里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農夫の性の記録

第一部

少年期

 

三 男になるということ

 

 私がセンズリを覚えたのは、小学校五年生の梅雨時、十一歳になる年のことだった。小五といっても、三月、しかもお彼岸生まれの私は、精通時、十歳になってまだ幾ばくも経っていなかった。改めて数えてみると、ほんの十歳三ヶ月に過ぎなかったことになる。十歳三ヶ月といったら、四月生まれの級友にとっては、小四の夏休み前に相当する。

 そう考えると、私は本当に早熟な子供だったといえるだろう。級友たちは、まだ小指の先ほどの生殖器しかぶらさげていない中、その月齢にして、私の陰毛は夜目にもそれと判るほどだった。しかも、既に包皮の後退も始まっていて、萎えた状態でも亀頭の先が顔を出しかけていた。もっともこれは早剥けにこだわった祖父の、入浴時の指導の賜物でもあった。

 父の父、つまり父方の祖父は幼少時から、私に性器の皮の剥き方、包皮を剥いて性器を洗う習慣の大切さを説いた。祖父の早剥けへのこだわりは、一種異常な程で、一緒に入浴するたび、私に同じ指導をするのが常であった。私にセンズリを仕込んだのは、実はこの祖父であった。

 祖父は当時六十五歳。日頃から激しい農作業で消耗していたから、贅肉は少なく細身な体型をしていたが、戦後の開拓で鍛えた身体は筋肉質で実に逞しかった。しかも、太ももや脛は濃い体毛で覆われていた。この四肢の毛が濃いという特質は、父、そして私にも引き継がれた。

 祖父から引きついだのは外見上の特質だけではなかった。早熟という性質も、祖父の家系であるらしく、祖父によれば、私の父も早熟だったらしい。祖父は私や父以上に早熟だったというから、毛深さに加え、第二次成長期の早さも、祖父からの遺伝であろう。

 

 そんな私が、自らの下半身への発毛に気づいたのは、小四の一月。新年が開け、再び学校が始まって間もなくのことだった。その日はちょうど小正月にあたっていた。

 小正月とは、一月一日から七草粥を食べる七日までの大正月に対し、一月十四、十五日のことをいう。この二日間、地方では多くの伝統行事が行われる。代表的なものは「どんど焼き」だろう。地域によっては三九郎ということもあるらしい。私の村でも集落ごとに「どんど焼き」が行われる。また、養蚕の衰退とともに次第に廃れていったが、「もの作り」を行っていた家庭もある。

 当時は我が家でも「もの作り」をしていた。祖父と祖母が健在だった頃、我が家では、「どんど焼き」は祖父の、「もの作り」は祖母の役割であった。これは今でも同じで、祖父、そして父が亡くなってからは、私が「どんど焼き」を担当してきた。

 しかし、「もの作り」は、我が家でも取りやめてから、既に三十年以上になる。というのも、「もの作り」をするには、米粉を練って作る繭玉をぶら下げるための枝を、山から取ってこなければならない。しかし、真冬の雪のある時期に、山に入るのは、なかなか骨が折れるのだ。

 これが「もの作り」だけが衰退していった最大の理由だろう。しかも、養蚕は廃れて久しく、各家庭で手間暇をかけて実施する必要性も薄れてしまった。

 しかし、繭玉を作る作業は楽しいものだし、繭玉をぶら下げた「もの作り」は見栄えもする。そのため、保育園などで実施してくれることが多く、廃れた風習なのに、なぜかほとんどの子どもが経験したことがあるという、なんとも不思議な年中行事になっている。

 いずれにせよ、私が子どもだった頃には、どこでも盛んだった風習で、我が家の場合、小正月の数日前に祖母が米粉を熱湯で捏ねて「もの作り」の繭玉を作ってくれた。これを木の枝にさして鴨井などに飾るのである。

 そして、その繭玉を「どんど焼き」の火で焼いて食べると病気をしないと言い伝えられていた。つまり、「もの作り」と「どんど焼き」は、もともと関連しあった風習だったのだ。そのうちの片方が廃れてしまったから、今では年末についた餅を焼いて食べるようになった。また、「どんど焼き」では、正月三が日に仕上げた書き初めを一緒に燃やす地域もある。燃えかすが高く舞い上がると習字の腕が上がるとも言い伝えられている。

 この「どんど焼き」、一月十五日の宵の口から始まるのだが、巨大な焚火をするのと同じだから、体中が煙でいぶされる。最後は煤と灰だらけになって終わるのだ。だから、焼いた繭玉を食べて帰宅すると、そのまま風呂に直行することになるのが常だった。

 私は普段は祖父と入浴していた。しかし、その日は祖父は「どんど焼き」の後片付け、そして、近所の仲間たちとの一杯があるので、まだ帰宅していなかった。娯楽の少ない田舎百姓の唯一の楽しみ、ご苦労さん会である。

 当然、私は一人で入浴することとなった。一人で入浴すれば、普段よりもしげしげと股間の辺りを見つめることになるのは必然であろう。

 私がそこに見たのは、長さ僅かに数㎜、ほんの数十本のか細い陰毛であった。それは目をこらして見つめなければ、とても気づかない程の心許なさで、陰茎の付け根に遠慮がちに存在していた。

