里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農夫の性の記録

第一部

少年期

 

五 孫として、祖父として

 

 祖父とはその後、男と男の契りを結ぶことなる。私と祖父が、ついに一つになったのは、私が小学六年の春先のことだった。私は十一歳になったばかりだった。

 もっとも祖父は、心の中でその日が来る日を心に決め、待っていた。その日とは私の肉体が祖父の視点で完全に大人になった日のことである。

 祖父は、日に日に包皮が後退し、亀頭の反転が進んでいく私の陰茎を目の当たりにしてきた。その中で、私のそれが完全に露茎した時こそ、自らの肛門を孫に捧げる日だと覚悟していたらしい。美しいといえば美しい話にも聞こえるが、そこには、生で掘られるならズル剥けでなければ嫌だという、祖父の性欲も多分に絡んでいる。

 私が初めての射精を迎えてから、既に丸一年が過ぎようとしていた。そして、祖父との入浴をきっかけに、定期的に相互手淫をするようになってから数えても、十ケ月が過ぎた。その間に、私の肉体は、みるみるうちに大人になっていった。

 小学校六年に進級する頃には、すでに身長の伸びは緩慢になっていた。私の背が一番伸びたのは、小学校四年の冬から五年の秋にかけての一年間だった。急激な成長で、どちらかといえば、上に向かってひょろ長くなっていた身体つきは、身長の伸びが落ち着くとともに、急速に筋肉質な大人のそれへと変化していった。

 男としての成熟も急激だった。小学校五年の冬頃から脛毛が急に濃くなり始めた。やがて、中学を卒業する頃までに、それは既に密林と化していた陰毛と繋がるほどになっていく。

 一方、生殖器の方も大人の男に向け、いよいよ成熟の速度を上げて行った。陰茎はもちろん、睾丸も明らかに大きくなり、亀頭の成長も顕著だった。

 十二歳の誕生日を迎えた頃には、平常時から完全に亀頭が露出するようになっていたし、祖父ほどではないにしても、放たれる精液にも、精通当初の淡い面影はなくなりつつあった。興奮の強い日に放出されるそれは、時には指でつまむことができる程の濃さで、祖父を驚かせることも、しばしばだった。

「これじゃ、女の中に出しても子種が泳げんだろうに。」

 そんな時、祖父は呆れたように呟いたが、私は女とセックスするなど、死んでも嫌だと小六にして思っていた。

 同じ学級の二十三人の男子の中で一番早熟な私だったが、その頃になると学級の中には、私以外にも性にめざめる男子がポツポツと現れ始めた。私だけが射精の快感を知っている。センズリも知っている。そんな時期はそろそろ終わろうとしていた。

 学級内で「センズリ」という淫語を耳にする機会が増えたし、女の話題に夢中になり、その間、股間を熱くし続けている友人もいた。

 しかし、私が、既に一年も前に精通を経験し、センズリも繰り返していることを、誰かに告げることはなかった。猥談にも加わらなかったし、着替えの時など、お互いの性器を見せ合う級友を尻目に、さっさと着替えを済ませ、その場を離れるのが常だった。

 先に書いたように私は優等生だった。その立場を捨てる勇気がなかったのが、そういう行動を取った理由の一つであったのは事実である。しかし、私のそうした行動の真意はたった一つ、であった。一言でいうなら、子どもの性器になど興味がなかったのである。

 私は毎日のように祖父と入浴し、祖父のズル剥けで淫水焼けした陰茎と、ようやく亀頭が露出したばかりの赤みの残る自らの陰茎を重ねあい、しごきあった。そして、そのまま精液を掛けあうだけでは満足できず、お互いの出した精液を潤滑液に、二度目、三度目の射精に至ることさえあったのだ。

 正直、包茎で、ろくに毛も生えていない級友の性器など、興奮を削ぐ存在でしかなかったし、もっと言ってしまえば醜悪とさえ感じていた。

 一人自らを慰める際、私の脳裏に浮かぶのは祖父や校長先生など、初老の男ばかりであった。私は、小学生にして完全に老け専への道を進み始めていたわけだ。

 そんな風だったから、友人とセンズリを見せ合ったとか、精液の飛ばしっこをしたなどといった、近所の農家の親父が武勇伝のように語る類の性の逸話などは皆無に近い。しかし、友人とのやり取りの中で、印象に残るできごとが、幾つかあるにはあった。

