。

 私はその脚を覆う体毛の見事さに圧倒され、思わず生唾を飲んだ。R太郎先生はどちらかというと、色白で華奢な身体つきだったが、脚だけが、まるで黒く塗りつぶしたようだった。いつも長ズボンを履いて授業をしていたから、R太郎先生の素足を見るのは、それが初めてであった。上半身とは異質な何かが、男を主張している。あのズボンの下に、こんな魅惑的な肉体が隠されていたとは・・・。

 私はR太郎先生に従い、プールサイドに儲けられた脱衣小屋で水着になったが、どうにも性の高まりを抑えられなかった。

 着替えが済むと、私はその足で体育館の便所に向かった。当時は今と違って汲み取り式である。夏の便所は強烈な臭気を放っているだろうが、興奮が全身を包み込んでいた私には、そんなことは全く関係なかった。

 便所で私は水着を膝まで下ろした。私の陰茎は臍に付きそうな程、天を仰いでいた。私は自分の濃いすね毛を見た。それは、たった今、目に焼き付けてきたR太郎先生のそれに、まったく引けを取らなかった。

 私は自分の脛毛に、R太郎先生の脛毛をみた。そして、リズミカルな右手の上下運動に合わせ、声を押し殺しながら、白い樹液を勢いよく放った。

 私は、何食わぬ顔でプールに戻った。T夫が、

「どこに行ってたんだ?」

 と怪訝な顔をしたが、

「腹が痛くなって我慢できなかったから、便所で出してきた。」

 と答えた。半分は嘘だが、半分は本当である。

 それにしても、R太郎先生の下半身はあまりに男であった。白い肌と体毛の対比は強烈である。R先生はプールの縁を歩いて巡回している。ふと水中から顔を出すと、目の前にR太郎先生の濃い臑毛があった。水に濡れると、臑毛の濃さが際立った。さらに、降り注ぐ真夏の陽光が、その陰影をより一層際立たせている。

「ダメだ。また腹が痛い・・・。」

 その日、私はT夫にそう言い残して、もう一度、体育館の便所に急がねばならなかった。

 

 二学期が始まった。それがいつだったか、はっきりした記憶はないのだが、私は小用を足すR太郎先生に、便所で偶然行きあった。

 当時の便所は便器がなかった。昔の駅によくあった、小便がU字溝を横に流れて行くタイプである。当然、隣との仕切りもない。私は横目でR太郎先生の陰茎を盗み見た。R太郎先生はまったく無防備だった。

 剥けてはいたが、細長く、小振りな逸物がズボンから引き出されていた。陰茎の付け根には濃い陰毛が取り巻いていた。見慣れた祖父の逸物に比べたら、明らかに粗チンであった。

 私にとって大きさは問題ではない。臑毛が濃く、亀頭が露出していれば充分だった。心の高鳴りを抑え、私は声に出さずに口の中で呟いた。

「R太郎先生のチンボ、先生の身体つきにそっくりだ。」

 狭い田舎とはいえ、退職された後、R太郎先生をお見かけすることは、ついぞ一度としてなかった。やがて、私が五十歳を目前にしたある日、新聞のお悔やみ欄でR太郎先生の訃報を知った。百歳近い長寿であった。新聞記事を読みながら、私は久しぶりにR太郎先生のことを思い出していた。私の脳裏に浮かぶR太郎先生は、百歳の老人ではなく、中学一年生の夏に見た、あの濃い臑毛の男盛りの親父そのものであった。

 

 私の空想に登場するもう一人の男は、親友T夫の父親であった。T夫の父親の風貌については、これまでも何回か語ってきた。五十代前半。身体つきも逞しく、余分な肉のない祖父と違い、腹にはそれなりの贅肉がついていたが、胸板が厚く、肩や腕の筋肉が盛り上がった柔道家のような体型だった。つまり、こちらは西郷隆盛タイプの男だった。

 私がT夫の親父に魅了されたのは、体型、そして、くっきりとした眉毛が印象的な顔立ちはもちろんだが、何よりも厚い胸板にビッシリと生えた胸毛だった。

 一年に一回、秋の収穫が終わると、本村と開拓地の農家は、土日を使い、湯治に出かけるのが慣習となっていた。地域の「マケ」を中心に、普段から親しく付き合っている者たちで、近くの〇〇湯温泉に一泊するのである。

 マケというのは、本家と分家から構成される農村の集団で、遠い親戚関係、つまり、本家と分家をあわせた集まりと考えて差し支えない。ただ農地改革前には、奉公人(作男)が分家を許された場合も、マケの一員として認められたから、血縁がない場合も多々あった。

