くまどん作

接吻

 

 年末の夕暮れの図書室は利用する学生が極端に減る。

 それは冬の日がすぐに失われて、気がつけばもう夜になってしまうからなのか、急いで帰宅しようとする心理が働くからなのか、それとも年の瀬の慌ただしさにゆっくりと本を読むことが罪に思えるためなのかはわからないが、とにかく予想外にいなくなるのだ。

 しかし、僕はすでに誰も居なくなって寒ざむとした、K中学の図書室で本を読んでいる。

 特に家庭に温かさを求めたりもしないから。

 

 K中はかなり伝統のある、有名な私立中学校だ。

 図書室も何とか伯爵の設立だとか、何とか大臣による蔵書の寄付だとか、ものものしいことが剥げかけた案内板に厳しい文体で書かれているが、誰もそんなものに目を留める学生などいなかった。

 

 僕はこの中学に入学して最初の冬休みを迎えようとしていた。年末年始の計画など何もあるはずがなく、ひたすらこの図書室に通っては、本を選ぶのが日課になっていた。

 とは言え僕は、自分では謂わゆる文学青年的な、青白く度の強い眼鏡をかけたひ弱に見えるタイプではないと思っている。

 僕の周りにある夥しい蔵書の海は、地球の七つの大海と同じように世界中を航海できる。大抵の場合、人は船を出し大海原に出て行くのだが、僕の場合は、たまたま海ではなく図書室に、船ではなく椅子と机で、航海をしているに過ぎない。

 世界は自分の手の中に存在する。

 ページをめくる僕の指こそ、船を漕ぐオールなのだ。

 

 僕には、知らないことなど何ひとつなかった。

 たった一滴の水の中にいる無数の微生物の蠢きから、宇宙の果てあるものまで、人間の醜い嫉妬が起こる理由から、希望という言葉の持つ意味の無さまで……。

 すべて、この図書室の中で、その全てが起こっているのだ。

 ページを巡ればそこで体験できないことは無い。人生はこの狭い空間の中にある。

 

 気がつくと、空は不安な色の深い淵に溺れようとしていた。助けを乞うように最後の日没の残り火が震えていた。

 晩秋の夕暮れが珍しく僕をセンチメンタルにしていたのかもしれないが、僕の視線はページの上ではなく、校庭で練習を終えて帰り支度をしているラグビー部の背中を見ていた。

 宵闇の到来とともに、大きな背中が見えなくなりそうなのが寂しくて仕方がなかった。

 

 男というものは何と勝手なものであろうか。背中でさえ哀愁という芳香を放ち、それを勝手に押しつけてくる。そして男である僕もそれを吸い込んで、勝手に感傷的になってしまう。寂しさを武器にした傷付け合い。

 世界中の詩人の男たちは活字でそれをやる。

 世界中の少年を文字で傷付けているのだ。

 

 どのくらい時間が経ったのだろうか。

 自分の視線がずっと校庭に向けられていたことに、自分でも気がつかないくらいだったから尚更驚いたのだが、気がつくとこの図書室に「彼」がいたのだ。

 

 ラグビーの練習を終えたばかりの彼。

 

 何とも不思議な光景だった。

 気がつくとこんなに巨漢の男が目の前に座っているのだ。

 「朝、目覚めたら隣に熊がいた。」くらいの凄まじい事である。

 しかも、その男は、大股を広げてどかっと座りながらぐうぐうといびきをかいて眠り始めた。

 

 泥だらけのユニフォームとスパイクのまま、よくも図書室に入ってこられたもんだが、あまりにも堂々とした態度に逆に感心してしまった。

 よく刈り込まれた頭からまだ乾ききってない汗が二筋、三筋。流れ落ちるそれは対照的に無頓着に生えている無精髭を濡らしている。

 太い眉と頑丈そうな輪郭が強い意志を顕示しているが、その寝ている表情に子供のようなあどけなさを感じている。

 

 僕は人生で初めて見るような珍しい生き物に遭遇したような動悸を覚えた。

 それがいったい、どういう感情なのか、このときの僕にはわからなかった。

 いや、僕には理解できない感情など無い、だってちゃんと本には書いてあるはずだから。

 しかし、この混乱している状態をなかなか自身で分析できない事に慌て始めていたのも事実であった。

 

 さらに混乱は深さを増していく。

 観察すればするほど、どんな本にも載っていないという不安が大きくなっていた。

 「一体、この不思議な生き物はどこからきたのか、何故ここにいるのか、そして僕に何を伝えたいのか。」

 深く呼吸をしながら眠り込む彼は、餌を求めて山から降りて来た熊だと断定されて、撃ち殺されても不思議ではなかっただろう。

 その丸太ん棒みたいな腕は一撃で相手を押し倒すのであろう。その分厚い胸板はどんな粗野で野蛮な野郎も跳ね除けるに違いない。

 そしてそのドラム缶ほどもある太い脚は豪快に敵を踏み潰し破壊してしまうのだ。

 僕は視線を彼の顔から徐々に首、肩、胸とゆっくり移動させながら、以前何かの本で見た覚えはないかだろうか懸命に記憶の引き出しの中を探っていた。

 だが、それも虚しい試みであることをすぐに悟る。何故ならゆっくりと上下する彼の大きな腹部から存在感のある太ももに目を落とした時点で、あらゆる努力を放棄するしかないことに気づいたから。

 僕は彼の股間に辿り着いた瞬間に自分の負けを認めた。

 

 一体この感情は何なのだ?

