おやっさん

その3

 

「……誰にも言えんかったんだよな……。ごめんな」

 おやっさんがつぶやいた。

 

 その瞬間、どこかで堰き止められていた自分の感情が張り巡らした心の堤防を越え、一気に押し寄せてくるさまを感じていた。

 俺の身勝手な行動が、何一つ悪いわけでは無いおやっさんに「ごめん」と言わせてしまったこと、そこに思いいたった大人としてのおやっさんの存在に気付いた俺は、一気に流れ出した涙と一緒に畳に頭を擦りつけていた。

 

「ごめんなさいっ!

 俺が悪いんです。おやっさんは何にも謝ることなんてなくて、ただただ俺が汚くて、いやらしくて、どうしようもなくて。

 気持ち悪かったでしょう?

 ごめんなさい、ごめんなさい。

 何を言っても赦してもらえるとは思ってないけど、本当にごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 もう、涙と鼻水とでぐちゃぐちゃになりながら、とにかく謝っていた。

 

 土下座、というわけでは無かったけど、頭を抱え込んだまま俺は突っ伏してしまう。

 顔を上げることすら出来なかった。

 おやっさんがこの場を先に出ていってくれれば、俺も逃げれるのに、とか、この後に及んでも、身勝手なことばかり考えていた。

 

 顔も上げれず、声も出せず、俺はただ泣きじゃくっていた。

 

「イッコだけ聞いていいか?」

 おやっさんの声は、もう落ち着いていた。

 

 顔を上げないまま、俺は頷いた。

 

「お前、ただムラムラしてて、それでお互いちょっと酔ってたからやっちまったのか?

 それとも、俺のことを前から好いてくれてたのか?

 それだけ聞かせてくれ」

 

 残酷な質問だった。

 でも、正直に答えないといけないと思った。

 

「最初から好きでした。でも言えなかったし、言っちゃいけないと思ってました。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 やっぱり途中からまた涙が溢れ出した。

 言葉に出したらダメだと思っていたことを自分の耳で聞いたとき、もう本当に自分はダメだと思った。

 これが単純に男女の間なら、いや、男同士でも、ただの犯罪だし、俺は性的な暴力を行った側の人間だった。

 

 

 気配でおやっさんが近づいてきてたのは分かってた。

 殴られるのか、びんたを張られるのか、どっちでもいいから、なにかケリをつけてほしいと思う俺もいた。

 

 おやっさんが俺の両腕に手を回し、ぐっと上半身を引き上げる。

 俺の泣きじゃくってぐずぐずになった顔を、おやっさんが正面から見ていた。

 2人とも膝立ちになり、正面から向かい合ってた。

 

「1発だけな」

 そう言ったおやっさんがグーを握ると、少しだけ中指の第2関節を前に出す。

 突き出た関節の先端で、額をごつんとやられる。

 

 痛かった。

 痛かったけど、泣くほどの痛みじゃない。

「痛てっ!」て軽く叫ぶぐらいの痛みだった。

 

 殴られた額より、心の方が痛かったんだと思う。

 おやっさんが俺の身体を引き寄せ、ぐっと抱きしめてくる。膝立ちの上半身を支え合うと、不思議に体勢が安定した。

 互いに首筋に顎を埋める形。

 2人とも下着だけの姿。

 俺はおやっさんの後ろの壁を見つめていた。

 視線が合わないことが、ありがたかった。

 

 

「もうこれでお前が謝るのは終わりだ。いいな、約束だ。

 そして、今から俺がお前に説教をする。

 たぶん、長くなる。

 俺もこっぱずかしいから、お前の顔見たまんまでは話しきらん。

 歌のセリフじゃ無いが、お前はこのまま黙って聞け」

 

 俺はもう何も出来なくて、おやっさんに抱かれたまま、おやっさんを抱いたまま、おやっさんの耳元で小さく「うん」とだけ、声を出した。

 

「まず最初に言っておく。

 大人をなめるんじゃない、酒屋をなめるんじゃない、そして俺をなめるんじゃない。

 お前の年頃で大学まで行ってて、俺みたいなちんけな商売してる奴を軽く見てるのかもしれん、見てないのかもしれん。俺は超能力者じゃないので、お前の本心は分からん。

 ただ、俺は少なくともこの2年間、お前を信頼してきたし、信頼してるってのも伝えてきたつもりだ。

 

 お前も納品してて分かってるとばかり思ってたけど、俺達が世話になってる、世話してる店には色んな人がいるだろう。

 ホモバーやハプニングバーもあれば、女装したスタッフがお客さん楽しませてる店もある。外国の姉ちゃんやニューハーフの姉ちゃん達が嬌声上げてる店もある。

 街全体で見ればおかしな店もあるかもしれんが、そんなところはちゃんとした領収書しか出さないうちみたいなところとは、最初っから取引せんだろう。

 そんな真面目な方の取引先の飲み屋の中で、俺が商売継いだときからずっと続いてる店はもう6件しかないんだ。

 後の店は全部俺が商売やり始めた後に出来た店なんだぜ。

 そんな飲み屋の連中を、何十年も見て来た俺が、この俺がだぞ?