 昭和の暦では、土曜日は半ドンであった。つまり、午前中は学校なり仕事なりがあった。この頃になると、若い者は麓の街の工場などに勤める者が増えており、いわゆる専業農家というのは急速に減りつつあった。畢竟、大抵の場合、土曜日の午後に温泉宿に入り、日曜日の昼には帰宅するという日程であった。

 これとは別に、祖父母は冬季間、自炊部のついた湯治宿に二週間ほど泊まり込み、一年間の疲れを癒やしていた。こちらは、疲労回復が目的の本格的な湯治であったが、一年間の農作業の疲れをとるだけでなく、もともとあまり丈夫でなかった、祖母の健康を考慮する意味もあったのだろうが、学校がある私は、冬の本格湯治には随行したことがなく、こちらについては詳しくは知らない。

 いずれにせよ当時はまだまだ娯楽が少なかったから、温泉につかり、夕方から宴会をする晩秋の日を、大人も子供も楽しみにしていた。

 T夫の家は私の家と同じマケに所属しており、T夫の父親とも、毎年、秋の湯治で顔を合わせていた。

 正確にいえば、祖父とT夫の父親が再従兄弟(はとこ)同士だったらしいが、最早、血縁が遠すぎてよくわからないのが正直なところだ。

 むしろ、T夫の家が祖父の実家の隣で、ともに共通の別の大きな農家を、本家と呼んでいたといった方がわかりやすい。つまり、祖父の実家もT夫の家も、同じ本家から分家を許された家系だったのだ。

 細かく書けば、私の家とT夫の家が、秋の湯治を共同で行うようになったのには、T夫の父親の両親、つまり、T夫の祖父母が、私の祖父母の結婚式で仲人をしたという事情もあったらしい。今となっては詳細不明としかいいようがないが、とにかく、私が物心ついた頃には、両家、本家に加え、T夫の家など近しい分家数軒と秋に湯治に行くのが、既に習わしになっていた。

 四、五軒の家族が一同に介すのである。恐らく二十人以上の男達が集っていただろうが、先述したようにホモは外見にうるさい。幼い頃から、中熟年の男の身体が気になって仕方ない私だったが、秋の湯治の参加者の中で

「チンボをみたい。」

 と思えたのは、祖父とT夫の親父だけであった。

 大人にとって、秋の湯治の最大の楽しみは宴会だった。会社勤めが増えつつあったとはいえ、祖父、父親の世代の大部分は農業だったから、職場の飲み会という概念がない。今なら、忘年会で盛りあがるようなものだったのだろう。

 湯治の日、一行は温泉旅館に着くとまずは風呂に向かう。風呂場は二十人ほどが一緒になり、それこそ芋を洗うような状態であった。これでは、一人の男の身体をじっくり鑑賞するというわけにはいかない。

 しかし、T夫の父親の身体は際立っていた。唯一、完璧な胸毛の持ち主だったのである。日本人には、叢(くさむら)のような胸毛が、腹、胸のすべてを覆い尽くしている男は少ない。名前を聞いて胸毛を連想させられる有名人であっても、その多くは薄っすらだったり、チョビチョビだったりするものだ。

 夏八木勲、仲代達矢、三島由紀夫、3人とも私好みの胸毛男だが、「ブラシのような」という形容には語弊があろう。日本人で上半身全面を覆い尽くすような胸毛の持ち主といったら、長嶋茂雄、浜田剛史くらいのものではないだろうか。

 胸毛だけではない。T夫の父親は腕や脚の毛も濃く、髭の剃り跡も、「おろしがね」を連想させた。硬くピンッと立ち上がった髭剃り跡が青々としていた。ただ、大きさこそ平均並みだったが、陰茎には不満が残った。亀頭が包皮で覆われた仮性包茎で、先端から僅かな亀頭が顔を覗かせているだけだったのだ。

 私は大きさにはこだわらない。むしろ、大き過ぎるものは醜悪だとさえ思う。しかし、形にはこだわりがある。雁首の発達した松茸のような逸物こそ、男の証だと思う。

 年に一度、湯治の日にT夫の父親と入浴できるのを心待ちにするようになったのは、いつの頃からだっただろう。センズリを覚えた頃、しばしばT夫の父親をイメージしながら、白い樹液を放ったことを、はっきり覚えているから、小学校低学年の頃からだったのかもしれない。

