開拓地にて

ある農夫の性の記録

第三部

青年期

 

三 下宿生活

 

 鍼灸師との出会いから四ケ月が過ぎた。季節は夏を過ぎ、既に晩秋を迎えようとしていた。この間、祖父が通学する私と一緒にバスに乗ることはなかった。しかし、一度、私が高校から帰宅したときに、祖父が不在のことがあった。母に尋ねると、

「街に出かけた。」

 という。その日も祖父は最終バスで帰ってきた。私の目には、鍼灸師の所に行っていたことは明らかだったが、祖父に尋ねてみたい衝動に駆られたが、私はそれを強引に押し込め、口に出すことはなかった。

 結局、祖父から声が掛からなかったということは、そういうことだ。つまり、「今回は二人だけで会う。お前は来るな。」という祖父の意思の表れである。

 むしろ、祖父は、私を鍼灸師に引き合わせたことを、時間の経過とともに後悔し始めていたのだろう。それは私の下宿生活の始まりが近づくにつれ、ますます大きくなっていたようだ。私はそれを如実に感じ取っていたから、あえて鍼灸師の話題には触れないようにしていた。

 そもそも、鍼灸師の言動を振り返れば、私を引き合わせるという事象が、祖父の積極的な願いでなかったことは明らかである。うっかり私と自分の秘密を鍼灸師に漏らしてしまい、私との邂逅を鍼灸師に迫られたが、最初は「まだ子供だから」と切り抜けていたものの、やがて断り切れなくなったというのが真相だろう。断れば「捨てられる」と思い込んだのかもしれない。いや、思い込みではなく、実際にそうだったのかもしれない。

 祖父は、鍼灸師が私に男を感じ、強い興味を持っていることに気づいていた。仕方なく引き会わせると、私も満更ではなさそうである。

 ホモの世界は肉体関係から始まる。当然、祖父は、私と鍼灸師が深い仲になることを警戒しただろう。簡単にいえば、孫に自分の男を奪われるかもしれないと思ったわけだ。自分を支配し、自分が依存して来た男が、自分が仕込んだ若い男と深い関係になりかねない。この三角関係に祖父は内心で恐怖していた。

 鍼灸師は粗野で淫乱な男である。私とは所詮セックスだけがめあてだったのだろうが、内面に依存心を抱えた祖父は、そう簡単には割り切れなかったのだろうと思う。

私と祖父の関係性が大きく変わろうとしていた。

 

 十月中旬、開拓地に初霜が来た。ここから冬に向けての季節の移ろいは早い。私は十一月から、件の小谷のおじさんの家に下宿することになっていた。

 春先から、その日を目指して少しずつ準備を進めていたから、私の中では早く小谷のおじさんの下で暮らしたいという思いの方が強かった。鍼灸師との関係の中で、祖父との関係性に変化が生じていたことも、ひとまず家から離れたいという感情に繋がっていた。

 引っ越しそのものは至って簡単だった。普段からちょくちょく顔を出し、生活必需品を少しずつ運びこんでいたから、旅行鞄に必要なだけの衣類を詰め、学用品を持てばそれで終わりであった。週に一度帰宅する予定だったから、何もすべてを運び込む必要はないのである。必要に応じて、その都度持ち込めばよい。

 しかし、いざ小谷のおじさんの家での生活が始まると、毎週帰宅するというは意外に困難であることがわかってきた。昔からなぜか寒波は週末に多いのである。そうなったら、行きにしろ帰りにしろ、猛吹雪の中を本村まで四十分の道を一人で歩かなければならない。そんな危険な行為をさせたいなどと、親であるなら誰しも思わない。

 それに、今は少し祖父と距離をおいた方が、お互いにとってよいのではないかという気がしていた。たまに帰るくらいの方が、物事が丸く収まる予感がしたのである。実際、離れて暮らし始めると、祖父が恋しくなってくる。それは祖父も同じだったようだ。