 しかし、それは、九歳の私が衝撃を受けるのに、充分過ぎる発見だった。九歳といえば、級友のほとんどが、まだ幼児のようなものである。そんな中、私の肉体だけが大人になろうとしていた。

 発毛に気づいたときの、喜びと驚き。そして気恥ずかしさ。

「俺も爺ちゃんみたいに、毛むくじゃらな足になるんだろうか。チンボの皮がきれいに剥けて、どどめ色に変わるんだろうか。」

 大人の肉体を想像する時、真っ先に頭に浮かぶのは、しばしば一緒に入浴していた祖父の肉体だった。

 気づくと私の股関は硬くなっていた。友の間で「膨張」と言われる現象だったが、祖父のことを考えると、なぜ股間が硬くなるのか訳がわからない。当時は不思議さしか感じていなかったが、やはり、私は先天的な同性愛者だったのだろう。

 

 冬が過ぎた。その年は三八豪雪と呼ばれた大雪の年で、日本海側の平野部では大被害が出ていた。山越えの降雪が中心の私の住む地域も、昭和二十年以来の大雪に見舞われたので、その冬のことはよく覚えている。

 一月、二月はとにかく寒い日が続いたが、三月後半からの春の訪れは順調で、むしろ暖かな日が多かったくらいだったと記憶している。当然、雪解けも順調で、日に日に強くなる日射しに、厚く積もった雪は見る見る厚みを失っていく。

 お彼岸過ぎには、あちこちで地面が少しずつ顔を覗かせ始めていた。そんな頃、私は十歳の誕生日を迎えた。まるで、それが合図だったかのように、私の性器を覆うパシャパシャの毛は、みるみるうちに密度を増し、それが覆う範囲も一気に広がって行った。

 急速に成熟していく自らの肉体。私は、幼い頃から、祖父や父と一緒に入浴する中で、祖父や父の、それこそ臍にまで続くのではないかという性毛、そして、見事に露茎した性器をみて育った。だから、体毛については、やがて、自分も二人のようになるだろうと想像できた。

 一方、すべての男のチンボの皮が剥けるわけではないことも知っていた。それが私の不安を煽った。自分のチンボがどのように成長していくのかには、まったくといってよいほど自信が持てなかった。

「祖父のようなチンボになりたい。」

 そう願う気持ちは、殊の外強かったし、そうならなかった時の不安も、またしかりだった。この感情にも同性愛という性癖が深層心理に横たわっていたように思う。

 人は誰でも大人になる。それは当たり前のことだと認識しつつ、自分もそうなるのだとは、にわかには信じがたい。戸惑いと混乱が私を包んだ。

 そんな中、私がとりあえずしたことといえば、

「爺ちゃん、俺、今日から風呂は一人で入るよ。」

 そう宣言することだけだった。

 男なら誰しもがそうなのだが、発毛を迎えたら、やがて、自らをしごき、射精に至る行為を覚えていく。しかし、性のめざめから自慰に至るまでの過程は、個人ごと大きく異なるものだ。

 実は初めての射精がセンズリという者は意外と多い。そういう輩は、夢精を生涯経験しないこともある。私は身体の成長が人一倍早かったわりに、性知識は少なかったから、センズリを覚える前に射精を経験していた。

 

 私の初めての射精、つまり、精通に至るまでの顛末を語れば、次のようになる。

 三月、十歳の誕生日を境に、私の性的成長は急速に進んだ。やがて、桜の咲く頃、それはこの辺りでは、例年四月下旬であるのだが、その年の桜が早かったのか、遅かったのかは記憶がない。確かなのは、丁度、桜がほころび、そろそろ盛りを迎えようとしていた頃だったということだ。私は、ついに男になった。

 つまり、私は生まれて初めて射精を経験したのだ。しかし、自ら快感を求める、あの行為に及んだわけではなかった。その行為に及ぶも何も、朝、目覚めた時にはすべてが終わっていたのだ。そう、私は夢精したのだった。

 とはいえ、きちんとした性知識もなく、また何の情報源もない開拓地に育つ私は、肉体以外は驚くほど幼いままだった。射精の快感と下着を汚す不快感の中で目覚めた朝でも、正直、私には何が起きたのかさえわからない。

 かといって、元来の楽天的な性格も手伝ってか、自分が悪い病気にかかったのではないかと思い悩むようなこともなかった。そもそも、そんな上等な反応が、野育ちの野暮な輩にあるはずもない。結局、私が取った手段は、単に「放置」であった。簡単にいうと、そのまま洗濯に出したのである。

 学校では性教育があり、友人や先輩、インターネットからの性情報も溢れている昨今なら、あり得ない行為といえるだろうが、ある意味で無知とは恐ろしいものだ。何のためらいもなく、そうし続けていたのだから、我ながら恐れ入る。

 

 先述したように、既に新年が開けた頃から、急に背が伸び始め、身体つきも変わり始めていた。だから、

「今日から一人で風呂に入る。」

 という、私の言葉を聞いた時、祖父も父も、そして、家族さえもが、それとなく私の真意を悟ったらしい。そのせいか、突然の宣言にもかかわらず、特に何かを問いただされたという記憶もない。

