里見雄吉氏 作

開拓地にて

ある農夫の性の記録

第五部

熟年期

 

八 破局の足音

 

 しかし、一週間も一緒に過ごせば、おのずとお互いの欠点も見えてこようというものだ。それまでセックス、つまり肉体だけで繋がっていた二人だったが、お互いの内面が見えてくる中で、相手の中に数多くの自分とは相容れない部分を見つけ始めていた。

 今、思えばこの旅こそ、二人が徐々に疎遠になっていくきっかけになったようにも思う。

 

 私からみると、秀さんの思い込みが強い部分に辟易した。その思い込みの強さは、私を意のままにコントロールしようという行動になって現れた。しかし、向こうも私に対して少しずつ不満を募らせていたのだろう。結局はお互い様である。

 もし男女の関係なら、多少の不満には目をつむり、関係を維持していくしかない。全てを精算するには子どもだ、親戚だとしがらみが多すぎる。しかし、ホモは違う。要はセックスだから、常により理想に近い男を求め、男から男を次々と渡り歩く。

 秀さんとの日々を振り返ってみると、返す返すも思い出すのはセックスのすばらしさである。男らしく、やや強引に、そして抜群の挿入のうまさと絶倫ぶり。東北なまりで卑猥な言葉を並べられると、それだけで股間が痺れるような感覚を覚えた。

 秀さんとのセックスは本当に最高だった。だからこそ、お互いどこかに不満を感じながらも、結局は九年間も続いたのだ。ホモの世界の人間関係には常にセックスが介在する。ホモの世界とは、半分以上がセックスで繋がっている世界なのだ。

 

 セックスをこれだけ満足させてくれた秀さんだったが、結局、二人は疎遠になってしまった。その原因は何だったのだろう。確かに性格面の不一致があったのは事実である。しかし、それは小さな理由にしか過ぎない。最大の要因は、お互い微妙に本理想から微妙に外れていた、この一点に尽きるのではないかと思う。

 確かには秀さんは筋肉質で、チンボもズル剥け、しかも、現役の農家であった。私の老け専、汚れ専という性癖を満たすのに充分な要素を備えた男といえたが、いかんせん脛毛がなかった。脛毛とズル剥けのチンボ・・・、どんなに顔や体型がタイプでも、この二つがない男に私は物足りなさを感じてしまう。

 例え肛門性交でよがり狂わされ、快楽に呻きながら精を放とうとも、顔に射精されて歓喜の表情を浮かべようとも、この二つに欠ける男が相手だと、心のどこかに満たされない思いが残ってしまうらしいのだ。私は老け専であり、汚れ専である。しかし、もしも、そういうフェチが世の中に存在しているとするのなら、明らかに脛毛専であり、ズル剥け専でもあるといえるだろう。

 秀さんにとっても、五十代半ばに達していた私は既に歳を取り過ぎていたようだ。秀さんは二十代、三十代の若い男が好きだった。そして、その傾向は年齢とともに、ますます顕著になっていくようだった。

 

 そんなことも手伝ってか、それ以降、出会って三年目辺りから逢い引きの回数がしだいに減っていくことになるのだが、最後の頃になると年に一度会い、手早くセックスして別れるという状態になっていた。正直にいえば、私はしばしば東北を旅していたのだが、会わずに素通りすることさえ増えていった。

 こうして会わない年が出てくると、後はもう早い。私も秀さんも新しい男に夢中になり、自然とお互い疎遠になっていった。定期的に逢い引きすることもなくなり、電話や手紙も途絶えがちになった。

 最後に会ったのは秀さんが七十五歳の時のことである。実に数年ぶりの逢瀬だった。場所は宮城県の鳴子温泉。農業協同組合で経営しているという超巨大宿泊施設だった。宿内に四か所も大浴場があり、食堂、売店まで併設されている。六畳一間の湯治部屋なので格安なのはもちろん、各部屋にミニキッチンが付いており自炊も可能な宿だった。

 この頃になると「格安で」というのが二人の逢瀬の第一条件に成り下がっていた。出会った頃の心のときめきは皆無になっていたのだろう。

 車で開拓地を出発した私は、〇〇市で秀さんを乗せ、そのまま鳴子温泉に直行した。

 その晩、秀さんは二回射精した。七十代後半で一晩に二度の射精は充分に驚異的なことなのだが、それまでが強すぎた。私は、口にこそ出さなかったが、

「弱くなったな・・・」

 と感じていた。当の本人も、

「入院しでがら、すっがりだめなっでしまっで・・・」

 と情けなさそうに語っていた。それより数年前、秀さんは農作業中に腰を骨折し、入院を余儀なくされていたのだ。

 もっともそこには、私が歳を取りすぎてしまい、既に秀さんの守備範囲から逸脱し始めていたという理由も隠されていたことだろう。しかし、当時の私はそんなことには全く気づかず、秀さんの年齢的な衰えと信じて疑わなかった。