 お前がホモだゲイだ、男が好きだからって、どうのこうの言うと思ってたんか?

 それこそ、この俺様をなめるんじゃない。

 お前より30以上も年取ってるってのは、お前が生きてきた倍以上、色んな人を、人生を見て来てるんだよ。

 どうしようもなくなって首吊ったマスターもいたし、店の金持って逃げてった奴の話も何度も何度も見てもきたし聞いてもきた。

 それでもみんなこの町で商売続けてんのは、そこに飲みに来る人がいて、食べにくる人がいるからなんだよ。

 金、金、金、って言う奴もそりゃいるさ。

 でも、みんながみんな、そうじゃ無い。

 とにかくお客さんと一緒に飲んで騒いで、しゃべって歌って、純粋に「それ」が好きで続けている奴らがいっぱいいるんだ。

 そしてそこにいる「人」には、本当に色んな「人」がいる。

 そいつが「誰」を「どう」好きになろうが、どうでもいいことなんだよ。

 とにかく今ここにそいつが「いる」ってことが一番で、俺達の商売はまずそこを大事にしないと絶対に続かないんだ。

 

 たぶんお前は俺の掛け回収が甘いとか、内心思ってると思う。

 俺もそう思う。

 でもな、この2年、俺も酒蔵も卸し元も、飲み屋のオーナーも、働いてるマスターもママも、姉ちゃんも兄ちゃんも、おかまさんもニューハーフの姉ちゃんも、みんなしてな、みんな一緒にきついんだよ。

 俺は幸い爺さんの代からのこの店も家もある。今は俺と、お前の生活を半分だけ支えていければ、どうにか今日のおまんまを喰って、明日を迎えることが出来る。

 これまで10年続けてきた店には10年分の、3日しかやってない店にも3日分の、互いにやりとりしてきた恩と縁があるんだよ。

 俺はそれをこんなちっぽけなウイルスのせいで切りたく無いし、切らせたく無い。

 病気で人が死ぬのは仕方ないことかもしれん。

 でもな、でもな、人が人を死に向かって追いやっちまうことっても、確かにあるんだよ。

 俺は自分が「極力そうしなかった」「人を追い詰めることをなるべくしないようにしてきた」ってことだけを誇りにして生きていきたいんだよ」

 

 

 顔は見えないけど、おやっさんも泣きながら話してることは、その声の響きと、かすかに揺れる全身の蠢きから伝わってきてた。

 俺も聞きながら涙が止まらなかった。

 でも、俺の心は、先ほど氷のように冷え切ってしまっていた俺の心は、まるで冬場に大きな風呂で全身を伸ばしたときのような、穏やかな暖かみを感じ始めていた。

 

 

「お前がうすうす学校に馴染んでないみたいなのも、この店を卒業した後も手伝おうと考えてくれてるのも分かってたつもりだ。

 だからこそ、経理も一緒にやっていきたかったし、店を一緒にもり立てていきたかった。

 

 お前には俺に子どもがいない理由も何も言ってなかったと思うが、うちのは結婚して3年しないうちに子宮筋腫が見つかって、手術で摘出したんだよ。

 養子をもらおうかって話しもしてたが、2人とも思い切りがつかないまま年取っちまった。

 病気のことが分かってから、俺達は2人ともセックスを求めなくなってた。

 何も我慢してたってわけじゃない。

 俺は「セックスの相手としてのあいつ」が好きだったんじゃなく、「あいつそのもの」が好きだったってのがよく分かって、かえって仲良くなったと思ってる。

 一緒に飯食って、馬鹿話して、一緒に商売して。

 それが楽しかったし、嬉しかったし、きついときもあったけど、なんとかやってこれてたんだよ。

 

 うちのが死んだとき、俺、三ヶ月ぐらいぼーっとしちまってた。

 それでもとにかく喰ってかなきゃならん。でも1人じゃなんも出来ん。

 初めてバイトの募集かけてどんな奴が来るんだと思ってたら、お前が来た。

 ぶっきらぼうな感じもしたが、今風のへらへらしてる感じの若い奴には俺もどう当たっていいか分からんかったし、俺はお前みたいなのとが合うのかもしれんと思って採用した。

 一緒にやってくうち、ああ、こいつはうちの店のことを真剣に考えてくれてるなって思ったことが何回もあった。

 一つ一つは思い出せんが、そのときそのときは、本心からそう思ったんだ。

 だんだんお前が年の離れた弟か、なついてくれてる甥っ子みたいに思えてきたのもあったのかもしれん。

 ただ、俺は俺で、自分の商売柄、世の中に色んな奴がいるってのも知ってると思ってたくせに、お前も俺もその「色んな奴」の内の1人なんだってことを完全に頭から追いやってしまってた。

