戌亥武之進、闇に逃げる

その4

 

 武之進と黒虎が休む小屋に、また朝が来る。

 黒虎に身を預けていたはずの武之進は、筵を敷いた床に横になっていた。ぐっすりと眠った犬獣人が目を覚ますと、すでに虎獣人は身支度を済ませている。

 

「お目覚めでございますかな、武之進様。少しばかりではありますが、飯を用意しました。腹に入れてから、動きましょうぞ」

「済まぬな、黒爺。お主にばかり、用意させている……」

「何を仰いますやら。さあさあ、早くお食べくだされ」

 

 一度蒸した米を薄く潰し乾燥させた干し飯(ほしいい)は、火にかけた器の中で粥状に炊かれ、小屋の周りで採れたのか幾種類かの青菜が入っていた。干し肉を軽く炙ったものに塩気があるためか、粥には味は付いていない。

 それでもこの状況で暖かな飯が食べられるということは、黒虎により事前に丁寧に用意されているゆえと、若き武之進も理解しているようだ。

 

「飯が済みましたら、出立いたしましょう。今日も一日、歩き通しになりますゆえ……」

「ああ……。私の身体が小さいばかりに、なかなか進まぬのだな。お主一人であればもっと先に進めるのだろうに……。済まぬ、黒爺」

「これまた何を仰いますやら、武之進様。御父上も悲願とされた目的を、武之進様御自身が違えてはなりませぬぞ」

 

 武之進の愚痴とも言える呟きを制した黒虎の一言は、同情では無い。

 主家筋の若者と庭の者。その二人の道行きは、あくまでも戌亥家復興をその先に見てのものであり、単なる生存のためのものとは一線を画している。

 

「……ああ、その通りだな、黒爺。弱音を吐いた私を許せ」

「いえ……。昼過ぎには雨に追いつかれそうですな。急ぎましょう、武之進様」

 

 ここ数日と同じく、武之進を前に、黒虎が後ろを守りながら山道を歩いて行く。

 なるべく音を立てぬよう、鳥達を驚かせぬようにと身を運ぶ二人。

 

 追う者達の気配、山の獣の動静、風上から吹く風。

 音、匂い、そして体毛とうなじに感じる殺気。

 五感のすべてを研ぎ澄ましながらも前を行く武之進へ的確な指示を重ねていく黒虎の様は、同じ忍びの者にしか感じ得ない技量の熟達した姿を見せていた。

 

 屋敷を出て三日。ここまで二人が無事に逃げおおせているのは、領内外の土地に対しての理解が深く、追っ手の気配に敏感な黒虎の忍びの者としての技量に負うところが大きかった。

 追っ手の配置や移動方向、人数を推測しながらの逃走は、予定していた道を外れることもしばしばであり、そのたびに目的地である熊谷領への到達が遅れることを黒虎は危惧している。

 近隣山中の逃走の助けとなる山小屋や杣小屋はすべて把握している黒虎ではあったが、この二日だけを考えても、追っ手を避けるがゆえに利用できる小屋からも遠く離れた経路を選択せざるを得なかったのだ。

 

 2人、3人までの、いや、たとえ5人10人であっても、刀を振り回すだけの追っ手であれば、黒虎の技量でなんとか撃退も可能であろう。これがそれ以上の人数と遭遇してしまえば、あるいは、黒虎と同じ技量を持つ忍びの者と出くわしてしまえば、武之進を守りながらの切り抜けはほぼ絶望的となる。

 

『その折には、私がこの手で、武之進様を……』

 

 源三郎から言い含められたあの夜から、何度も己の頭の中で繰り返してきた情景であった。

 それを己が手によって為さねばならないこと、その幾度もの想起そのものが、己の心を苦しめていることを、黒虎自身もよく理解している。

 

 黒虎の言葉通り、朝方は日の射していた道に少しずつ影が濃くなってゆく。歩みを止めずに歩き続けた午後には、西の方角から雨が落ち始めた。

 濡れてはならぬものは油紙に包んでの行脚とはいえ、そこは雨脚の激しさが増せば歩みを止めざるを得ない。

 身体も小さく、体表の熱を奪われやすい武之進のことを考えれば、道行きにも無理の出来ない黒虎である。

 

「武之進様、あそこの洞窟で身体を休めるといたしましょう」

 