 自分も早熟だった祖父は、一人で入浴するようになった孫をみて、

「そうか・・・。チンボを擦ることを覚えたんだな。」

 と直感したという。それは半分正解で、半分不正解であったのだが・・・。

 祖父自身の経験に照らせば、それはごく自然な発想だった。なにしろ、祖父は、初めての射精が、先輩からやり方を教わったセンズリだったという強者である。そんな祖父であったから、射精を経験した男が、センズリさえ知らないとは、想像さえできなかったという。

 ましてや、私の早熟ぶりを目のあたりにしたら、そう考えない方が不思議である。しかし、実際の私ときたら、発毛も射精も既に経験しているのに、自らを慰める術だけをしらないというバランスの悪さ。外見との乖離はあまりにも大きかった。

 祖父にとって、精通とはセンズリを覚えることであり、大人になることそのものだった。祖父にしたら、私の無知さが不思議でならなかったことだろう。

 

 二人が特別な関係になった後、私は、祖父の性体験、それは性へのめざめだったり、男とのセックス体験だったりしたのだが、それらを微に入り細に入り聞き出した。それが私の性的興奮を高めるからだ。早い話、ズリネタである。

 祖父は、小学四年の冬には精通を迎えたというから、私以上に早熟だったのかもしれない。もっとも私は三月末の生まれ、祖父は十月初旬生まれだから、甲乙つけがたいと言えなくもない。もしかしたら、私の方が早熟だった可能性すらある。

 いずれにせよ、祖父の初めての射精はセンズリだった。その始まりは精通に先立つこと半年前、夏休みのある日のことだったという。

 

 祖父は開拓地ではなく、本村で生まれ育ったから、自らのチンボを擦ることを喜々として教えてくれる年長者が、近所に常にいたのだ。

 祖父の場合、既に農家の労働力として農作業に専念していた近所の年長者が、センズリを実演してくれたという。そして、教わった通りに、その夜、布団の中で自分も試してみたというわけだ。しかし、残念なことに、快感こそあったものの、射精には至らなかった。さすがに、まだ幼な過ぎたのだ。しかし、男なら誰もがそうであるように、一度知ったその行為の魔力からは逃れられない。祖父はその悪習のとりことなった。

「センズリはやり過ぎるとバカになる。」

 と言われていた時代である。快感と不安のせめぎあいの中、多い日は五~六回も行為に及んでいたというから、驚くべき小学四年生である。

 このように性成熟より、性行動が先行していたのが祖父である。一方、私は性成熟が、性行動を上回っていた。

 ところで私が性知識に疎かったのには、私が開拓地の第一世代だったことも少なからず影響している。私の父親は、開拓地に祖父とともに最も早く入植し、開拓地で最も早く所帯を持った男だった。

 つまり、私が開拓地で育った世代としては、一番年長だったのである。何のことはない。興味がなかったわけでなく、悪習を教えてくれる先輩が、一人としてはいなかっただけの話である。

 

 ここで再び、話題を私の件に戻そう。当の私は、初めての射精を経験してから、自慰を覚えるまでの数ヶ月間、定期的に夢精を繰り返すばかりであった。

 同世代の誰よりも早く射精を経験しながら、意識下での意図的な放精がもたらす、あの快感も、放出した後の、あの満足と虚脱の混じった気だるさも、まるで知らないままだったわけだ。結果、精液で汚れた下着をそのまま洗濯に出すことを繰り返すことになった。

 その無知さが、家族が私の夢精に気づくという、思春期の男子にとって、一般的にあまり喜ばしくない結末を生むことになるのだが、それが喜ばしいか喜ばしくないのかさえ、考えようともしないのが私だった。

 そんなだったから、遅かれ早かれ、私の夢精は家族のもとに曝される運命だったようにも思う。

 家族にしてみたら、気づいてしまった以上、放置はできない。何とかしなければ、精液のついた下着を洗わされ続けることになる。洗濯をする側の身にしたら、それはあまり愉快な話とはいえないだろう。

 

 当時、洗濯は祖母の役割だった。もともとあまり身体の丈夫な人ではなかったことに加え、両親と祖父は、朝早くから遅くまで農作業に追われていたから、三人が畑に出ている間に洗濯や掃除など、祖母にできる家事を引き受けていたのだ。

 明らかに男の精の証が染み込んだ、下着が洗濯籠に投げ込まれている。しかも、定期的に同じことが起こる。

 そんなことが続けば、誰だってそれが何を意味するのかはわかるだろう。祖母もそれは同じである。まさか祖父や父がそうするとは思えない。残った男といったら、私しかいない。その時点ですべてを悟ろうというものだ。しかし、気づいたからといって、女である祖母に何ができただろうか。できることなど、あるはずがなかった。

 祖母が取った手段は簡単だった。一番身近な男、つまり自分の夫、そう、祖父に相談することだった。こうして祖父は、無知な孫、すなわち私にそれが起こった際の処理や対応を教えるよう託された。その結果が、

