里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農家の性の記録

第二部

思春期

 

三 生活ノート

 

 早瀬先生が生徒と交換日記をしていたことは前章でも書いたが、それは生活ノートと呼ばれていた。

 この四月に中学生になった孫一号も、やはり生活ノートを毎日提出している。つまり、生活ノートというコミュニケーションツールは、早瀬先生だけが取り入れていたというわけではなかった。

 ところで、先日、たまたま孫一号の生活ノートを目にして、私は驚いた。なんと私が使っていたのと、まったく同じサイズ、まったく同じデザインではないか。

 私は孫一号に聞いてみた。

「先生に、どんなことを書いているんだい?」

 彼は即答した。

「秘密。」

 そう、生活ノートの内容は、家族にも秘密なのである。私もそうだった。

 

 実は、早瀬先生の性教育には、後日談がある。

 当時、私は毎日の日記に、今日の授業はどうだっただの、今日は田植えだっただの、当たり障りのないことを書いて提出していた。読む側としては、面白くも何ともない日記だっただろう。それでも、毎日、丁寧に返事が書いてあった。先生の返事は、いつもユーモアに溢れ、私はとても楽しみにしていた。

 しかし、早瀬先生と打ち解けてくると、私の性癖がいろいろな部分で顔をもたげてくる。早瀬先生がタイプの男だったことも、私の股間を熱くさせた。

 特に例の性教育の授業があった日の夜、私の性的興奮は異常なまでに高まり、ついに抑えることができなくなった。

「困ったことや悩みを書いてもいい。」

 早瀬先生のこの言葉が私の頭の中を駆け巡る。要は性の悩みを装った日記を書いて、性癖を満足させようという魂胆だった。

 性教育のあった日の日記に、私は次のような文章を書いた。先生との日記は金銭では手に入らない、生涯の宝物として大切に保存してある。恥ずかしながら、ここに原文のまま抜粋する。

「今日の授業はとてもためになりました。先生も言っていたけれど、こういうことはふざけないで聞かないといけないと思いました。僕は小学校四年の時に毛が生え精通もありました。たぶん早いほうだと思います。皮も剥けました。よくみんなにひやかされていやでしたが、大人になるとみんなそうなるのだから、これからは気にしないようにしたいと思います。先生は何年生の時に毛が生えて、皮がむけたのはいつでしたか?」

 今、読んでも我ながらあざとく、したたかな日記である。本当に書きたいのは文末に、あたかもふと思い出したように書き足した最後の一文、

「先生は何年生の時に毛が生えて、皮がむけたのはいつでしたか?」

 ここだけである。精通のことを書かなかったのは、発毛の年齢さえわかれば、ほぼ同じ頃に精通があったに違いないだろうという打算からであった。

 あまり露骨に根掘り葉堀り聞くと変に思われるだろう。だから、全部聞くのではなく、一つくらいは聞かずに済ませる。そこにも当時の私の苦心が見え隠れする。

 私は自分で書いておいて、この日記にひどく興奮した。もちろん即センズリである。生活ノートのそのページに精液を放出し、そのまま乾かして提出しようかとさえ思ったほどだ。もちろん、実行に移すほど愚かではなく、ぎりぎりで踏みとどまることができた。

 翌朝、その日記を提出する時はさすがに躊躇した。しかし、意を決して出してしまえば、後は返事を待つだけである。どんな返事が書かれているのだろうかと期待に胸をふくらませ、その日は授業中も上の空だった。終いには、数学の教科担任に、

「体調が悪いのか?」

 と心配される始末であった。

 放課後、いよいよその時が来た。はやる気持ちを抑え、私は震える手で日記のページを開いた。しかし、私の目に飛び込んできたのは、次のような言葉だった。

「う~ん、忘れたなぁ。もう三十年以上昔のことだから。これからも、大人になっていく過程でいろいろなことがある。その辺りのことは、身体だけでなく、心が成長していく中で雄吉にも少しずつ自然とわかっていくものだよ。」

 お見事! さすがは教育者と感じさせる素晴らしい返答である。「忘れた」の後に続く文章が、あたかも人生について語っているようで、「忘れた」という言葉のもつ、ある種の冷たさを、温もりのオブラートで包んでいる。全体から大人の達観した眼差しさえ感じさせるではないか。

 しかし、この文章で興奮しろという方が無理だった。そもそも亀頭の露出も発毛も、男にとっては人生の一大イベントである。何年生で皮が剥け、何年生で毛が生えたかを簡単に忘れてしまうはずがない。

 うまくはぐらかされて、「はい、それまでよ」とは、正にこのことであろう。

 ニ年後、私は修学旅行で早瀬先生と入浴する機会を得た。先生は雁首の張った、見事なズル剥けマラの持ち主だったことを、先生の名誉のために書き添えておく。

 こうして私の画策は見事に裏切られ、以後、私は日記で性癖を満たそうとは思わなくなった。今回と同じように、うまくはぐらかされるのが落ちである。やはり大人にはかなわない。

 そう思うと同時に、自分も早く大人になりたい。好きなだけ温泉に行って、男の身体を眺めたい。そして、可能ならば、いろいろな男とセックスしたい。切にそう願い始めていた。

 

 早瀬先生との日記を三年間書き続けたことで、私はますます文章を書くことが好きになり、作文力もついていった。

 もし早瀬先生との出会いがなかったら、五十年後、「開拓地にて」を書くことなどなかったかもしれない。そう考えると、やはり早瀬先生には心から感謝しなければならないようだ。

 ただ先生にとっても、学級経営上、私は重宝な存在だったのではないかと思う。何しろ私はクラスで一番身体が頑強で、勉強もできる優等生だった。クラスの男子連中が一目置かないはずがない。

 そんな私が、自分になついてくれているのである。もはや、男子全員の心は掴んだも同然であったろう。

 私が早瀬先生を慕った理由は、もちろん先生の人柄もあった。しかし、一番の理由は早瀬先生がタイプの男で、性欲の対象だったということだ。結局、人間、根底にあるのは「性」であるということか。

 

 私たちが中年にさしかかった頃、早瀬先生を招き、近くの○○温泉で一泊二日の同級会が開かれた。

 同級会には、親父にそっくりの胸毛男に成長した、T夫の姿もあった。先生は六十代後半になっていた。

「あの時のクラスほど、私になついてくれたクラスは後にも先にもなかった・・・。当時、私は、年齢的にも君たちが最後の学級担任になるかもしれないと思っていた。」

 しかし、早瀬先生は最後まで現場にこだわり、管理職の道には進まなかったことを私は知っていた。先生は続けた。

「君たちとの三年間の中で、私は学級担任でいることのすばらしさを改めて感じた。そして、君たちを卒業させる時、教頭、校長の道に進むのではなく、退職まで現場でやっていこうと決心した。本当に人との出会いは人生を変える。私は君たちに何度もそう話してきたことを覚えているだろうか。それは君たちとの出会いで、私の人生が大きく変わったからだ。今日は招いてくれて本当にありがとう。」

 既に教職を定年退職し、悠々自適な生活を送っていた先生が、挨拶の中でしみじみと語った。

 元悪ガキどもは、しんみりとした気分になって先生の話を聞いた。中には涙を拭っている者もいた。ほろ酔い気分の中、

「先生、みんなが先生を慕った理由のうちの一割くらいは、俺がホモで先生に惚れていたお陰ですぜ。」

 早瀬先生に酒をつぎながら、私は心の中で秘かにそう自惚れるのだった。