里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農夫の性の記録

第三部

青年期

 

一 県庁所在地にて

 

 私は中学校の卒業式を間近に控えていた。進路選択の時期である。正直、小学生の頃、中学卒業後は、実家に残り祖父や父を手伝って農業をすることになるのだろうと考えていた。

 実際、私より七、八歳上の年代の者たちの場合、クラスの半分くらいは中学を卒業すると集団就職で東京に行くか、実家に残って農業や山仕事に従事するのが普通だった。日本がまだまだ貧しかった時代である。

 しかし、高度経済成長を迎えた日本の変貌は凄まじかった。十年で生活は向上し、耐久消費財も次々と普及した。我が家も同様であった。果樹栽培が軌道に乗った時期でもあったので、私にも進学の可能性が出てきた。

 そんな経済的な理由に加え、私は成績が優秀だったので、担任の早瀬先生が両親に強く進学を勧めてくれた。最後の決断をしたのは祖父である。

「これからの時代は学問がないとやっていけねぇ。」

 私は祖父に感謝している。半分諦めてはいたが、内心、高校に行きたくてたまらなかったからだ。

 勉強したい。純粋にその気持ちがあったのは事実だが、別の思惑も心の奥深くに確かに存在していた。村の中で、好きな男とセックスすることもなく朽ちていく人生はまっぴらごめんだった。そんな人生には、ある種の恐怖感さえ感じていた。もしかしたら、祖父もそれをわかっていたのかもしれない。学問云々も本心だろうが、孫、しかも完全な男色家であることが明確な私に、自分と同じ性的に抑圧された人生を歩ませたくなかったのではないか。

 あれから五十年以上が経ち、私自らが祖父となった今、私が切に願うことはただ一つ。孫三人が仲間でないことである。私の歩んだ茨の道を彼らに味あわせたくはない。それは祖父も同じだったろう。祖父同様、私自身にも、

「村の外に出れば、もっと多くの男がいる。」

 という淡い期待があった。それは祖父との経験から、私なりに学んだことでもあった。

 一方で、祖父、父、母からしたら、私は期待の星でもあった。当時、本村の者からは、開拓地なぞ貧乏人の集まりだと軽んじられている雰囲気があった。このことで、三人は随分我慢を重ねていた。そんな中、孫の進学で自分達を馬鹿にしてきた連中を、見返してやりたい。そんな思惑も透けてみえた。それは貧乏人の意地といってもよかった。

 祖父にしたら、本村の知人を見返すためにも、私を何がなんでもN高校に入れたかったのだろうと思う。事実、開拓地はもちろん、本村からも、それまでN高校に進学した者は一人もいなかった。

 こうして私の高校進学は既定路線となったが、私が悩んだのは、どの高校にするかであった。

 私は二つの高校を候補にあげていた。麓の街のS高校と、県庁所在地にあるN高校である。どちらも県内有数の進学校であったが、N高校の方が難易度は遥かに高かった。私は内心ではN高校に行きたいと考えていたし、合格する自信もあった。

 ただS高校ならば、一年を通して何とか通えるのだが、N高校を選んだ場合、少なくても、冬は下宿しなければならないだろう。私は迷った。

 家庭の経済的負担を考えると、やはりS高校にしようと決意した時、冬季間、格安で下宿させてもらえそうな知り合いが見つかった。正しくは祖父が見つけてきた。

 詳しい経緯は、今となっては確かめようがないのだが、かつて祖父の父、つまり私の曽祖父が世話をした男がおり、その息子が祖父と親しかったらしい。要はその息子が、二つ返事で引き受けてくれたのだ。裏には、その息子夫婦に子供がなく、寂しい暮らしをしていたという事情もあったらしい。

 

 下宿の問題さえ解決してしまえば、私に迷いなどあるはずがない。私はN高校を受験する決意をした。あとはひたすら勉強するのみである。受験勉強の気分転換が、風呂場での祖父とのセックスという、とんでもない受験生が私であった。

 ちなみに、私の住む県では、かつて高校の選択には制限があった。県内を幾つかの通学区に分け、その通学区の高校の中から選択するのだ。他の通学区への進学は職業高校のみしか認められなかった。私の時代は四通学区制だった。つまり、県内を四地区にわけていた。その後、私の妹の世代になると、それまで県内で四通学区制だったものが、十二通学区制に細分化され、川向うのN高校は、私の住む村からは進学先として選択できなくなった。しかし、十二通学区制は進学先をほぼ自由に選べない結果を生む。やはり、それに対する不満は大きかったようで、二十年程前、末娘が高校受検する頃から、再び四通学区制に戻されている。孫一号も、私と同じN高校に行きたいそうだ。十二通学区制世代の娘はS高校出身なので、