「雄吉。今日は久しぶりに爺ちゃんと一緒に風呂に入ろう。」

 という祖父の提案であった。

 誘っておいて連れない態度を取られるのは辛いものである。この提案に至るまでには、祖父なりの葛藤が多少なりともあったのだろう。実際、祖父のようすからは、迷いながらの言葉であったことが容易に見て取れた。

 とはいえ、入浴時は、お互い裸になるのが当たり前。その手の話のきっかけを作るには、まさにおあつらえ向きの場面設定だったと言えるだろう。

 

 しかし、実際に半年ぶりに一緒に入浴してみると、そこには祖父の記憶の中にある、幼い孫の姿はなかった。

 黒々とした陰毛、反転が始まり、先端が顔を覗かせている陰茎、子供とは明らかに違う身体つき。ホモ、しかも若い男が好きな祖父にとって、それは眩しすぎた。祖父の予想以上に、私は男になっていたのである。

 ついに祖父は欲情した。それは本能だった。

 私は小学校六年の時に、既に高校生と間違われるくらいの体格や顔つきだったから、祖父は、私を一人の男、いや、そんな生易しいものではなかろう。一匹の雄として認識していたのかもしれない。

 いずれにせよ、祖父との入浴に対する、私の返答はごく簡潔なものだった。

「わかった。いいよ。」

 たったこれだけである。私があまりにあっさりと同意したので、逆に祖父の方が面食らって、

「本当にいいのか?」

 と聞き直す始末であった。

「やだよ。」

 祖父は内心で、きっとそんな一言で片づけられるのが関の山だと思っていたのだろう。

 もちろん私にだって、大人へと変化し始めた肉体や性器をさらけ出すことに対する、年齢相応の気恥ずかしさはあった。しかし、そもそも私は生まれついての同性愛者なのだ。

 そんな私にとって気恥ずかしさなど大した問題ではなかった。むしろ、祖父の筋肉質な肉体や濃い陰毛、脛毛への興味を抑えることなどできようか。ズル剥けで、まるで松茸のような生殖器、それらをもう一度この目でみたい。身体の奥から湧きあがってくる、その衝動を抑えることなどできはしなかった。

 半年前、性器への発毛が始まると同時に、私は祖父との入浴を自ら拒絶した。その手前、改めて自分から一緒に入浴したいと言い出すのには、さすがに抵抗感がある。しかし、祖父から誘ってくれるなら、断る理由などあるはずがない。

 ズル剥けの陰茎、白毛の混じった臍まで届きそうな陰毛、濃い臑毛と腕毛、そして贅肉の少ない筋肉質な肉体。それを思い出すだけで、私の陰茎は勃起してしまう。

「なぜ俺は、爺ちゃん、いや爺ちゃんだけじゃない。校長先生や近所の農家の髭だらけの○○さん、年輩の男の人のことを考えるとチンボが硬くなるのだろう?」

 当時の私には理解できなかったが、今なら、その問いには簡単に答えることができる。

 それは、少年時代から今に至るまで、私が一貫して熟年以上の世代、それも細身で毛深い男に発情するという、ホモの中でも極めて少数派の性癖の持ち主だったからである。

 ホモの世界で、それをふけ専、汚れ専と呼ぶことを知るのは、二十年以上も後の話である。

 

 その日の夕方、畑仕事を終えた祖父は私に声をかけた。

「爺ちゃんは先に入ってるぞ。雄吉も一緒に入るんだろう?」

 そう言い残すと、私の返事を待たずに、祖父は風呂場へと向かった。これから孫への、ある意味、性教育をしなければならない。正直、祖父にも戸惑いがあったのだと思うし、緊張だってしていたことだろう。

「この段階では、やましい気持ちなど微塵もなかった・・・。」

 後に祖父から聞いた言葉である。わずか数十分後、そんな祖父を獣に変えたのは、直接的には年齢の割りに成熟し過ぎた、私の肉体と生殖器だった。しかし、実際は、内面で祖父の肉体に欲情していた私から発散される、雄の匂いが原因だったのではなかろうか。

 私の方はどうだったかといえば、恥ずかしさがなかったと言えば嘘になる。しかし、祖父の肉体やチンボをみたいという本能は、簡単に羞恥心を凌駕した。

 数十分後、祖父が孫に欲情したのも本能だが、その瞬間、祖父に欲情していた私の感情も、また本能である。結局は、私自身が、祖父とそうなることを、強く望んでいたということなのかもしれない。

 

 祖父が風呂の設置されている、母屋の横の小屋に消えると、私は吸い寄せられるように、その後を追った。

 祖父は脱衣場で既に服を脱ぎ、越中褌一枚になっていた。脱衣場といっても小屋の一部が板の間になっていて、それらしくなっているだけである。祖父は迷うことなく越中褌の紐を緩め、脱ぎ捨てた。そして、無造作にそれを丸めると、脱いだ衣服の上に、まるで投げ出すように置いた。祖父の逸物が私の眼前に曝された。それは夏場特有の弛緩した状態であった。