 ひとつは一章で書いたが、友人同士が相互センズリをしていたという話である。もう少し詳しく書けば、私の友人Aが友人Bの家を訪ねて行った。その日、友人Bの家には誰もいないので、勝手に上がって来いと言われていたらしい。AがBの家に入っていくと、寝転がった友人Bの陰茎を友人Cが擦っていて、射精間近だった・・・という顛末である。

 その話を聞かされた私は興奮してしまった。その夜、家で何度も自らを扱き、帰宅から就寝までの6時間程の間に七回も射精してしまったのだ。

 後日、祖父にその話をした。センズリの回数については、祖父は特に何も言わなかった。祖父にとっては、十代なら普通の回数だと感じていたのかもしれない。

 しかし、友人同士の相互センズリの話には明確な反応を示し、根掘り葉掘り聞いてくる。しかし、私も又聞きなのだ。自分で目撃したわけではないから、それ以上詳しいことは話せなかった。

 私の話を聞きながら、祖父の陰茎が激しく勃起していたのを、私は見逃さなかった。やはり、祖父は若い男が好きだったのだ。若いというより、むしろ、幼さの残るくらいの男が好きだったのかもしれない。それなら私とのことも、理解できようというものだ。

 もう一つは、

「男と男が二人だけの時、何をするか知ってるか。」

 という学校の先輩の問いである。そこには、性の話題に積極的に関わろうとしない、真面目で優等生な私をからかう意味も多分に含まれていたのだろうが、私の股間は自然と反応した。

 

 男と男が二人で? いったい何をするのだろう? チンボとチンボを重ねあわせるのか? 精液をお互いのチンボに掛け合うのか? 先輩の下衆た表情に鑑みるに、どうもそれだけではなさそうだ・・・。

 結局、私は返答できなった。

「チンボコを、けつの穴に突っ込んで、男と女の時みたいに、腰ふってオメコするんだってよ。あ~、気持ち悪~。」

 先輩がバカにしたような口調で言った。そこには明らかな軽蔑が込められていた。

 チンボをけつの穴に・・・。私は頭の中でその言葉を反芻した。

 私の脳裏に、祖父の肛門に勃起したチンボを挿入する自分の姿が浮かんだ。同時に、私の肛門に逸物を挿入する祖父の姿も浮かんだ。

 肛門を激しく出入りする双方の勃起した陰茎、汗にまみれた太もも、絡まりあう脛毛。お互いの口を吸いながら、やがて双方の亀頭から飛び散る精液。それらが矢継ぎ早に私の脳裏をよぎる。

 たまらなくなった私は学校の便所に駆け込んだ。その興奮はすさまじく、わずか数回擦っただけで、大量の精液が迸った。しかも、一度では満足できず、私はもう一回出そうと、そのまま陰茎をしごき続けた。

 祖父を犯す自分、祖父に犯される自分。自分が本当に望んでいるのは果たしてどちらなのだろう? その答えを出すには、私にはまだ経験が足りな過ぎた。

 ただ祖父と一つになりたい。その感情だけは揺るぎのないものとなった。その日を境に、私の中で、祖父を抱く自分の姿が現実のものになり始めた。

 

 年輩の男にしか欲情できないという性癖は、根本的に今でも変わらない。正直、外見にもよるが、六十歳以下の男とセックスした経験は、六十七年間の人生で数える程しかない。そのわずかな例外にあてはまるのは、年齢より老けて見えるという必要条件を抱えた男たちだけだった。

 現在、深い中になっているS治はこれにあたる。S治は五十代前半だが、五十代後半だといわれても多くの人が納得するだろう。S治とのことについて語るのは、別の機会に譲るとして、正直、四十歳以下の男とは、積極的に親しくなろうという気さえしない。もちろん、婿さんのように、とりわけ野性的な外見の男など例外はあるのだが・・・。

 ましてや二十代の男など、性の対象として認識したことさえないし、したくもない。農業仲間、つまり仕事上の付き合いなどなら一向に構わないのだが、かつて二十代、しかもジャニーズのような外見の今風の男から性的アプローチを受けた時の何ともいえない不快感。正直、寒気がした。