 お前との話の中で、軽口で女の子のこととか、色々言っちまってたと思う。

 それは本当に申し訳なかった。

 雇い主から軽口で言われて、バイトのお前が真剣に否定出来るわけないだろうし、曖昧に頷くしかないような話を、俺はたくさんお前にしてきちまってたんだと思う。

 もしお前が女子のバイト生だったら、俺の方から変な雰囲気にしちゃいかん、妙な空気にしちゃいかんと、気をつかってたと思う。

 ただ「色んな奴がいる」って分かってたつもりになってた俺が、お前にそこを確かめもせず、同じような感覚だろうと勝手に思い込み、お前に俺にモノを言えない空気を感じさせてしまってたのは俺の責任だし、それに先に気付かなきゃいけなかったのも大人である俺の役目だ。

 お前も今年は二十歳になるが、それでも大人としての経験だけは俺の方が上だ。

 その点はもういっぺん謝る。

 すまん。

 本当に済まなかった

 だからお前ももう泣くな。

 

 

 さすがに目が覚めたら俺のをお前がしゃぶってるのが分かって、びっくりした。

 びっくりはしたんだが、不思議に気持ち悪い、とは思わなかった。

 それがなんでかは、俺には分からん。やられたのがお前だったから気持ち悪いと思わなかったのかもしれんし、もしかするとお前で無くても赦してたのかもしれん。

 実際、俺も気持ちよくてイッちまったわけで、寸前に目が覚めたってわけでもなかったし、ホントに男がダメなら気付いた時点で萎えちまってたと思う。

 ……正直、気持ちよかったっていうのはあるし、人にやってもらうことそのものが久しぶりだったしな。

 ……、うん、やっぱり今考えても、気持ちよかった。

 ありがとう、というべきかな……。

 

 だからもう、謝るな。

 本当に、もう、謝るな。

 俺が言いたいのは、これだけだ」

 

 

 長い説教、だったと思う。

 それでも、あっと言う間だった。

 ぼろぼろ泣いてた俺は、おやっさんの話にもっとたくさんの涙を流してた。

 俺には泣くなと言いながら、おやっさんもまた泣いてたと思う。

 おやっさん、本当に気持ち悪くないのかは分かんなかったけど、とにかく俺をずっと抱いてくれていた。

 ぎゅっと抱きしめていてくれた。

 

 

 今はおやっさんのアルコールも、まだ全部抜けては無いだろう。

 もしかして夜が明ければ、違う気持ちになってしまうかもしれない。

 でもでも、今だけはこの部屋を追い出されなくて済みそうだった。

 1人のアパートに、とぼとぼと帰らなくてよさそうだった。

 

 

「そろそろ顔見ていいか?」

 おやっさんの言葉に、互いを支え合いながらゆっくりと身体を離した。

 お互いの泣きはらした顔には涙の後が残ってる。

 おやっさん、手の平の手首に近い部分で俺の顔をぬぐった後、自分の顔もごしごしと擦る。

 2人とも目は赤く腫らしたままだったけど、さっきまで感じていた緊張や強ばりは、もうなくなっていた。

 

「お前、勃ってんのか?」

 気付いたら、また俺は勃起していた。

 抱き合っていた間、ずっと股間に感じていたおやっさんの逸物の存在感とその熱く滾った体温と。密着した肉体から立ち昇る体臭と先ほどの性臭の名残、それに混じったアルコールの匂いに、俺はどこか酔ったような気持ちになっていた。

 

「へへ、若い証拠ですよ」

 おやっさんの前で泣きじゃくってから、初めて、俺はまともな口をきいた気がする。

 

「へっ、それでこそお前さんだよ。

 なんだ、俺に扱いてイかせてほしいんか?

 明日の配達、お前が全部やってくれるんなら、特別に手でやってやってもいいぞ。

 さすがに口でやるのはまだ無理だが、手なら別にな……」

 

「おやっさん、それ、セクハラ&パワハラです」

 

「馬鹿、ハラスメントじゃねえぞ、年上の俺様が、お前を純粋に喜ばせてやろうってんだ」

 おやっさんもまた、軽口で返してくれる。

 ホントのセクハラの場面だったら、これもまた犯罪ものの発言だったけど。

 

 俺はまた、泣いてしまってた。

 いや、さっきまでとは違う涙だ。

 半分嬉しくて、半分ほっとして、もう半分、どこかまだ、寂しくて。

 

 泣いてしまった自分が妙に恥ずかしく、またおやっさんを抱きしめてしまう。

 おやっさんが背中に回した手に力を入れてくれてることが、すごく嬉しい。

 キスなんて贅沢なことは「今」は考えられないけど、でも、俺は、とにかく目の前のおやっさんが、ただただ黙って俺の側にいてくれてること、そのことだけが、本当に、本当に嬉しかった。

 

 もう夜は明けていた。

 俺は、今日もバイトを続けていけるし、明日もおやっさんとも目を見て話すことが出来るんだ、と思えた。

 おやっさんの軽口に小さく期待した俺もいたけど、それはたぶんまだまだ先の話。

 でも、今だけは、2人がもう一度眠りにつくだろう、それまでのほんの少しの時間だけは、全身で感じてるおやっさんの温もりとどこか懐かしい匂いに包まれていたいと思っていた。