 杣小屋と同様、隠れ家になりそうな洞窟や大木の洞などは、庭の者達のその手で、あるいは領民である杣人を使って日頃から手入れをしてきた黒虎である。

 武之進に指し示した洞窟も、雨や梅雨の時期にも少し奥に入れば乾いた地面があることは承知の上のことだ。

 

「中はけっこう広いのじゃな」

 

 昼間とは言え、雨雲の押し寄せた山間の洞窟では外の光も入って来ない。

 貴重なろうそくを使った提灯の光に、武之進が感心したように呟く。

 背をかがめて入った岩穴は奥に行くほど広がり、黒虎が定めた場所ではしっかりと立つことが出来るほどの空間が広がっていた。

 

「地面も乾いておりまする。雨に濡れた衣と身体を、乾かしましょう」

 

 小屋でのそれと同じように、六尺だけを身に付けた2人に虫も集らぬのは、黒虎達庭の者が普段から手を入れている証左でもあるのだが、さすがに若い武之進はそこまでは頭が回らぬようだ。

 

 洞窟の奥、腰を下ろす場所を決めた黒虎が背嚢から何やらを取り出しては、少し戻った入口近くになにやら細工を施している。

 

「それは何をしているんだ、黒爺よ? 網、のようなものか?」

 

 何か罠のようなものとは分かっても、具体的にどのような作用をするかが分からぬのは、つい先日まで『周囲からの庇護の対象であった』武之進の立場としては、当たり前だったろう。

 

「本来は屋敷の天井、屋外であれば樹上に備え、上から落とす形で複数の敵を絡め取るものです。切れにくい細い絹縄を使った網に、霞網にも使うような強い鳥もちをまぶしてございます。

 具合よく落とす仕掛けまではここでは作れませんので、取りあえずは侵入してきた者の進路を塞ぐよう、用意しておきまする。もっとも絡まった敵を踏み越えて来る数がいた場合はそう役には立ちませんが、幾ばくかの時間稼ぎにでもなればと思いましてな」

 

 先の閉じた洞窟においての時間稼ぎとは、如何なる意味を成すのか。その言葉への吟味は、まだ武之進には出来まいと判断した黒虎の説明であった。

 案の定、感心したように黒虎の作業を見つめる武之進の瞳には、疑問や諦観の影は見られない。

 

 この洞窟が見つかったとき。

 この洞窟に攻め入られたとき。

 もしそのような事態となれば、屋敷で腹を切った源三朗や甲子丸、あるいは『つや』や『えん』と同じ道を行くしか、幼き武之進が武家の息子としての尊厳ある死を選ぶことは叶わぬであろう。

 

 これが作動する事態となれば、それは主君源三朗様の『最期の命』を実行に移すとき。

 準備する黒虎の胸中は、忍びの者には本来持ち得ぬ感情で溢れていた。

 

 罠を仕掛け終え、温めぬまま少しばかりの兵糧を腹に入れる2人。

 閉じた空間で火を使うことは、ろうそく程度まで。その黒虎の判断は武之進も納得しているようだ。

 

「雨はこちらの匂いや痕跡も消してはくれますが、敵の気配もまた分かりにくくなります。今晩は敵もそのことを理解した上で、我らの捜索にかかるでしょう。大声や岩に響く物音など、くれぐれもお気をつけくだされ」

「もちろんだ。もし見つかったなら、戌亥家の者としての立派に戦う覚悟は出来ている……。そして、そのようなことになれば、もう、我らは……」

 

 意を決したように話す武之進の身体は、かすかに震えていた。

 それは急速に落ちつつある気温のせいだけでは無い。

 腹が膨れた武之進にあって、ここに敵が来たら、入口を塞がれたなら、と、思いを馳せるゆとりが生まれたのだろう。そこを見越した上で、今日の一夜をこの場所で明かす意味が理解できてきたようだ。

 

「雨の落ちる前までにはかなり移動できましたので、猪西の軍勢とは一定の距離が取れたものかと思っております。

 早朝、夜が明ける直前の時間帯が一番警戒すべき頃合いです。逆に言えば、夜明けを無事に迎えることが出来れば、明日のうちには熊谷領へとたどり着くことが出来ましょう。

 長き一夜でございます。今からそのように逸(はや)っておられると、身体と心が保ちませんぞ」

 

 膝を抱え、細かく震える武之進の肩を抱き締める黒虎。

 その暖かな体温とゆっくりとした鼓動が、次第に武之進の心と身体をほぐしていく。

 