 T夫本人とは、分校時代からの同級生であり、普通に会話し、休み時間に遊ぶという間柄だった。しかし、小学校時代は、特に親しく、つまり親友といえる程に、深く付き合っていたわけではなく、単なる同級生の一人であった。

 というのも、T夫の家は本村にあったから、低学年の私にとっては遠すぎた。当時は歩いて行き来するしかなかったから、小学校時代、親戚付き合いで訪問する以外の理由で、T夫の家に足を踏み入れたことはなかったし、T夫だけで私の家に遊びに来たこともなかった。

 むしろ、私は同じ開拓地の学年が一つ下の子と、一緒に遊び、通学も二人ですることが多かった。

 四年生になるときに、本校と分校が統合となったが、本校は二クラスとなったことで、私とT夫は別のクラスになった。分校にいた頃より、二人の繋がりは希薄となり、それは中学校で同級生になるまで続いた。私が性に目覚めたこの頃、もしも同じクラスになっていたら、私とT夫はもっと早く親友になっていたのかもしれない。

 

 五年生の秋の湯治からは、それまでと状況がかわった。周囲が変わったのではない。私の第二次性徴が顕著になってきたからだ。祖父以外の男に成長した生殖器を晒すのには、やはり、恥じらいがあった。

 しかし、私はどうしてもT夫の父親の裸が見たかった。私は、どうせわかるのだからと、隠さずに入浴した。祖父にも事前に言われていた。

「先っぽがもげ始めている。むしろ、威張れることだ。堂々としていろ。」

 発毛後、父親に陰部を晒すのも始めてだった。父親も親戚の男たちも、私の陰毛がたっぷり生えた股間に、一瞬、驚きの表情をみせたが、大多数は気づかぬふりをしていた。T夫も気づいていただろうが、何も言わなかった。私は、いつも控えめなT夫らしいと思った。

 その年も大浴場は、やはり二十人近くの男達でごった返していた。大浴場といっても小さな山の出で湯である。狭い浴室には成熟した親父たちで溢れ、発せられる体臭で噎せ返るようだった。親父たちの半分くらいは亀頭が露出していない。その現実に私は優越感を覚えた。

 翌年、小学校六年の時の湯治になると、最早、恥じらいは皆無だった。その頃には、亀頭はほぼ露出していたから、むしろ、仮性包茎の大人たちに、自分の成長した陰茎を積極的に晒した。そこには明らかに性的な高揚があった。祖父と目が合ったが、祖父は、

「それでいい。」

 というように頷いた。

 私は湯船に浸かりながらT夫の父親の裸体を何度も盗み見た。しかし、私だけではなかった。祖父の粘っこい視線が何度も、T夫の父親に注がれるのに、私は気づいていた。

 風呂からあがると、私は便所で自らを扱いた。あの胸毛に抱かれたら、どんな肌触りがするのだろう。やがて射精の瞬間が来た。

 私の脳裏には、次第に起立し、限界点を超えた時、ニュルンと一気に皮が後退して亀頭が完全露茎する、その瞬間のT夫の父親の裸体が浮かんでいた。

 入浴後は宴会だった。それが終わると男部屋では二次会が続いた。私も男部屋に布団を確保し横になった。酒に酔った祖父が、T夫の父親を相手に下衆に笑っている。

「雄吉はもう大人だ。風呂で見たべ? ごっついチンボしとる。もう覚えたべさ。」

 祖父の声が、寝たふりをした私の耳にいやらしく響いた。

 風呂での祖父のT夫の父親に対する粘っこい視線、そして、下品な会話。この二つが私の中で交錯し、一つの答えを導き出していた。祖父もT夫の父親に対し、性的興奮を覚えていたのかもしれない・・・と。

 

 私は中学二年になっていた。前年、前々年の湯治にもT夫の父親は参加していたが、やはり、数十人の参加者の一名に過ぎない。所詮、遠目に裸体を鑑賞するしかなかった。私は、せめてT夫の父親の肉体に触れてみたい、体臭を近くで感じたいと願っていたが、湯治の場では、そう簡単には実現しそうになかった。

 中学二年生の夏休み、私はT夫の家に泊まりに行ったことがある。細かいやり取りは忘れてしまったが、元々が同じマケなので、親戚の家に泊まりにいくようなものだった。

 夜になると、T夫の父親は浴衣姿でくつろいでいた。私が泊まりに来て、おじさん、おじさんと慕ってくるので、私の魂胆も知らず、夕食の席でもT夫の父親はご機嫌だった。しかし、あまり酒に強い方ではないらしく、徳利二、三本の晩酌に顔を赤らめると、そのまま茶の間でゴロリと横になりイビキをかき始めてしまった。