 少し毅然と書き過ぎた感があるので、不愉快だ、差別だといわれてしまうかもしれないが、こればかりは好みの問題なのだから仕方あるまい。逆もしかり。私のような親爺に近寄られるだけで寒気がする若者も多いだろう。いずれにせよ、ホモの常として、好みのタイプには極めてうるさいのである。

 そんなだから、私は、今でも十歳の孫、七歳の孫と一日おきに入浴しているが、そこには、やましさなど微塵もない。そこにあるのは血を分けた者、そして、時にはオシメを変えてやった者への純粋な肉親としての愛情のみである。早い話、彼らの裸などどうでもよいことなのだ。

 ただし、婿さんとなると話は別だ。婿さんは四十歳を幾つか過ぎ、そろそろ本厄かという年代である。私の好みから言えば若すぎるのだが、山好きで若い頃は完全な山男だったというから、顔中髭だらけの野性味あふれる男だ。

 私は、いわゆる「老け」に強く惹かれるが、野性的な中年男にも魅力を感じるタイプなのだ。S治は両者の中間タイプだろう。

 そんな婿さんと入浴したとしたら、どうなるだろう。正直、自らの陰茎を勃起させず、その場を乗り切るだけの自信がない。婿さんの裸体や陰茎を、ねっとりした、あのホモ独特の視線で見つめずに済ませるだけの自信もない。

 だから、私は婿さんを温泉に誘おうとは思わないし、同居を始めて十年以上になるが、ほんの数回しか一緒に入浴したことがない。

 私の婿さんへの愛は、一方的なプラトニックラブである。でも、それでいいのだ。タイプの男と家族になれて、同じ屋根の下で暮らせる。しかも、同じ職場で働けるのだ。もちろん職場とは畑のことだ。そして、しばしば夕食時に一緒に一杯やって、根が優しい婿さんは、

「お義父さん、どうぞ。」

 などと気を使ってお酌までしてくれる。

 それで充分ではないか。こんな幸せは誰もが経験できるものではないだろう。その機会を作ってくれたのは、結局は婿さんである。彼が、頑なに同居を拒んだら、今、私は一人暮らしであったろうと思う。

 もっとも、それはそれで楽しい日々なのかもしれない。家族の目を気にせず外泊し、家族のことなどお構いなし、男を連れ込むこともできる。しかし、孫のいない生活の寂しさはいかばかりだろう。正直、あまり想像したいとは思わない。やはり、今の生活が私には合っているということか。

 人は身の丈にあった生活を送ることが肝要だ。世間体のために結婚を選んだ私は、もともとすべてを捨て去る勇気など持ち得ない、どこにでもいる小心な男である。

 結局、程よくホモで、程よく義父で、程よく爺ちゃんをしている、そんな今の暮らしが私の身の丈にはあっているということなのだろう。

 

 ちなみに件の孫、十歳の長男坊主は身体つきも変化し始めていて、そろそろ第二次成長期を迎えようとしている。私の家系の男子は誰も早熟だから、おそらく同じ道を辿るだろう。孫の性器に発毛が見られた時、それはおそらく数ヶ月後に迫っているのだが、その時でも、私はこの長男坊主を男として見ることなどできないだろう。

 だから、私は今でも孫と一緒に入浴していられるのだ。婿さんとの十一年間の心の機微(私が一方的にそう感じているだけなのだが)を反芻するに、むしろ、好きな男との方が、一緒に入浴することへのハードルは高いのかもしれない。

 先日、私は孫坊主(以下、特に断りがない場合は長男坊主)と入浴し、並んで湯船につかりながら尋ねてみた。

「どうだ。そろそろ爺ちゃんと風呂に入るのはやめにするか?」

 孫坊主は、一瞬、ぽかんとした表情を浮かべ、訳がわからないという体(てい)で急に真顔になった。

「なんで?」

 どうやら成長期に入り、大人になり始めた肉体を家族の前で曝したくないという感覚自体、今のところ、あまり持ち合わせていないらしい。この分なら、あと半年くらいは一緒に風呂に入ってくれるのかもしれない・・・。

 半年後、十月生まれの孫坊主は十一歳二ケ月になっている。その月齢は、私が祖父と挿入をともなった性行為に及んだ月齢とほぼ同じだ。

 祖父も、父も、そして私も、我が家は三代続けて早熟だった。これはもはや家系であろう。当然、孫坊主も早熟なタイプに違いない。正直、未だに発毛さえしていないのが不思議ですらある。