 毎夜のように褌一丁の身体を寄せ合い、互いの肌で温め合ってきた2人だった。

 すでに相手の逸物を握り、扱き、その汁を飛ばした2人には、そうそう隠すことも無い。

 少なくとも武之進に取っては、黒虎と行う『秘密の共有』こそが、自らが孤独では無いことを指し示す指標となっていた。

 

「黒爺……」

「どうされました、武之進様」

 

 黒虎の広い胸に背中を預けた武之進が、淡い光に浮かび上がる洞窟の壁を見つめながら呟き始める。

 

「私は、私は黒爺と父上の、そう、あれを盗み見たことがあるのだ……」

「あれ、とは何のことでございましょう?」

 

 分かりきった質問を返す黒虎。

 戯れ言を言い合えること。黒虎はそこに、若者が仮初めの安心を託していることを熟知している。

 

「おぬしも分かっておるのだろう。父上とおぬしが、その、互いの逸物をしゃぶり合い、父上の尻におぬしのその巨大な逸物を突き入れていたことじゃ」

 

 昨夜のせんずりの際、何を思う、との黒虎の問いに『色々じゃ』と答えた武之進である。

 その『色々』が、まさにこのことであった。

 実の父親と、己が幼いときから鍛えられ、甘えさせてもらい、祖父とも2人目の父とも慕った『黒爺』の同衾。

 偶然目にしたこととはいえ、それは自らが慕う2人、父と黒虎の生と性の根源を垣間見た瞬間でもあった。

 

「ふふ、あのとき、あなた様が覗いておられることは、この黒虎、気が付いておりましたぞ」

「なんと?! それすらも知っておったと申すか?」

 

 思わず振り返る武之進。

 

「我ら忍びの者は、はたして己が逸物から汁が出る瞬間においても、周囲への警戒を怠らざるように日頃から鍛錬をしているのでございます」

「なんとなんと、だな……」

 

 驚きを通り越し、呆気に取られたような武之進の顔を、笑いながら見つめ返す虎獣人である。

 

「確かあのとき、武之進様は私とお父上の交情を見ながら、三度ほど精を放たれたはず」

「そこまで、知られていたとは……」

「ふふ、我ら忍びの者はどこにでもおりますし、どこにもいない者なのですよ」

「まったく、そのようだな……」

 

 当主とその血を引くもの達の挙動がお付きの庭の者に常に見張られ、そして守られていることは知識として知り、春画の一件においても思い知った武之進である。

 しかし、荒事により命を落とすかもしれぬという実感のまだまだ乏しかった武之進に取っては、『まさかそこまで』との思いも強かったに違いない。

 

「そしてあなた様が私たちを覗いていること、覗きながら自らを慰めておられることをお父上にお伝えしたところ……」

「父上にも言うたのか!」

 

 さらに驚きを重ねる武之進である。

 

「ええ、その途端に源三郎様のよがり声はひときわ大きくなり、私の逸物を入れられた尻穴も急にその締め付けを強くなさいました」

「父上が、父上が……」

「よほどあなた様に、実の息子にまぐわいを見られたことに、興奮なさったのでしょうなあ……」

 

 いささか露悪にも思える黒虎の言葉ではあるが、生命維持の極限状態における精神の揺らぎもまたその要因であったのかもしれぬ。

 黒虎の話を聞き、ついに決意したように武之進が言葉を継ぐ。

 

「黒虎、あのときの父上とのように、私の尻におぬしの逸物を入れてくれぬか」

 

 普段に聞けば驚くような武之進の言葉ではあるが、どこか黒虎にはその予感があったのではないか。

 

「熊谷様の領内へと逃れることが出来ますれば、そのようなときはゆっくりと作ることが出来ましょう。なぜ『今』、それをお求めでございますかな?」

 

 答えが分かっている問いであった。

 黒虎にしても、武之進の口から聞いてこそのもの、との思いがあったのであろう。

 

「敵が、猪西の者どもがこの岩穴を見つけてしまえば、もうそれは『終い』を表すのであろう、黒爺よ。これまでは四方どこへでも逃れることの出来る山小屋で休んでいたが、私の歩みの遅さと雨が、今宵の塒(ねぐら)をお主にここと選ばせてしまったのだろう。