 秀さんがごく普通の男に思えた。同時に秀さんとのセックスの魅力も色褪せたものに感じられた。お互いの気持ちが冷め始めたのがはっきりとわかった。それが鳴子温泉での逢瀬だった。

 勿論、鳴子温泉の夜を境にぱったり遣り取りがなくなったというわけではない。しかし、秀さんに電話をしても、

「今、忙しい。夜、ゆっぐりかげるがら。」

 という返事のことが増えていった。しかし、いずれの時も、結局、電話は来なかった。

 私は秀さんに新しい男ができたのだと思った。さらに、タイミングの悪いことに東日本大震災があり、行き来が難しい時期が重なった。私は何回も秀さんに電話をしたが、秀さんが電話に出たのは一か月も後のことだった。

「すまん。それどころではながったから。」

 秀さんの答えであったが、私の中に澱のような不満が残った。電話一本すらできなかったのだろうか・・・。安否を心配していることくらいはわかりそうなものだろうに・・・。

 こうした心のすれ違いが続いたことで、いつの間にか、電話での定期的なやり取りも途切れがちになってしまった。

 私は潮時だと思った。ある日、私は電話で別れ話を切り出した。

「夜、電話をするというから、俺は毎回、夜遅くまで電話を待っていた。」

「そんなこどがあっだがもしれない。」

 秀さんは覚えていなかった。当時は、怒りさえ覚えたものだが、今思えば、加齢により忘れっぽくなっていただけなのかもしれない。しかし、当時の私には、老いについて相手の立場で考える余裕がなかった。まだまだ人間として未熟だったのかもしれない。

 私の別れ話を受け、秀さんは、

「考えさせて欲しい。」

 と答えた。その夜、秀さんから電話があった。

「あなたが望むなら別れよう。」

 呼び方が『雄吉』から、『あなた』に変わっていた。私は本当に二人の関係が終わったことをはっきりと悟った。

 この時以降、二人は年賀状をやりとりするだけの間柄になってしまったが、時が流れる中で、やがてそれも途絶えていった。

 一回限りという男も多い中、秀さんとは何やかやと言いながら九年間も続いた。その最大の理由はセックスのすばらしさであったが、結局、疎遠になった理由もセックスへの不満であったということか・・・。秀さんに脛毛があったら、二人の間のわだかまりに目をつむことができたのかもしれなかった。

 

 別れた後も、私の手帳には秀さんの携帯と自宅、農地にあった作業場の電話番号が残されていた。この番号は今でも使われているのだろうか。もっというと秀さんは達者なのだろうか。ふとした弾みで

「電話してみようか・・・」

 という誘惑にかられたことが何度かあった。しかし、できなかった。秀さんへの怒りは時間とともに消えていたが、もっと過酷な現実が私に電話させることを躊躇させた。秀さんの家族から過酷な現実、はっきりいえば秀さんの死を聞かされるのが怖かったのだ。秀さんが生きていれば、既に八十代になっているはずである。秀さんに死が訪れていても何ら不思議はない。

 

 そんなある日、数年ぶりに秀さんから私の携帯電話に着信があった。私は驚いて電話に出た。二人が初めて結ばれた不動湯温泉が火災で全焼した。それが秀さんからの電話の内容だった。

 私はすぐにパソコンで検索した。パソコンに写し出されたのは、廃墟と化した山の出で湯以外の何物でもなかった。不動湯温泉の焼失は大きな衝撃だったが、久しぶりの秀さんからの電話は嬉しかった。正直にいうと、秀さんの声を聞いただけで勃起していた。

 電話の切り際、私は思い切って心に思ったことを言葉にした。

「秀さん、俺、久しぶりに会いたい。」

「俺もだ。いづも不動湯の夜のごとを思いだしではセンズリさしでだ。」

 秀さんの言葉に私の胸が熱くなった。こうして二人の関係が復活した。二人が結ばれたのは不動湯温泉だったが、二人が復縁したのも不動湯温泉がきっかけだった。しかし、その不動湯温泉はもはやこの世にない。何とも皮肉な話である。