 ついに発毛が始まった時、孫坊主の感覚は大きく変わるだろうし、同じ質問をされた時の返答も変わるだろう。

「爺ちゃん、俺、もう一人で風呂に入るから。」

 そう言い出すに決まっている。六十年近く前、私がそうであったように・・・。私としては寂しいが、それは孫坊主の成長の証でもある。

 しかし、幸いといっては何だが、まだ次男坊がいる。その下には三男坊だっている。次男坊は小学校に入学したばかり。三男坊に至っては三歳になったばかりである。

「あと七~八年は孫と風呂に入れるな。」

 私は、しばしば指折り数えながら、そんなことを考える。

 しかし、もし発毛が始まり、生殖器の成熟が顕著になった後も、孫坊主が一緒に入浴したいと言い出したとしたら?

 その時は嬉しさより不安の方が先だってしまう。私の性癖は明らかに祖父からの遺伝である。それだけ祖父の遺伝子、いや精液は強力だ。祖父は同性愛者だった。そして、祖父からみて二親等、つまり孫の私もまた同性愛者である。

 一方、祖父からみて一親等の男、つまり私の父はどうだったのだろうか。私は、父には同性愛傾向はなかったと自信をもって断言できる。同じ性癖を持つ者から発せられる、あの一種独特の雰囲気を父から感じたことが一度もなかったからだ。

 私には息子がいないから、

「お前からみて一親等の男が、どういう性癖なのか。」

 こう問われても、答えようがあるはずもない。追求はそれで終わりである。では、私からみて二親等の男はどうなのだろうか。二親等の男は、すなわち孫坊主である。

 半年後か一年後か、はたまた来月なのかはわからないが、性成熟が始まってから後も、孫坊主が私と入浴したいと言ってきたとする。その時の孫坊主の行動に、私の恐れるような深い意味がない場合は、それでよい。

 しかし、万が一にもそこに生々しい性癖が横たわっていた場合、それは私にとってあまりに辛い現実だ。その場合、どう対応すべかという問いに対し、私は何ら解答を持ちあわせていない。

 自分が同性愛に生まれついたことを悔やんでいるかといえば、そうでもない。ホモでなかったら、あれだけ性の喜びを満喫した人生を送ることはできなかっただろう。直球でいえば、何人の男とセックスしたかという問いである。

 ホモの中にはセックスした相手が四桁、つまり千人などという男も珍しくない。都会に住み、月に一度発展場に通ったら、年間二十人くらいの男と肌を合わせるのは普通のことだろう。それを五十年続けたら、千人だ。

 さすがに、相手が望むならアナルを捧げてもよいと思える男となると、多くても年に一人、二人だろう。しかし、それでも五十年間なら百人だ。私の体験人数はさすがに千人ということはない。しかし、百人ということもない。ホモの世界でこれが多いのか少ないのかはわかりかねるが、ノンケの世界でなら、私の性体験人数は異常な多さであろう。

 ホモの世界は明らかに、ノンケとは違う世界である。この世界に生きることは、苦しさもあるが、ノンケにはない満足感も得られるから、一概に辛いばかりともいえないのだ。

 それに、私は、男の性器、特にやや弛緩した、年輩者のズル剥けの陰茎は実に美しいと思う。男の性器に魅力を感じられない自分など男でない気さえする。そもそも男の肉体に魅力を感じない自分など想像もつかないのだから、後悔のしようがないではないか。

 しかし、勝手なもので、自分の孫にはまっとうな性癖に生まれついて欲しいと願う自分がいる。それは、自分が美しいと感じるものを、美しいと感じるような人間にはなってもらいたくない。そう言っているのと何ら変わりはない。

 この矛盾こそ、ホモに生まれついた者の哀しさなのではないだろうか。性は人生に直結している。これが私の持論だ。だとすれば、その矛盾とは、自分と自分の人生の否定であると言えなくもない。それは、どこか辛く悲しい。

 ちなみに、孫との関係について、私がこれまでに想定したことがあるのは、私が孫に男を感じる性癖の持ち主だった場合、自分はどうしていただろうか・・・ということだけである。その場合、私は早い段階で孫との入浴を取りやめていたと思う。