 私が下宿して数週間も経つと、帰宅した際、私と祖父は再び一緒に入浴するようになっていった。もちろん、秘密の行為も復活していった。ただ、ひとつだけ今までとは違った点がある。それは、行為が終わった後、祖父が必ず聞くようになったのだ。

「伊藤さんと会ったかや?」

 私は首を横に振るしかなかった。実際、会っていないのだから、そうするより仕方ない。最後に祖父は、決まってこう付け足した。

「会ってもいいが、その時は爺ちゃんにちゃんと教えてくれ。このことは伊藤さんには内緒だでな・・・。」

 私は頷いたが、もしそうなることがあっても、その事実を祖父に伝えることはないだろうと思っていた。「それが嘘も方便なのだ」ということを、私は既に理解できる年齢に達していた。

 

 閑話休題、吹雪の道中は一歩間違うと、死の危険と隣合わせである。本村と開拓地までの三キロメートルの谷間の山道は、風こそ弱かったが、途中に人家が一軒もなく、道が膝より深い新雪に埋まっているような状態でも、救いを求める場所が皆無だった。しかも、谷間の道は午後四時を過ぎると薄暗く、冬至の前後、一番日の短い時期など、土曜の午後すぐに学校を出発しても、家に辿り着く頃には、既に太陽が沈みかけているのが常だった。

 それに、私は下宿している四か月間、定期券を購入していなかったから、月に四回、場合によっては、これは第五週がある場合という意味だが、五回帰省するとなると、往復の交通費もばかにならなかった。何しろ私が利用していたN電鉄は、今では日本有数の高運賃ともいわれているのだ。

 そもそも小谷のおじさんとの日々は、私にとって心躍る至福の時であったから、帰省しなくても、さほど寂しいとは思わなかった。

 そんなわけで十二月中旬~二月中旬までは月に一度か二度、帰省できれば御の字で、一度も帰省しない月さえあった。畢竟、月の半分の週末は小谷のおじさん夫婦と夕食を囲むような状態になっていく。前述したが、祖父との関係の上でも、結局はそれでよかったのだ。

 

 こうして十一月に入ると同時に、私は小谷のおじさんの家から高校に通うようになった。それまでも何回か泊めてもらったことがあったが、本格的に生活拠点が移ると、私には二階の一室があてがわれることになった。おじさん夫婦はといえば、一階の奥の部屋で寝起きしていた。

 茶の間の板戸を開けると、そこが階段になっている。その階段を上りきった部分が一畳ほどの踊り場になっていて、そこの右側の板戸を開くと私の部屋、左側の板戸の向こうは納戸であった。

 小学校時代。H樹が個室を与えられているのを非常にうらやましく感じたものだが、いとも簡単に個室が与えられた何とも贅沢な話に感じられたが、よく考えると、下宿人にずっと茶の間にいられたら、さすがにおじさん夫婦だって疲れ果てててしまうだろう。何しろ二人は、夫婦だけの静かな生活を二十年以上も続けて来た人たちなのである。

 一家が川の字で寝るしかなく、家族が寝ているすぐ横で、性生活を営まざるを得なかった初期の開拓地の暮らし、それがいかに貧しいものであったかは、もはや想像に難くない。たかが自室の話ひとつにしても、酷い暮らしが如実に物語られている。そして、それは開拓地の閉鎖性の象徴でもあった。

 放課後、陽が傾く頃、私は有名寺院の敷地内を通り、おじさんの家に歩いて帰ったものだ。山間僻地に育った私にとって、有名寺院の仲見世の明かりは、文明の灯そのものであった。店から漏れる明かりに照らされた私の横顔は、都市での文化的生活という選択肢が自分にもあることを知り、自然とほころんでいたことだろう。

 私は家でしていたように、おじさんの家でも風呂の一切を引き受けることにした。特に宣言したわけでもなかったのだが、忙しそうなおばさんの姿をみて、

「やっておきます。」

 私のこの言葉ですべては解決された。実際、破格の下宿料であったから、そのくらいのことはしないと申し訳ない気持ちもあった。当時の物価と比較してみても、実際にかかる食費や光熱費を差し引いたら、さすがに赤字ではなかったと思うが、おじさん夫婦にほとんど利益は出ていなかったように思われる。