「お母さんの出たS高校もいいわよ。自由な雰囲気だし、伝統もある。何より近いし!」

 などと洗脳しているが、本心は送迎が楽だからに尽きるだろう。

 昔と違い、今は体調を崩すと必ず学校まで迎えに行かなければならない。送迎くらい、私がしてもよいが、孫一号が高校三年になる時、私は七十五歳。確実に運転できるという保証はない。

 孫一号の受験は二年半後、彼はどんな決断をするのだろうか。

 

 高校入試の日が来た。三月初めである。中学時代まで村から出たことがほとんどないまま育った私だったが、高校受験のため、父親に付き添われて県庁所在地に来て驚いた。

 山間地を出ると雪がほとんどないのである。複雑な地形の影響なのだが、山を越えたすぐ先に雪のない生活がある。まずはそれがカルチャーショックだった。

 幼い頃から、雪には散々悩まされてきた私である。雪のない生活が、自分の眼の前にある事実に、気持ちが高ぶった。その一方で、行き交う人はみな垢抜けて見える。自分の身なりは街の人からどう見えるのだろうか。自分がどうしようもない田舎者に思え、果たしてこんな中でやって行けるのだろうか。そんな不安にも襲われた。

 中学校の卒業式、高校の合格発表、慌ただしく三月の日々が過ぎて行った。私は難なく志望校に合格した。

 春休みに入って間もなく、私は祖父、父の二人と街に向かうバスに乗っていた。向かうのは冬季間の下宿先である。

 下宿するのは、十一月からだったが、四月からも、緊急時にはお世話になる可能性があったから、時間のある春休み中に、挨拶だけはしておこうということになったのだ。

 辺りは広い平地に、どこまでもりんご畑が広がる農村地帯である。山また山で空の狭い開拓地と違い、広い盆地を見回せるだけで、これまでにない開放感を感じた。それは風景のなせる技だけではない。山間僻地の閉塞的な人間関係からの開放感であった。

 私の下宿先が決まった経緯を話せば、目指す下宿先の主人の父親が、もともと祖父の父、つまり私の曾祖父に、大きな恩義を受けたことがあったらしい。下宿先の現主人は祖父より十歳程歳下だったが、祖父のことを兄のように慕っていた。祖父とは仕事上の繋がりもあったようだ。そんな理由もあって祖父も同行することになった。

 私の冬季の下宿先は、県庁所在地の旧市街地にあった。そこは大きな寺院の近くで、主人の家は配管に関わる店を営んでいた。

 店先で声をかけると、奥さんが出てきた。美人ではないが、朗らかで優しそうな女性だった。もう五十代半ばだったはずだが、四十代で充分通用した。出産経験がなかったからかもしれない。

「みえられたわよ。」

 奥さんが、家の中に声をかけると、五十七、八歳のガッチリした男が現れた。眉が太く、髭の剃り跡も青々としている。白いシャツを着ていたが、筋骨たくましく、袖から覗いた腕に濃い毛が密生していた。おそらくすね毛も剛毛であろう。T夫の父親に似たタイプであった。

 私は一目でこの男に心を奪われた。もっというと惚れてしまった。一目惚れという言葉は聞いたことがあったが、それがどんなものなのか、それまでの私には実感できないでいた。

 しかし、その時、私は瞬間的に一目惚れがどんなものなのかを悟った。早くこの人と暮らしたい。私の胸は高鳴った。今になって思えば、あれが私の初恋だったのだろう。

 主人が口を開いた。

「家が遠いんだ。秋にならなくても、困ったらここに来たらいい。うちは子供がいないから遠慮はいらない。」

 それが小谷のおじさんとの出会いであった。祖父と兄弟のように親しいと聞いていたので、私は二人が秘密の関係にあるのではないかと疑った。小谷のおじさん夫婦に子供がないのも、疑惑を深めた。しかし、結果だけを書けば、おじさんはケの男ではなかった。結果、私は叶わぬ片想いに苦しみ、惨めな親子ゲームを繰り返すこととなる。