 一日中炎天下で肉体労働をした祖父の身体は汗にまみれ、ズボンと褌で覆われた陰部は蒸れている。祖父からは汗と体臭の混じった、強い男の香りがした。

 しかし、祖父は一切構わず、前を隠そうともしない。そして、それが当たり前であるかのように、逸物をブラブラさせながら、浴室の引き戸を開け、浴室の中に入って行った。

 浴室と言っても、現在のような上等なイメージで想像されると、その場の空気感は伝わらないだろう。当時の我が家の浴室というのは、ユニットバスどころか、タイル張りでさえなく、木造小屋の内部の一部を板壁で区切り、床にコンクリートを流し込んで固め、簀の子を敷いただけの代物であった。

 祖父の、余りの堂々した態度に私は圧倒された。祖父に男らしさを感じた。そして、それは脱衣所に残された祖父の残り香と混じり合い、私に怪しいまでの胸の高鳴りを覚えさせた。

 

 早く爺ちゃんの隣に行きたい。並んで湯船に入り、肌と肌をそっと触れさせたい。当時の私が、そこまで考えていたかの記憶は定かでないが、私が大急ぎで服を脱いだことだけは確かである。

 しかし、そこは六十代半ばの祖父とは違う。祖父のように「堂々と」とは行かなかった。発毛して以来、家族に裸を見られるのは初めてである。恥ずかしさでコソコソ前を隠しながら、浴室に入って行った。

 祖父は私の気持ちに気付いてか気付かないでか、五右衛門風呂に浸かったまま、知らんふりを決め込んでいた。

 祖父が右に寄って隙間を開けてくれた。自分の隣に入れ・・・という意味だろう。私は前を隠しながら、祖父の隣に身体を沈めた。祖父は何か言おうとしたが、そのまま言葉を飲み込んだ。

 

 お湯はごく温かったが、やはり、夏場である。そう長く湯船に浸かってなどいられない。私は湯船から出ると、簀の子の上に二つ並んで置かれた、木製の小さな台のうちの一つに座って、こそこそ身体を洗い始めた。

 祖父が、不意に湯船から立ちあがった。

 湯で温められ、弛緩した祖父の陰茎を、私は横目でチラリと見た。陰茎をぶらぶらさせながら、五右衛門風呂の縁を跨いだ祖父は、そのまま、私の背後に回り、もう一台の木製台に座った。

「爺ちゃんが背中、流してやる。」

 背中越しに祖父の声が聞こえた。そして、祖父は、自らの手拭いに石鹸を付けて泡立てると、私の背中を擦り始めた。細身とはいえ、祖父は力こぶの盛り上がった身体つきである。すごい力で痛いほどである。

 私は急な展開に驚き、逃れようとしたが、祖父は私の肩をがっちりと掴み、それを許さなかった。

 無言であったが、祖父から有無を言わさぬ迫力を感じた私は、あっさり抵抗するのを諦めた。祖父に自分の身体を触ってもらうのは、むしろ、心地よいことだったし、そもそも農業で鍛えた祖父の腕力にかなうはずもなかった。私は祖父の為すがままであった。

 

 気がつくと私の陰茎は勃起していた。最近、祖父の裸を想像するだけで、私の逸物は天を向くようになっていた。その現象の根源には同性愛の傾向が横たわっているのだが、それを自覚できない私は、その度に混乱し戸惑ってきた。しかし、今日はそういった理屈は抜きに、とにかく努めてそうならないようにするしかない。

 私の背中を流す祖父。祖父の素肌と体毛が私の肌にわずかに触れた。少しくすぐったい感触と心地よさ、そして、成熟した男の体臭を近くに感じ、私の官能が一気に高まる。

 ああ、もうダメだ。爺ちゃん、もっと触ってくれ。そう感じた瞬間、私のそれまでの努力は、すべて無駄なものに成り下がった。祖父が私に男を感じていたように、私も祖父に男を感じていた。私は発情したのだ。私の勃起はさらに激しくなった。

 それに気づいていたのかいないのか、

「次は前だ。こっち向け。」

 祖父はそう言って、私の両肩を掴んで強引に向き直らせた。祖父は笑いながら、私の腕を取り、自分の手拭いで身体を洗ってくれた。

「爺ちゃん、これじゃ子どもみたいだよ。恥ずかしいから前はいいよ。」

 手拭いの下で、私の陰茎は勃起しっぱなしだった。しかし、それを悟られるわけにはいかない。

「何、言ってる。爺ちゃんからみたら、立派な子どもじゃねぇか。それに男同士だ。何が恥ずかしい?」

 祖父は頑として譲らない。私は手拭いがテントを張らないよう、精一杯の努力で前を隠した。

「よし、終わりだ。」

 そう言うと、祖父は私の肩をポンと叩いた。私はホッとして一瞬、身体の緊張を解いたが、その瞬間のできごとだった。

「何、前を隠しとる。まったく、こそこそしてこっぱずかしい。チンボの毛くらいじゃ、爺ちゃんは驚かんぞ。」

 そう言うがいなや、いきなり私の股関を覆っていた手拭いを取ってしまったのだ。不意をつかれた私は、抵抗する暇など一切なかった。

 祖父にしてみたら、夢精について孫と話すには、それなりのきっかけが必要だ。そのきっかけが欲しかっただけだろう。

 