 おじさんの家の風呂は屋外の別棟にあった。専用の小屋が軒を連ねるように母屋に隣接して建てられ、中に五衛門風呂が設えられていた。私の家もそうだったが、当時、地方ではトイレと風呂場は、家の外の別棟として設置されていることが多かった。ただ、おじさんの家の場合は風呂専用の小屋だったから、きちんとコンクリートも打ってあり、私の家の風呂場より格段に上等な造りだった。

 そもそも最初から風呂用として建てられた小屋だったから、水道もガス釜も設置されている。風呂の掃除といっても水道の蛇口をひねりタワシで磨くだけ。井戸から水を運ぶ必要だってないのだ。あとは水を張りガス釜のスイッチを押せば終わりである。

 私はあまりの簡単さに拍子抜けした。水を運ばずに済み、薪を使わないでよいというのは、なんと楽なことだろう。ガス釜の使い方だけは自力ではどうにもならなかったが、そもそも覚えてしまえば難しい作業ではない。

 また、風呂の準備だけではなく、おじさんの仕事もよく手伝ったものだ。おじさんの家は配管関係の商売をしていたから、当然、軽トラックへの荷物の積み込みなど、私にも手伝えることが山のようにある。既に、時代はオート三輪から軽トラックに急速に移行しつつあった。

 私が手を出せるのは、力はいるが、単純で簡単な作業ばかりだったが、早熟で大人並みの身体つきだった私には、苦でもないものばかりだった。おじさんには随分感謝されたものだ。しかし、一緒にいられるだけで嬉しかったのだから、実に楽し気に働いていたことだろう。もはや、私は小谷のおじさんの右腕を自負していた。それに、私にしてみたら、家でしていた重労働に比べたら、楽すぎて申し訳ないくらいであった。

 おじさん夫婦が私をかわいがってくれたのは、そもそも二人に子どもがなく、寂しい環境だったという経緯もあっただろうが、私がよく手伝いをしたという辺りの事情も関係していただろうと思う。最初の好印象は人間関係の形成上、極めて重要ということだろう。

 当の私はといえば、そうすることで媚びようなどとは露程も思っていなかった。常に私の頭の中にあったのは、親戚宅などを訪問した際、例え、相手が座っているようにと言ってきても、常に洗い物などを手伝う母や祖母の姿であった。そんな姿をみて育ったことが、私にそうするよう自然と促したのである。私は祖母や母にも感謝せねばならないようだ。

 今、娘夫婦の姿をみて、三人の孫たちは日々成長している。成長期を迎え、すっかり兄ちゃん化した孫一号を見るにつけ、頑固で融通が利かず、少し気難しいところはあるが、さほどの失敗作ではなかったように感じている。頑固さは私の遺伝子、少しくらいの欠点は目をつむるしかあるまい。

 閑話休題。おじさんの家に出入りするようになった四月当初、二人のことを何と呼んだらよいのだろうかと私は途方に暮れた。小谷さん? 大家さん? 親父さん? おじさん? 大家さんなどと呼んだら、かえって二人は悲しむだろう。結局、当たり障りなく「おじさん、おばさん」、あるいは「小谷のおじさん、小谷のおばさん」と呼ぶことに落ち着いた。

 しかし、私は本心では、「親父」と呼びたくて仕方かった。しかし、それはおじさんを困惑させるだろう。畢竟、そんなことができるはずもなかった。小谷のおじさんは大家さんで、親子ゲームはできても、決して父親ではない。そのことを私はわきまえていた。

 いよいよ本格的に下宿するようになると、それまでは気にも留めなかった様々な悩みが生じた。もっともそれを問題と感じ悩んでいたのは私だけで、おじさん夫婦は何も感じていなかったことは言うまでもない。