 済まぬ、黒爺。

 我がもう少し身体を鍛えておれば、我の身体がもう少し兄上や父上様のように逞しくあれば、このような事態を避けられたと思うと悔しいのじゃ……。

 そして、そして、それゆえに……。『今、ここで』お主の逸物を、我の尻に入れてくれぬかと、頼んでおるのじゃ……」

 

 なにもかもを、理解してしまっている武之進の言葉であった。

 その小さな身体の奥底に秘められた闘志と決意には、正面から向き合うしか無い。

 黒虎に、そう決断させうる言葉の『重み』が、そこにはあった。

 

「あなたが私に、では無く、私があなたに、でよろしいのですか?」

 

 おおきく頷いた黒虎が、一言一言、確かめるようにして逆に問いかける。

 おそらくは、そこは父と黒虎の交わりを見たこその、そのときの行為を知った上での、武之進の思いであろう。

 念入りに確認をする黒虎の、そして話をする武之進の褌の前袋も、ともに大きな盛り上がりを見せている。

 

「この世に生まれて、まず私は己の手で己の逸物を扱き、男としての精を放つ心地よさ、楽しさ、喜びを知った。

 元服の後には、女性との床もなんとか経験出来た。

 だがまだ、同じ男とのそれは経験しておらぬ。

 男として生を受けた己が、父上も味わっていた男の逸物を受ける喜びを知らずして逝くのは、あまりにも悲しく思えるのじゃ。

 我の命の灯火は、今宵かなり揺れることとなるのであろう。

 せめてその前に、おぬしの情けを我にくれぬか。

 

 初めてのことで恐ろしくも怖くもあるのだが、あの日、喜びの声を上げていた父上の顔が、声が、私の頭の中で何度もまざまざと蘇るのじゃ。

 あのときのことを思い、もう幾度己の汁を放ったのか、数え切れないほどなのだ。

 あの不満足でもあり、大層な礼を欠いたおなごとのそれよりも、私にとっては父とお主の交合が、父上が持たせてくれたあの錦絵が、己を慰めるときに思うものだったのじゃ」

 

 自らを奮い立たせるため、お家復興のことを幾度も声に出していた若者ではあった。

 その裏で、この少年は今日訪れるかも知れぬ自らの死をも覚悟している。

 黒虎ですらそう思わざるを得ない、武之進の叫びであった。

 

 背中から抱いていた武之進を膝から下ろし、正面に向き直る黒虎。

 

「これから2人で成すことは、男が男としてこの世に生まれての喜びの中で、私が武之進様に与えることが出来る数少ないことの一つでございましょう。

 武之進様のお覚悟、この黒虎、しかと受け止めました。

 ですが、武之進様の今のお身体では、かなりの無理が生じるやもと思われますが、本当によろしいのですか?」

 

 虎獣人の言葉は、同年齢の者と比しても小柄な武之進を心配してのことであった。

 黒虎のそれの巨大さ、長大さは、たとえ同族のものであっても躊躇うほどの業物(わざもの)なのである。

 

「初めてのときは相当の痛みを伴うと、兄上からも聞いておる。

 同じく、おなごの破瓜もまた、痛みを伴うものであったのだろう。そこに思いを至れなかったのは、あの夜の私の、実に情けないところであった。

 それに耐えずして、戌亥家の復興などと言うのもおこがましいことであろうよ。

 たとえそれがどれほどの痛みであろうとも、耐えてみせる。

 だから、だから、お主の逸物を我の尻にくれ」

 

 この若者は、今宵一夜をこの洞窟で過ごす意味を分かった上で、この悲壮とも言える決意を自分に伝えて来ている。

 この言葉から逃げてはならぬ。

 源三朗から命じられた後見として、いや、この若者の成長を見つめてきた1人の男として、けして疎かな答えをしてはならぬ問いであった。

 

「武之進様の思い、この黒虎、しかと受け止めさせていただくことといたしましょう。

 拙者、一人の男として、謹んで、武之進様の初尻を割らせていただきます」

 

 真剣に返事をする黒虎。

 

 夜明けまでの時間、2人の最後となるかもしれぬその最後の貴重な時間を、どう過ごすかがここに決まったのだ。

 

 同時に立ち上がりするすると褌を解いた2人が、互いの生まれたままの姿で正面に向き合った。

 その目は互いの瞳を見つめ、奥底に蠢く情欲をも見通すかのようだ。