 祖父の眼前に、黒々とした陰毛に覆われた、私の生殖器が曝された。そこまでは祖父も想定内だ。しかし、私のそれは、カチカチに直立し、隆々と天を仰いでいた。当時の私は、日常から亀頭の先が顔を覗かせ始めていたから、勃起すると、三分の一以上は露出する。大人並みとまではいかないにしても、一般的な小学五年のそれではない。

 祖父の瞳に驚きの色が浮かび、それはすぐに戸惑いに変わった。発毛は予想済みだが、まさか勃起させているとは・・・。しかし、祖父は、努めて平静を装った。

「毛が生えてきたな。それに、爺ちゃんや父ちゃんみたいに、もげ始めとる。」

 祖父は、自らのチンボを、節くれだった大きな手で握りながら、私の眼前に差し出してみせた。その時の祖父の指と腕に生えた毛の濃さを、私は今でもはっきりと思い出すことができる。

 祖父の成熟しきった陰茎と睾丸。それらが私の目の前にある。大人の性器のすごさに、私は圧倒されてしまった。まずは大きさ、剥け方が私の比ではない。雁首の段差がまるで違う。まさに松茸そのものであった。祖父のそれは、勃起こそしていなかったが、これまで一緒に入浴する度に、何百回も目にしてきたそれより、幾分容積を増しているように見える。そのことに私は気づいていた。

「立派なもんだ。」

 祖父は笑いながら言った。いきなり、孫の完全勃起マラを見せつけられたら、そうでも言うしかないだろう。だからなのか、祖父の微笑みは、どこかぎこちなかった。

 次の瞬間、思わぬことが起こった。祖父が、いきなり私の逸物をギュッと握ったのだ。それは何の前触れもなく実行に移された。祖父自身、咄嗟の判断で選んだ、衝動的な行動だったのかもしれない。

 祖父にしてみたら、孫の勃起をみてしまった戸惑いを、冗談で紛らわせるしかなかったのだろうが、それと同時に、自分の性癖が孫に遺伝している可能性を感じ取り、多少なりとも狼狽えていたのかもしれない。

 結果は冗談では済まされなかった。まだ鍛えられていない私の逸物は、祖父の想像以上に敏感だったからだ。

「あ・・・。」

 と小さく呻いた時には、すべてが終わっていた。私の逸物から背中にかけて一気に衝撃が走り、めくるめくしてほとばしった。

 次の瞬間、私の全身から力が抜けていった。そう、私は軽く握られただけで、射精してしまったのである。それは初めての遺精、つまり、意識下での射精だった。

 

 私は目を閉じていた。全身の痙攣と収縮がおさまっていく。何ともいえない安堵感が押し寄せてくる。

 私は大きく息をついた。何が起こったのかは解らなかったが、さっきまでの高揚した気持ちが嘘のような、どこか平穏で、どこか気だるい、不思議な感覚が私を支配していた。

 私は静かに目を開いた。目の前に祖父の裸体がある。次の瞬間、私の目に写ったのは、祖父の胸から足にかけて飛び散った、大量の白い粘液であった。もちろん私の精液である。

 しかも、私の放ったものの一部は、祖父の陰茎に、べっとりと降りかかっていた。やがて、それは下へと伝い、祖父のズル剥けの亀頭から雫となって、床の簀の子へと垂れていく。

 祖父は驚いたようだが、何も言わなかった。むしろ、私に掛ける言葉を必死に探していたのだろう。やがて、祖父は黙って湯船から手桶でお湯を汲んだ。そして、自らの身体にかかった精液を洗い流し、私の身体にも、ゆっくりとお湯を掛けてくれた。

 訳がわからず、射精後の虚脱感で呆然としている私と、まるで満足したかのように次第に萎えていく陰茎。その様子で、祖父はすべてを悟ったらしい。

「いじって出すの、初めてか?」

 ようやく祖父が声を掛けてきた。私は、無言で頷くばかりだった。

 私には幼い頃、そう小学校に入学した頃から明らかに同性愛の傾向があったことについては何度も触れてきた。日頃から担任の年配の先生や校長先生、そして、祖父に肩を組まれたり、背中に背負われたりした時、相手の微かな体臭や触れあう肌の感覚に、堪らない何かが身体の中から込み上げてくるのを、子供心にも自覚していた。

 今、その堪らない何かとは何か。その実態がようやくわかりかけてきた。つまり、自らの意思によって行う射精、それを実行したいという本能、それこそが、その何かだったのだ。

 いきなりの射精、それは起こるべくして起こったと言えた。しかし、それは、まるで晩秋の川霧のように、数ヶ月にも渡って私の全身を覆っていた、湧き上がる性欲を満たせない苦しさ、私をそれから解放してくれた。

 この日から、私は祖父との許されない関係に足を踏み込むことになるが、そこに苦しさなど微塵もなかった。初めて放出した精液とともに、私の性を満たせない息苦しさは、たった手桶一杯分のお湯によって洗い流されていったわけである。