 さて、その一つめであるが、それは洗濯物をどうするかという問題だった、当初、私は毎週末、洗濯物を実家に持ち帰って洗っていた。一週間分であるから、毎回、大変な大荷物だった。

「洗濯ならしてあげるから出しておいてね。」

 おばさんが、しきりに言ってくれたが、私は頑として首を縦に振らなかった。もちろん、そこには遠慮もあったのだが、何しろ私の下着は越中褌なのだ。当時、年配者でも既に褌を愛用しているものなど稀有な存在になっていたから、高校一年生の私が越中褌常用者などと、どう説明したらよいのだろう。私には想像さえつかなかった。

 そんな状態が半月ばかり続いたであろうか。ある日、おじさんが私の部屋に強引に押し入ってきた。

「洗濯代も込みで、お前の両親から下宿代をもらっている。なんだ。まったくもって洗濯ごときで水くさい。」

 そう言うがいなや、強引に洗濯かごを私から引ったくった。

 籠の中に丸められた何枚もの越中褌。それに気づいたおじさんは、たいそう驚いた表情を浮かべた。それはそうであろう。さすがに高校生で越中褌を愛用している者など話にも聞いたことがない。私は慌てて説明した。

「爺ちゃんが越中褌で、蒸れなくて楽だから、俺も使うようになったんです。」

 もはや言い訳に近い。おじさんは、私が洗濯物を出すのを躊躇したのに合点がいったらしいが、何も言わなかった。

 しかし、このことで開き直った私は、翌日から洗濯物を出すようになった。おじさんから伝えられていたらしく、おばさんも何事もなかったかのように受け入れてくれた。

 私は、精通を迎え夢精を繰り返していた小四の冬のことを、思い出していた。祖父と祖母も、こんな感じだったのではなかろうか・・・と。

 こうして、軒下には私の越中褌が、おじさんの猿股と仲良く並んで干されるようなった。これを見た近所の人々は、おじさんが越中褌を愛用していると思い込んだに違いない。おじさんは越中褌の似合いそうな容貌だったから、そう勘違いするのが当然であった。

「きっと、俺のだと思われてるなぁ。」

 そう言いながら苦笑いするおじさんの姿が浮かんでくるようである。

 

 おじさんは、風呂上りなど、しばしばステテコ一枚で晩酌をしていたが、その太ももや脛の毛の濃さに、私はめまいを覚えた。肩や胸の筋肉の盛り上がりも見事の一言に尽きる。配管に関係する仕事だったから、どうしても力仕事が多い。肉体が鍛えられるのは当然の結果だった。当時の私の一番の願いは、ただ一つ、

「なんとかして、おじさんのチンボがみたい。」

 これだけであった。考えていることが中学時代のそれと同じである。中学時代、私はまだ見ぬ早瀬先生の逸物、R太郎先生の逸物、それらをこの目で見ることばかり考えている少年であった。

 あれは、ちょうど下宿生活が始まって二カ月弱が経った頃、冬至が近づいた夕方のことだったと思う。県庁所在地は開拓地と違って十二月半ばは、まだまだ寒気が緩い。数日前に降った雪が融け、あちこちでぬかるみを作っていた。とはいえ、陽が沈めば気温は氷点下だから、アスファルトや石畳の表面は、うっすらと凍り付いて滑りやすくなっている。

 私はいつも通りに風呂を沸かしたが、庭の石畳でうっかり足を滑らせてしまい、ぬかるみに尻もちをついてしまった。ズボンもシャツも泥だらけである。近くにあった融け残った雪で、手の泥だけはなんとか落としたが、全身がひどい有様であった。