 どんな文学にも、どんな図鑑にも、どんな論文にも、どんな哲学にも載っていない。

 僕はあっさり降参した。

 抵抗する事が出来ない、何か巨大で得体の知れない恐ろしい怪物に遭遇した結果あらゆる抵抗が無駄だと理解して虚無感だけがのこる。

 もはや図書室は知識の海原から敗北の焼け野原と化してしまった。

 激しく脈打つ動悸が止まない。

 彼の身体の中央に盛り上がって存在しているあの難攻不落のような要塞。

「あの人の目に触れることのない秘められた男性自身を何とか目にしたい。」

 気がつくと、僕の頭は渦を巻く海峡の中にあった。まったく知識も経験も無く、初めて目の当たりにする「男性の肉塊」。

 それに対応する術を僕は知らなかった。

 僕にも知らない事があるのだという事に、人生の終わりを告げられたような衝撃を受けた。

 しかし、同時にそれは人生で初めて覚えた性の悦びを開く鍵を手にした、という事でもあったのだった。

 

 そして、その衝撃は僕の感情のみならず、行動にすら影響を及ぼした。凄まじいばかりの作用が自分の理性を遥かに凌駕した。

「ああ、彼の男性を見たい。触れてみたい。そして男を感じたい。」

 

 夢遊病の患者の症例なら医学書で読んだことがある。

 しかしそれは「知ること」であった。

 つまり、「自分のこと」ではなかったのだ。

 だが、今僕は患者であった。しかもかなり重症の……。

 もはや知識の中の事ではなかった。

 

 患者と同じようにふらふらと立ち上がり、彼の存在に向かって歩いた。だがその意識も記憶もなかった。患者特有の症例。

 だが、目的なら明確であった。

 ひたすら「男性」という存在に対する欲望である。だがこのとき、それを分析するゆとりなど皆無だった事は分かっていただきたい。

 

 僕は「彼の」椅子の前まで近づくと、当然のように静かに床に正座をした。

 聖なるキリストの像に平伏す信者の如く彼自身を表す象徴の前に平伏した。

 股の付け根に堂々と成る盛り上がりは、緩やかに膨らんで男性である証を誇示している。広げられたラグビーパンツの中央から大腿部の付け根にかけて、隙間を認める事ができた。

 顔を隙間に近づけて、さらに奥に隠されているだろう、彼の物を覗きたかった。

 

 僕は彼の前にしゃがみ込んでいた。

 彼の股の前には男の全てがあった。

 

 限りなく「それ」は僕を誘惑した。これは、何かに呼び寄せられるという経験ではない。

 これは、生物学の本による所の「フェロモン」というものかもしれない。僅かに残っている理性が判断する。

 だが、圧倒的に優位に立った未知の経験が見事にそれを粉砕する。

 どうでもよいのだ。科学的解明? 生物としての生態? 思春期の目覚め?

 そんな知識はどれも役には立たないことをイヤというほど思い知らされた。

 

 図書室とは、何とちっぽけな空間であろうか?

 いまや僕は成熟した男の肉体という未知の大海に漕ぎ出してしまったのだ。

 それから、僕の嗅覚は唯一の帆となり、彼のラグビーパンツから放たれる光に向かって動いていた。

 盛り上がっている中央部からは微量な芳香が流れて、股の奥へと誘惑している。

 僕は彼の脚の付け根を覗き込んだ。

 僅かに認められた彼の陰嚢の一部から汗と共に体温以上の温もりとして伝わってくる。

 黒々とした陰毛が僕にまとわりつくようだ。

 そして、僕は自分の下半身に尋常ではない強張りを認めたのだ。

 

 知らぬ間に僕は初めての性的な「erection」を体験していたのだった。

 

 もう僕には何も恐れるものはなかった。

 体験していない事、自分の身体の変化、そして彼に対する欲望。

 何という素晴らしい世界。図書室とは無縁の広大な宇宙。

 

 僕はもう彼が目を覚ますことに対しても、何も厭わない。彼がどう思うかも関与しない。

 

 僕は震えながら顔を彼の身体の男の部分に触れさせた。ああ、この臭い!

 この、温もり! これが真実なのか!

 

 

 そのときである。

 悦びによって盲目となっていた僕の目は上を向いてしまった。そして、僕は見た。

 

 優しい眼差しで僕を見ている彼の顔を。

 

 

 僕は混乱の波に揉まれてもんどりうって尻もちをついてしまった。

 彼は立ち上がり、そして僕の方に身をかがめた。

 大きく見開いた僕の目から涙が溢れた。

 彼は微笑むと、何と僕の唇に接吻をした。

 そして僕の頭を撫でたかと思うと旋風のように居なくなってしまった。

 

 それは、今でも僕の唇に存在する。

 舶来の高価な石鹸のように、すうっと消えてしまうほど泡切れのよい接吻であった。

 

 

 そして僕は自分の下半身が濡れていることに気づいた。それは僕にとって、初めての「ejaculation」で、彼の接吻とともに放たれたのかもしれない。

 僕の男としての処女航海はここに始まった。