 その辺りについて、追々語っていくとして、その日のできごとは、まだ終わりではなかった。むしろ、そこから始まったと言ってよい。

 祖父は湯船に入った。そして、さっきと同じように自分の隣を開けた。私は祖父の行動の意味を察し、言われるままに隣に身を沈めた。

「今までも朝起きた時に、同じものが出ていたことがあっただろう?」

 私は黙って頷いた。

「あれ、何だかわかるか?」

 私は今度は黙って頭(かぶり)を振った。私は、その時まで、その粘液が何の役割を果たすのかさえ知らなかったのだ。

 祖父は一旦話を切った。祖父は、自分の孫の無知ぶりに恐れ入っていったようだ。いったいどこから話せばいいのだろう。祖父の思案が伝わってくる。

 しかし、私にしてみたら、からかい半分に、それらを教えてくれる年長者が近所にいないのだから、性について極端に無知なのも仕方がないことだとも言いたかった。

 しかも、時代は昭和三十年代末。田舎ではエロ本だって、そうやすやすと手に入るものではない。何しろ近所に書店どころか、ろくに商店さえない開拓地なのだ。しかも、私はまだ十歳になったばかり。級友は、やれ昆虫採集だ、やれ魚釣りだと、いかに野山で遊ぶかを考えている輩ばかりで、性にめざめた者など誰一人としていなかった。

 

 祖父は一からの説明を余儀なくされた。まずは、その液体が子供のもとであり、どうやって女性の体内に入るかを説明しなければ話は始まらない。しかし、その方法を聞かされても、何の感情も湧かなかった。いや、むしろ何となくそんな気がしていた・・・。それが率直な感想だった。

 むしろ、気になるのは祖父のチンボである。おそらく祖父はそのことに気付いていただろう。

 やがて祖父は、自分自身に何かを言い聞かせるように小さく頷いた。いよいよ本題に入るのである。たった今、私に起こった現象が何であったのか。祖父は自分の体験も交えながら、説明してくれた。

 男なら、早いものでは十歳、遅い者でも大人になる前には、自分でチンボを擦り快感を求める行為を覚えていくこと。それは「せんずり」と呼ばれる行為であること。それを覚えない男などいないこと。男は一生その行為をやめられないこと。

 私にとっては知らないことばかりだったが、時折、大人にからかわれた時、意味がわからなかったことの幾つかが、ようやく頭の中で繋がった。

 話をしているうちに祖父自身も興奮してきたのだろう。祖父の瞳の奥に怪しげな光が灯り出したことに、私は気づいていた。

 祖父の話は終わろうとしていた。話の最後に、射精できるようになったということは、身体が大人になった証拠だと付け足すことも忘れなかった・・・。

「めでたいことだ。爺ちゃんが、初めて自分で出した年齢よりも、少し遅いがな・・・。」

 祖父が真剣な表情で言った。二人はしばらく無言だったが、私は思い切って祖父に尋ねてみた。

「みんなやるの?」

「ああ、みんなだ。」

「○○先生や校長先生も?」

 祖父は、そうだと答えた。私は自分が少しずつ興奮してくるのを感じていた。私は最後に一番聞きたかったことを口にした。

「爺ちゃんもか?」

 一瞬、祖父の表情に戸惑いが浮かんだ。しかし、意外なほどはっきりした口調で祖父は答えた。

「爺ちゃんだって男だ。男はみんなする。」

 もはや後には引けなかったのだと思う。

 祖父の話に、既に私の陰茎は勃起していた。私は、祖父が一人その行為に耽っている姿を想像した。そして、それは、どうしても祖父の亀頭から精液が飛び散る想像へとつながってしまう。

 祖父も、自らの興奮を抑えるのに必死だったのだろう。しかし、それは無駄な抵抗だった。ふと見ると、いつの間にか祖父の逸物は完全に勃起していた。つい先ほど目にした、萎えた状態のそれなど比較にもならない。そこにあるのは、祖父の「男」そのものだった。

 私はそれをじっと見ていた。私と祖父の視線が重なる。祖父が私の手を静かに取ると、それを自らの股間に導き、そっと握らせてくれた。祖父の体温と息づかい、陰茎の躍動が伝わってくる。祖父のそれは、私の手の中でピクピクと熱く脈打っていた。

 初めて握る大人の生殖器。その大きさ、松茸のような、グロテスクで卑猥な造形。そして、年齢を感じさせない程の硬さだった。

 私は当たり前のように、もう一方の手を勃起した自らの陰茎に伸ばし、先ほど祖父に教えられた通りに上下させてみた。私のそれは、もはや擂り粉木のような硬さである。

「爺ちゃんが出すとこみたいか。」

 祖父が上ずった声で尋ねた。私の喉はカラカラだった。私は言葉を発することもできず、ただ頷くしかなかった。

 祖父は立ち上がり、私にも立ち上がるよう促した。私が従うと、勃りたった陰茎を私に握らせたまま、湯船から洗い場へ行こうと顎で合図した。

 二人は湯船を跨ぎ、洗い場に並んで立った。二本の陰茎がお互いを求めあっているかのように、向かい合う。私はその間、ずっと祖父の性器を握っていたが、祖父の亀頭から先走りが溢れてきた。