 その時、母屋の台所からおばさんの声がした。

「雄吉くん、おじさんに石鹸を持って行ってあげて。」

 おじさんは仕事から帰宅すると、そのまま風呂場に直行し、先に入浴していたが、その日はどうやら石鹸がなかったらしい。私は台所の窓越しにおばさんから石鹸を受け取った。

 泥だらけの私をみて、おばさんは驚いていた。

「ケガしてない? 大丈夫? 寒くない?」

「ケガはないです。泥が付いただけ。大して濡れてないから大丈夫です。」

 私が答えると、おばさんは安心した表情を浮かべ、

「風邪をひくから、石鹸を渡したら、すぐに着替えてね。おじさんの次にお風呂に入っちゃいなさい。」

 そう言ってほほ笑んだ。いつもの優しい笑顔である。私は頷いて風呂場に向かった。

「おじさん、おばさんが、石鹸、渡してきてだって。」

 私は風呂場の外から、中にいるはずのおじさんに向かって声をかけた。

「お? 雄吉か?」

 最初、おじさんの返事だけが聞こえたが、やがてガタガタという音とともに入口の板戸が開き、ズル剥けの逸物をブラブラさせたおじさんが姿を現した。

「ああ、ありがとう。寒いっ。」

 おじさんは震えながら石鹸を受け取ったが、私をジロジロ見ている。数日前の寒波は去ったとはとはいえ、十二月、季節は冬である。そんな中、泥まみれの私をみたら、この後、二人のやり取りは、当然、そうなるだろう結末に落ち着いた。

「なんだ、泥まみれじゃねぇか。どうしたんだ?」

「庭で転んじゃいました。」

 おじさんはしばらく考えていたが、

「そのままじゃ風邪ひくぞ。めんどくせぇ、もう一緒に入っちまえ。」

 そう私に声を掛けた。

 正直なところ、私は狼狽えていた。おじさんは仲間ではないから、濃厚な結末など期待してはいなかったが、やはり本当に好きな相手の前では恥じらいがある。大して好きではない鍼灸師の前では、平気で裸になれるのに、おじさんの前ではなかなか決断ができない私がいた。

 おじさんは私の葛藤など知る由もない。ケの性分など皆無のおじさんは、私の腕を引っ張って強引に脱衣所に引きずり込んだ。おじさんはさっさと浴室に戻っていく。私は覚悟を決めて靴を脱いだ。

 こうして私は何の画策もなく憧れのおじさんと入浴できることになった。もっとも、子どものいないおじさんにとって、息子と風呂に入るということは、長年の夢だったのかもしれない。私は息子の代替品として最適な存在だったといえるだろう。私にとっても嫌な気持ちのするはずがない。

 私は服を脱ぎ、越中褌も外して全裸になった。すでにチンボはキトキトに勃起していた。目の前におじさんの脱いだ猿股が丸まっている。おじさんは扉のむこう。磨りガラスで風呂場から、こちらは見えない。そもそもおじさんは、向こうを向いて、鏡を見ながら髭を剃っているらしかった。もちろん、脱衣所には私しかいない。

 私はおじさんの猿股に手を伸ばし、鼻にあてて思い切り匂いをかいだ。汗と陰部の饐(す)えた独特の匂いがした。それはおじさんの体臭と混じりあい、成熟した雄の匂いを放っていた。

 私は我慢できなくなってチンボをしごいた。数回しごいただけで、おびただしい量の精液がほとばしった。私は、それを自分の褌で受け止めた。

 欲望の嵐が過ぎ去り、ひとまず大きく息をついた私は、改めて自分の状況を冷静に分析するよう努めた。

 たった今、射精したばかりなのだから、そう簡単には勃起しないだろう。こんな状況が過去にもあった。私が初めて精を放った祖父との入浴である。あれから既に六年近くが過ぎていた。その間に私の身体は成熟し、陰茎も亀頭が完全に露出して陰毛は臍に届いていた。四肢の毛も生えそろい、陰毛と太腿の濃い毛が繋がっている。