 私は改めてT夫の父親をみた。視線を下半身に移すと、浴衣の前がはだけていた。T夫の父親は下着を付けていなかった。暑いし、後は寝るだけだったからだろう。翌朝、野良着になる時に猿股を履けば済む話である。

 逸物が露出していた。皮が亀頭を覆っており、先端だけがわずかに顔を覗かせている。しかし、ずっしりとして大きさは充分であった。成熟した生殖器を覆う陰毛と、たくましい太腿を覆う股の毛が繋がっている。浴衣で隠れているが、その毛は胸毛と繋がっているはずであった。

 ふとした拍子に、T夫の父親のイビキが止まった。目を覚ましたのだ。そして、股間が丸出しになっていることに気づいたのか、寝ぼけながら浴衣の裾を引き寄せた。

「父ちゃん、だらしない。ちゃんと布団に行きな。」

 T夫が言った。T夫の母親は台所で夕食の片付けをしていた。

「明日の朝、早いで、父ちゃん、もう寝るでな・・・。」

 夏の農家は早朝四時には起き出し、朝飯前に一仕事するのである。そうは言うものの、T夫の父親は完全に寝ぼけてしまっていて、再びその場で寝てしまいそうだった。

「父ちゃん、しっかりしろや。」

 T夫が父親を右肩に抱えて立たせ、寝床に連れて行こうとした。T夫の父親は偉丈夫だけに、小柄なT夫では心許なかった。畢竟、私が反対側を支えることとなった。

 T夫の父親の体臭が私の鼻腔を擽った。汗と加齢臭の混じった噎せ返るような芳香であったが、私にはこの上もなく魅惑的な香りに感じられた。

 私とT夫は父親を両側から支えて立ち上がらせ、隣の座敷にいざなった。座敷と茶の間の間の襖は開け放たれていた。座敷には蚊帳が吊られている。

 蚊帳をめくりT夫の父親を、蚊帳の中に入れ布団に横たえると、父親はそのまま大の字になって寝てしまった。私達は蚊が入らぬよう慎重に蚊帳から出た。蚊帳で視界が遮られた。最早、例え前がはだけても、蚊帳の外からでは、さっきのようにT夫の父親の陰茎を見ることは不可能だった。

 その日の深夜、私は便所に行くふりをして、外に出た。まだまだ下肥が使われていたから、農家の便所は屋外にあるのが普通だった。

 月の明るい夜だった。庭の草むらでは、既に秋の虫が、さみしげな音色を奏でていた。

 私は母屋の陰に身を隠すと、自らの逸物をこすった。壁の向こうにはT夫の父親が寝ているはずだった。T夫の父親の萎えた陰茎が目に浮かんだ。しかし、私の官能をより刺激したのは、酔ったT夫の父親を支えた時、はっきりと感じた男の体臭であった。未熟な身体からは発せられることのない、熟れた芳香が私の鼻孔をくすぐり、それは、私の股間に疼くような切なさを揺り起こした。

 高まりはすぐにやってきた。私の亀頭から弾けた飛沫は、弧を描いて板壁をベットリと濡らした。

 部屋に戻るとT夫はぐっすりと眠っていた。T夫の肉体が、あの父親の精液で形成されたと思うと、何ともいえない感情が湧き上がった。それは、愛おしさだったのかもしれない。

 

 翌日は夏休み中の全校集合日、つまり中間登校日だった。私はT夫の家から直接学校に向かった。全校集合日といっても授業があるわけではない。清掃をした後、映画鑑賞会が開催され、全校生徒が講堂に会し、映画を観て帰宅するのだ。

 今はネット配信や映画ソフトが簡単に手に入るが、当時は映画は滅多に観ることのできない、娯楽の王様であった。まだモノクロが主流、カラー映画は総天然色などの形容が付き、それ自体が売りになっていた時代である。カラー作品は、今でいえば3D映画みたいなものだろう。この後、わずか数年でカラー映画が主流になっていく。

 この時に観た映画のタイトルは記憶にない。しかし、級友たちが、出演女優の話題で盛りあがる中、私は一人の俳優に心を奪われていた。映画に触れる機会など、ほぼないに等しかった当時の私には、名前さえ知らない役者だった。角刈りで六十代半ばのその役者に抱かれたい。肛門を犯されたい。そうされる自分の姿を想像しながら、私は股間を硬くしていた。

 私のウケとしての資質が目覚めようとしていた。