 自分自身が祖父との入浴を通し、近親相姦に陥ってしまった経験があるからこそ、私は自分が祖父と同じ轍を踏むことを何よりも恐れただろう。それを回避するためには、私が取るべき道はたった一つしかない。それは、自ら孫との入浴を取りやめ、裸で触れ合う機会そのものをなくしてしまうことである。

 性的興奮を高めたホモには、心のブレーキなどどこにも存在しない。都会の淫乱サウナの光景を思い浮かべれば、それは祖父の例をあげるまでもないだろう。

 特に死に至る感染症が一般化する以前、昭和五十年代までの淫乱サウナの光景、そこにあるのは男の本能のみであった。男と男が全裸で絡み合い、うめき声をあげ続ける。そして相手をとっかえひっかえ一晩中セックスし続けるのだ。その光景は、ミックスルームはもちろん、浴室でも当たり前のように展開された。

 つい先刻まで男性に挿入されていたであろう、濡れそぼった性器をぶらぶらさせながら入浴する。そんな親爺たちで溢れていたものだ。

 私は基本的に陽気で楽天的な男だ。そうでなければ、自然相手の農業などできたものではない。しかも、祖父以上に淫乱だときているのに、私は祖父よりもずっと気が小さく、祖父のように何でも豪快に受け流せるタイプでもない。自分でもなかなか難解な性格だと自覚している。

 そんな中、私が孫に対して実践してきたことといえば、たった一つ、一緒に入浴する際に、前を隠さずに曝け出すことだけである。そういう経験を通し、子供は、大人の性器が子どもの自分とは違っていることを自覚していくのだ。少なくても私はそうだった。

 私は、祖父のズル剥けの性器を目にすることで、大人のチンボは皮が剥けるのだと知ったし、毎年、晩秋に山向こうの○○温泉で行われる、一泊二日の地域の湯治の際には、大人だからといって、すべての男のチンボの皮が剥けるものではないことも知った。実際、湯治の際に大浴場で目にする、近所の親父の陰茎には、仮性包茎が多かった。今、思えば真性包茎だったのではないかと思えるマラさえあった。

 大人の性器を見たことがあれば、あとは何とか自分で考えていくだろう。剥けなければ、剥けるよう自分で考えればよいだけの話だ。

 だからというわけではないが、私は風呂に入りながら、性教育らしい性教育などしたこともないし、ましてや性器の洗い方など、教えたこともない。

 私がいうのも何だが、孫坊主はもともと頭のよい子である。年頃になったら、性器の問題はもちろん、自分の生き方についても自ら考え、自ら判断していくだろう。それだけの力はあると信じている。

 孫坊主が成長期を迎えつつある昨今、私はそんなことをしばしば考えるのだ。

 

 先ほど、私の同性愛傾向は祖父からの遺伝子によるものではないかと書いた。他にも、祖父の精液に含まれていた遺伝子は、私に多くの祖父に似た性質を引き継いだ。

 これまでも書いてきたが、細身で筋肉質な体型、そして、四肢の毛深さ、これらはいずれも祖父から綿々と続く我が家の家系である。しかし、それだけではない。祖父の話によれば、私の幼少時と祖父の幼少時の顔立ちはとてもよく似ていたという。

 残念なのは、祖父の幼少時の写真が残されていないことだ。つまり、実際はどうだったのかを検証する手だてがないのだ。祖父は明治三十年代前半の生まれだから、幼少時の写真がないのは、ある意味で当然のことだ。残っていないのではない。そもそも撮影していないのだ。

 祖父にとって、かつての自分にそっくりな孫、それが私であった。そんな私を見ながら、祖父は何を思っていたのだろうか。私の中に幼少期の自分を見つけた瞬間があったはずである。そんな時、祖父は何を思いながら私に抱かれ、何を思いながら、女のような善がり声をあげていたのだろうか。もしかしたら祖父には、ナルシストの傾向もあったのかもしれない。

 とはいえ、私と祖父は、私が成長するとともに少しずつ顔立ちが違って行った。私が成人した頃には、幼少時のようにそっくりというわけではなくなっていたし、二人の容姿の乖離は年齢ともに確実に大きくなっていった。

 現在、私は六十七歳。ちょうど、祖父が私にセンズリ、いや男同士のセックスを教えた年代になった。当時の祖父と今の私の顔を比べると、やはり、私の容姿の中には、当時の祖父の面影が色濃く残っている。