 私は、まだ完全には萎えないチンボを手で隠し、風呂場へと続く扉に静かに手を掛けた。

「風呂で逸物を隠すことは男の恥だ。」

 祖父に何度も諭されてきたが、まさか半勃起の逸物を、おじさんの眼前に晒すわけにはいくまい。今回だけは、祖父も許してくれるだろう。

 おじさんは入口に背をむけて身体を洗っていた。濃い毛が太ももで濡れ、普段以上に際立っている。おじさんは、背中にも多少の毛が生えていた。

「あの、手ぬぐいがないんです。」

 私が言うと、

「あん? ああ、これ使え。」

 おじさんは振り向くと、自分の身体を洗った手ぬぐいを、私にポンと投げて寄こした。おじさんの肉体を洗った手拭を股間にあてるだけで、私は再び勃起しそうになった。

 私はひとまず身体を洗うことにした。湯船に入るには汚れ過ぎている。洗っているうちに、再度、頭をもたげ始めた陰茎も落ち着きを取りも戻すだろう。

 身体を洗いながら、私は必至で母親の顔を思い浮かべた。そうすれば、嫌でも股間がおとなしくなるはずだと思ったからだ。そんな葛藤の中、おじさんが急に立ち上がり、湯船の縁を跨いでお湯に浸かった。私のすぐ顔の脇を、おじさんの股間がかすめた。おじさんの肉体が私の脇を通り過ぎて行く。

 おじさんは鼻歌など歌ってご機嫌である。そうこうしているうちに私も身体を洗い終わった。

 十二月下旬である。開拓地に比べたら温暖な盆地でも、当然、外は既に氷点下。隙間だらけの風呂場は寒くてたまらない。私は、意を決して湯船に入ることにした。

 私が立ち上がると、おじさんは了解したらしく、端によって私が入る隙間を空けてくれた。

お湯を通しておじさんのチンボが揺らめいて見える。私は前を隠さず、ようやく鎮まった陰茎を晒しながら湯船に入った。好きな男に逸物を誇示し、見せつけてみたいという性的な欲求もどこかにあった。祖父の言う「男らしい態度」は極力守らなければならない。

 おじさんは、一瞬、「おや?」という表情を浮かべたが気にもとめていないようだ。おじさんと並んでお湯につかっているのは何ともいえない良い気分である。

 私の陰茎は既に亀頭が完全に露茎していたから、見られるのは全く恥ずかしくなかった。ただ、勃起しているのを見られるのだけは避けなければならない。私はおじさんと、親子ゲームを続けたかったが、あくまで、それは爽やかで清々しいものでなければならなかった。

 やがて、おじさんが湯船からあがった。

「背中を流しますよ。」

 私はすかさず言った。おじさんにしてみたら、一度でよいから、してもらいたかった行為だろう。私は何となくそれを感じていたから、自らその役を買って出た。おじさんは嬉しそうに私に手ぬぐいを渡して寄こした。

 背中からなら、おじさんの視界に私の陰茎は入らない。私のそれがどんな形状になっていようと分かりはしないだろう。これならいつ勃起しても大丈夫である。私の中には、そんな思惑もあった。

「ああ、気持ちがいい。」

 私に背中を向けたまま、おじさんが言った。もちろん、背中を流してもらって気持ちがよいという意味なのだが、ついつい私は別のことを想像してしまった。おじさんが私の肛門にズル剥けの陰茎を突っ込み、激しくピストンしながら、

「雄吉、気持ちいい。気持ちいいぞ!」

 と呻いている場面が脳裏に浮かんでしまったのだ。

 この頃になると、私は肛門を好きな男に犯さることばかり考えていた。それが叶った時こそが、本当の筆おろしなのだと信じていた。こうなるともういけない。私の陰茎は再び激しく猛り立った。

「終わりました。」

 私は背中越しにおじさんに手ぬぐいを返すと、そのままおじさんに背を向けて座った。もうどうしようもなく勃起してしまっている。手ぬぐいで股間を覆って必死に隠した。

「今度は俺が流してやる。」

 おじさんが振り向いて、私の背中を流してくれた。節くれだった指を背中に感じる。おじさんが、ザブンと私の背中に湯を掛け、石鹸の泡を洗い流してくれた。私は勃起した陰茎を隠すのに必死だったが、おじさんは私の苦労など露程も知らず、再び湯船に浸かってしまった。

