くまどん-三太 共作作品

磯に立つポセイドン

第1章 赤褌の親父さん

 

第1章 赤褌の親父さん

 

 神奈川県の葉山からそれほど遠くない所に、今はもうテトラポッドの群生地のようになってしまっているが、かつては小さくて素朴な生活を送っている漁村があった。

 俺はそこで生まれ、そこで育ったのだ。

 

 ごつごつした岩肌に波が打ちつけられ、白い飛沫が弾ける。

 浜辺ではない。

 磯だ。

 

 荒波による夥しい数の穴やら、砕けた岩の残骸やらで複雑な火山岩の形があちこちに突き出している。

 鋸の刃のようにギザギザになっている岩肌は、波に足下をすくわれでもすると、肌が擦れて血だらけになりやすい。そのような地形ではあっても、このあたりで生まれ育った子ども達はひょいひょいと器用に波を飛び越え、あっという間に奇妙な形の岩山のてっぺんに立つことができる。

 しかし、ここら辺で最も高い磯の岩山に立って一番絵になるのは、なんと言ってもあの「親父さん」だ。この意見に対してはきっと、村の全員が納得するはずである。

 

「親父さん」

 村のみんなからそう呼ばれている、壮年の一人の男。

 

 俺達が物心つき、ここら辺の磯を遊び場にするようになったときには、その男の人はもう村の人達から親しみを込め、「親父さん」と呼ばれていた。もっともそう読んでいる大人達に訊ねても、親父さんがいつ頃からこの辺に住んでいるのかはわからなかった。

 

 放課後の夕暮れ時にも、あるいは学校が夏休み中の昼間に来ても、いつも親父さんはこの磯に居た。

 

 親父さんは大抵、褌一丁で海に向かって立っていた。その褌は鮮やかな真紅に染められたいわゆる赤褌だった。

 当時は俺達のような子どもも褌一つで海に飛び込んで遊んでいたので、赤い褌といっても特に珍しいものでもなかった。親父さんは、磯では珍しい雪でも降らない限り、一年を通してずっと赤褌一丁でうろうろしていた。

 その姿が目に焼き付いていたのだろう、俺達は子ども同士の中では親父さんのことを「赤褌親父」と呼んでいたのだった。

 

 赤褌を締め込んだ親父さんは、五十路を超えたくらいの歳だろうか。背はそれほど高くないが、とにかく素晴らしい肉体の持ち主であった。

 短く刈り込まれたごま塩頭に、やはり白いものが混じった口髭がよく似合っている。

 年中裸同然のせいか、全身赤銅色に染まり、それがまたかっこよく赤褌を引き立たせていた。

 

 昔、力仕事をずっとやっていたらしく、太い首から盛り上がった両肩にかけて筋肉がついていて、さらにそのまま巨大な胸板に続く稜線が、いやでも逞しい雄の形を宣言していた。

 その大きく盛り上がった二つの胸板から下にふくよかな腹が続く。臍の辺りから徐々に色を濃くしながら、流れ落ちるように黒々とした毛が赤い褌の大きく膨らんでいる前袋の中に消えていった。

 ぎゅっと締められた褌からは、丸太のように太い大腿が両側に突き出している。

 親父さんが岩のてっぺんに仁王立ちになって股を大きく開いて立っていると、その太くごつい短い脚が、いかにも巨大な上半身を支えるためにあることがよくわかった。

 両手を腰に当てて、一直線に水平線を見つめる赤褌の親父さん。それは学校の図書館で見たギリシャ彫刻のポセイドンそのものだった。

 

 海の神。磯に立つポセイドン。

 

 少年達にとって彼の雄々しく立つ姿は、まさに理想的な大人の男の姿であり、英雄を具現化した姿であった。

 

 ああいう男になりたい。

 

 俺達は口に出さなくても、誰もが親父さんの磯に立つ姿を、心の中に憧れとして抱いていたのだ。

 笑うと目が無くなるくらい優しい顔であるのに、海を見つめる親父さんの顔は、おそらくは凄まじい体験をしてきた海の男だけに持つことが許される、数々の傷や皺が、男らしさの証明として輝いていた。

 

 親父さんは村の人達には気さくに声をかけていた。

 今日の海は時化てくるのが早いから、今のうちに船を畳んだ方がいいとか、鴎がひどく騒ぐから大漁かもしれんとか。毎日磯に立つ海の男ならではの知識を伝えていたのだ。

 俺の家族も親父さんには絶大の信頼を置いていたようで、例え波の荒い日に俺一人で海に出かけても、親父さんがそこにいるとわかれば、安心して送り出してくれた。

 

 親父さんの名は「小笠原勉」というらしかった。

 古くから知っている同年代の人達は「ベンさん」とか「小笠原さん」というように呼んでいたが、俺達はやはり赤褌の「親父さん」と呼んだ方が親しみやすかった。

 村中のあらゆる揉め事も、心配事も、そして、俺達みたいな村の子どもの面倒も、あの分厚い胸板と逞しい太ももでどっしりと受け止めてくれる。

 この磯に暮らすみなが、そんな包容力を親父さんから感じていたのだ。