 息子の代わりとして私を慈しんだ小谷おじさん。一方、私は男として小谷のおじさんを愛し、肉欲の対象として小谷のおじさんを感じていた。

 昭和四十三年早春、この日こそ同性愛者として生きる、私の迷い多き人生の本当の意味での始まりだった。

 

 県庁所在地の進学校に進学したのはよいが、やはり通学には大いに悩まされた。今なら車で四十分程度だが、当時は道も悪く、バス停まで徒歩で四十分。そこからバスで五十分かけて麓の街のS駅、鉄道に乗り換えて三十分、高校の最寄り駅から徒歩二十分。これだけでも百四十分である。これに加えて乗り換え時間がかかるわけだから、毎日片道ニ時間半、往復で五時間近くを通学に費やしていた。

 畢竟、私は毎日、朝六時には家を出た。放課後は四時半には学校をでたが、それでも家につくと七時を回っていた。

 しかも、開拓地は十二月上旬から三月末まで雪に覆われる土地柄である。到底、家から通学するなど不可能であった。

 そこで冬季間は、件の小谷のおじさんの家に下宿させてもらった。おじさんの家は、県庁所在地の旧市街地にあったから、高校まで自転車で十五分程であった。雪の日でも徒歩で三十分あれば充分だった。

 こうして私は、冬季間、月曜から金曜まで小谷のおじさん宅に寝泊まりし、寝食をともにした。好きな男と一緒に過ごす時間が増えるのだから、おじさんの仕事もよく手伝った。そして、週末、土曜日の午後に開拓地の実家に帰宅し、月曜の早朝に家を出て、夕方からは下宿先で一週間を過ごすわけである。

 入学後、すぐにわかったことだが、私のような遠距離通学者は意外に多かった。中には一年中下宿している者もおり、私だけが田舎者というわけではなかった。

 

 春から夏にかけて、私はまじめに学問に勤しんだ。各中学校のトップレベルの生徒が集う学校だったから、やはり、上には上がいる。

 最初のテストで、自分の立ち位置を確認した時、逆に精神的に楽になった。不得意な科目は撃沈する。それが高校の勉強だったが、苦手科目が撃沈するのが当たり前の世界なら、苦手なのだから高得点は不可能と割り切って勉強すればよいだけの話である。

 全科目で高得点を取り、優等生で居続けなければならないプレッシャーから解放されたのだ。私は、とにかく数学が嫌いだった。数学で高得点を取らなくて済むなら、勉強の苦痛は半減する。ちなみに孫一号も数学は大嫌いだそうだ。生粋の文系家系なのだろう。

 また、私は部活動には入らなかった。通学距離を考えれば無理があったし、祖父も古希を間近にして、徐々に衰えつつあったから、土日だけでも家の手伝いは必須であると考えた。

 それに部活動に入らなければ、しばしば小谷のおじさんの家に寄れるとも考えていた。頻繁に行けば迷惑になってしまう。月に一度か二度、多くは週末の金曜日に、冬の間の生活必需品を少しずつ運び込むというのを口実にして、おじさんの家に顔を出した。

 いろいろ気を遣った私だったが、実際には、子供がいない小谷のおじさん夫婦は、私が顔を見せると、いつも笑顔で出迎えてくれ、夕食まで進めてくれた。もちろん、そうなれば帰宅するのは困難だったから、おじさんの家に泊めてもらった。そして、翌日、

「次はいつ来る?」

 と次回の来訪まで約束させられるのだった。

 

 学校生活にも、ようやく慣れてきた頃、ちょうど紫陽花の季節が間近に近づいた土曜日の早朝だった。私は祖父と並んで本村への道を歩いていた。この日、祖父は県庁所在地の町に、用事で出かけるという。

 これまでも年に数回、祖父は県庁所在地の町に出かけることがあったから、特に不思議なことではなかった。そんな時、祖父は早朝から一人で出かけ、最終バスで帰って来た。

 本村の停留所でバスに乗ると、祖父が一枚の紙片を私に手渡して言った。

「雄吉、学校が終わったら、すぐにこの住所を尋ねて来い。爺ちゃん、そこにおるで。」

 私は訳がわからなかった。紙片には地図と住所が書いてあった。そこは高校からさほど遠くない場所で、私でも大体の場所の把握はできた。

 そして、住所の最後には、「伊藤鍼灸治療院」とあった。