 間もなく、湯船から出たおじさんは、ズル剥けの陰茎をぶらぶらさせ、私の肩を背後からトンと軽く叩きながら、

「先にあがる。」

 そう言い残して引き戸のむこうに消えた。

 私はもはや我慢の限界だった。先ほど目に焼き付けたおじさんの脛毛や筋肉、多少だぶついた腹の肉、肩を叩いた時に、至近距離で視界の隅に入ったぶらぶら揺れる見事な逸物。そして、すぐ隣で感じたおじさんの体臭。これらを思いながら、一気に自らの陰茎を擦った。

 私はすぐに頂点に達し、精液の飛沫が洗い場に弧を描いた。しかし、それでもまったく満足できず、私はさらにもう一度射精しようと陰茎を擦り続けた。

 結局、その日、私は脱衣所で一回、風呂場で三~四回も精を放った。それでも満足できず、夜、布団の中で二度も三度も、

「おじさんっ。」

 と呻きながら射精した。

「同性愛者は、異性愛者に比べ射精できる回数が多い傾向がある。」

 そんな学術書の記述を目にしたことがある。祖父も似たようなことを言っていた。それは私の実感でもある。自らの経験と照らし合わせても、それは真実であろう。実際、私は相手さえ変われば何回でも射精できる。ホモの世界は、基本的に乱交なのだ。

 

 小谷のおじさんは、私を息子のように慈しんだ。それはどちらかというと庇護者としての愛である。一方の私といえば、男としておじさんを愛していた。純然たる愛情である。そこには信頼は生まれるが、相互理解は生まれない。しかも、その微妙なすれ違いに気づくことができるのは私だけなのだ。

 何とも哀れな話である。信頼しあっているのに切なさが募る。こうして私とおじさんの悲しい親子ゲームが始まった。この親子ゲームは、この後、三十年以上も続くことになる。それは、幸せと同時に、どうにもならない苦しさで押しつぶされそうになる三十年間でもあった。

 その後、下宿していた三年の間に、何度もおじさんと風呂に入る機会があった。仕事帰りに銭湯に寄ったこともあったし、風呂場の窓から顔を出したおじさんに、屈託なく、

「雄吉、ちょっと背中を流してくれないか?」

 と頼まれたこともある。その度に、私は後から狂ったように自らを慰めるしか術がなかった。身体だけは成熟していたが、好きな相手に対しては、まだまだ初心な一人の少年に過ぎなかったのかもしれない。

 

 私が四十代半ばに差し掛かった頃、八十代後半になっていたおじさんと機会あって久しぶりに再会した。そして、その夜は温泉旅館に招待して、一緒に入浴したのだが、私が、

「高校の頃、おじさんとよく風呂に入ったなぁ。おじさんのチンボ、ごつくてびっくりしたさ。」

 と冗談まじりに言うと、

「雄吉も高校生一年生とは思えない立派なチンボだったでなぁ。」

 と笑いながら答えた。

 おじさんはそれから数年後に亡くなったが、最後まで私とおじさんの親子ゲームは続いた。私は、おじさんへの狂おしい程の思慕を、一度たりとて曝け出したことはない。この秘密は、もはや墓場まで持っていくしかないだろう。

 しかし、もし男と女であったなら、それが成就したかしないかはともかく、少なくても切ない思いを真剣に打ち明けることはできたかもしれない。それが親子ゲームの終わりであり、安定した関係の破局であったとしても、それはそれで心の区切りとなる。

 男と男の世界は愛情があるから難しい。そして、それと同じくらい、例え愛情があっても、その存在を心の奥に閉じ込め、打ち消すしかない世界でもある。相手を愛すれば愛するほど、その相手を見つめることさえ許されないのは、古希を間近に控えた今でも、少しも変わっていない。