 祖父は、自らの口に含んだ唾を右手にたっぷり取って自分の陰茎にまぶした。そして、無言のままで私の手を取り、上下させた。

 ぱっくりと口を開けた、祖父の尿道口から、先走りがダラダラと溢れた。私はそれを手の平に取り、祖父のまぶした唾液と混ぜるようにして亀頭を包み込んだ。

 祖父が切なそうな目をして、私を見つめて来た。さらに、祖父は私の肩に手をまわし肩を組んできた。私は祖父の脇腹に手を回し、祖父の身体に頬を寄せた。祖父の腋毛が、私の顔を刺激して心地よい。私は本能的に、祖父の陰茎をしごく速度をあげた。

 祖父がたまらずに呻いた。

「出るぞ。よく見とくんだぞ。」

 祖父の陰茎に力が入り、それが私の手のひらに伝わった瞬間、祖父の亀頭から白い樹液が勢いよく弾けた。

 それは見事な弧を描いて、私の太腿や股間に飛び散った。

 

 祖父が大きく息をついた。祖父の陰茎が次第に力を失っていく。やがて、それが完全に力を失った時、精液の残滓が糸を引いて、洗い場の簀の子の隙間に消えていった。

「すごい・・・。俺のとは違う。」

 手に残った祖父の精液を見つめながら、私は思わず呟いた。未成熟な私が放ったそれと、祖父のそれは同じものでありながら、まったく異質なものであった。その違いは、大人の射精のすごさを、まざまざと見せつけてくる。

 サラサラして半透明な私の精液と違い、祖父のそれは、きょときょとするほど強い粘り気を帯び、栗の花に似た強い匂いを放っていた。色も白というより、黄色に近いとさえ思える。

「大人だからな・・・・。そのうち、お前のもそうなる。」

 祖父が呟いた。気が付くと、私の陰茎は再び勃起していた。

 

 その日、私は風呂場で、さらに二回射精した。祖父に言われるまま、自らをしごきたてて。

 結局、三十分程の間に、祖父は二度、私は三度射精した。すべてが終わり、並んで湯船に浸かった時、祖父は諭すように言った。

「父さんと母さんに絶対言わないと約束するか。約束できるなら、爺ちゃんが、もっといいこと、たくさん教えてやる。」

 祖父は既に理性を失い、完全に一匹の獣と化していた。ギリギリで保っていた、越えてはならない一線を、いとも簡単に踏み越えさせ、祖父をそこへと駆り立ててしまったものは何だったのだろうか。

 年齢の割に大人になっていた、私の肉体だけが理由ではあるまい。まだ幼さの残る生殖器を硬く勃起させ、呆けたように性を放つ私の中に眠る、祖父譲りの淫乱さが祖父を狂わせたとしか思えない。

 確かなのは、私の中に、秘密の行為に対しての俊巡や後悔、罪の意識など微塵もなかったということだ。今、思い返してみても、覚えているのは、身体の奥底から湧きあがってくるような、怪しいまでの高揚と興奮、そして、強烈な快感と、その後に訪れる、全身を包み込むような幸福感。ただそれだけであった。

 私は誰にも口外しないことを固く誓った。それが、同性愛と近親相姦、二つの意味で許されない行為であることくらいは、子ども心にも容易に理解できたから、誰かに言うはずもなかった。

 その夜、布団に入ってから、私はセンズリを試みた。祖父との入浴を思い描きながら、二度、三度と射精した。

 この日以降、私は一度も夢精をしていない。日に五回も六回もセンズリをするのが日常になったから、夢精など起こるはずもなかった。

 後に、周囲の友人もセンズリ覚えた頃、

「センズリをしすぎるとバカになるし、チンボが成長しなくなるから気をつけろ。」

 そんな情報を、友人の一人が地区の中学生から仕入れてきた。

 私は、自分のセンズリの回数に急に不安が募った。バカになるのも嫌だが、幼児並みのチンボで一生を送るのは、もっと嫌だ。

 私は風呂で、その真偽を祖父に尋ねた。

「センズリをしない男なんて、男とはいえない。三度でも四度でもやりたいだけやれ。爺ちゃんなんぞ、朝やり昼学校で何回かやり、夕方やって、風呂でもやった。そんで夜布団の中でやるんだ。しかも、二回連続で出すことだってあった。それでも、このチンボだ。」

 そう言って湯船に立ち上がると、改めて雁首が発達したズル剥けの逸物を触らせてくれた。

 もちろん、私は祖父の言葉を信じた。私はその悪習を十歳三か月の月齢にして、重ねていくことになる。もはや「悪習」という不安は微塵もなく、「男としてやるべき行為、回数をこなせるのは、むしろ、男らしさ。」そう考えるようになっていた。

 

 祖父の逸物から飛び散る、真っ白な一筋の精液の美しさ。それこそ「男」なのだと私は思った。そして、放精とともに躍動する亀頭のどす黒さ、ふたつの鮮やかな対比は、今でも私の瞼にくっきりと焼き付いて、消え去ることはない。

 これが私と祖父との、男同士の契りの始まりであった。