 

 何はともあれ、私と秀さんは、電話で時々、話をするようになった。それは数ヶ月に一回の頻度に過ぎなかったが、以前のような濃密な関係でなくてもよいという思いが、お互いの中にあった。濃密でなくてもよいから、良好な関係を長く保ちたい。私だけでなく、秀さんもそんな気持ちだったのではないかと思う。確かだったのは、時間がお互いのわだかまりを洗い流してくれたということだった。

 やがて、お互いの中に再び温かいものが通い始めた頃、私は思い切って、ある提案をしようと決意した。

「今年の年末こそ顔をみたい。再会したい。秀さんに抱かれたい。」

 私は何度も練習してから、きっと秀さんは快諾してくれるだろうと自分に言い聞かせ、数ヶ月ぶりに秀さんの携帯電話に発信した。

 しかし、つながらない。何度かけても同じことであった。不思議に思い、秀さん(これは仮名である)の本名と住所を入力し、インターネットで検索してみた。検索結果が写し出された瞬間、私の頭は真っ白になった

 そこには、数ヶ月前に秀さんが既に亡くなっていたことを示す内容が表示されていた。そう、それは秀さんの告別式に関する情報だったのである。

 私は同姓同名同漢字の別人であることを願った。しかし、住所が秀さんの自宅そのものであったのを確認するや否や、私は全身の力が抜け、その場で畳にペタリと座り込んでしまった。

 葬儀に参加することもできない。墓参りもできない。いや、逝去したことさえ知らないまま関係が終わる。ホモの世界の人間関係の現実を知った私は、部屋で一人、忸怩たる思いだった。改めて哀しみが襲ってくる。『悲しみ』ではない。それはまさにホモとして生きることの『哀しみ』であった。

 

 不意に私の自室の扉が勢いよく開いた。現実に引き戻され、私は我に返った。

「爺ちゃん、○○の家に遊びに行きたいんだけど、遠いんだよ。送って欲しいんだけど、だめかな?」

 そう言って、当時、小学校三年生になっていた孫一号が、私の背中に這い登ってきた。私は孫の顔を覗き込んだ。屈託のない笑顔だった。

「元気、出すぞ・・・。」

 私は孫に聞こえないよう口の中で呟き、自らを鼓舞した。

「父さんと母さんは、遊びに行くこと、知ってるのかい?」

 私の問いかけに、笑顔で頷く孫一号。

「母ちゃんが忙しいから爺ちゃんに頼みなさいって。」

 まったく人使いが荒い娘だ。

「お父さん、悪いんだけどお願い。〇〇(孫一号の名前)、きちんと『お願いします』って言うのよ。」

「爺ちゃん、お願いします。」

 階下から娘の声に孫一号が慌てて付け足した。言わない限り、私が「うん」と言わないことを熟知している。お願いします。ごめんなさい。ありがとうございました。この三つの言葉は生きる基本である。小さい頃からそう教えてきた。

 夜、夕食の席ででも事実を知った婿さんが、きっとこういうことだろう。

「お義父さん、忙しいのにすみませんでした。ありがとうございました。」

 婿さんにそう言われることは、私にとって嬉しいことだ。辛さの中にも常に喜びはある。そのことを改めて考えさせられる。きっと今、この瞬間がそうなのだろう。

 秀さんのことは、私の胸の中にしまっておけばよい。むしろ、それ以外に方法はないだろう。時々、秀さんのことを思い出すこと、それだけが墓参りさえできない私にできる唯一のことである。同性愛、しかも、ふけ専という世界で生きることは、すなわち死と濃密に付き合うことである。わかっていたはずだったが、その現実を改めて受け止めるしかなかった。

 私は孫の顔を覗き込んで笑いながら言った。

「迎えにも来て欲しいんだろう?」

 孫一号が屈託なく頷いた。

 

 こうして私は自らの性癖を押し隠した日常へと否応なく引き戻された。結局、同性愛者は自分の中の哀しみ、葛藤、辛さ、そういった負の感情を家族にも語らず、仮面をかぶって生きていくしかない。

 しかし、そんな中にも喜びは常にある。今この瞬間だって、私と私が好きな男、婿さんの遺伝子を引き継ぐ一人の少年が、私の目の前にいるではないか。彼に頼まれると爺ちゃんは弱いのだ。

「じゃ、行くか。」

「五時に迎えに来てよ。」

 私が孫一号に声を掛けると、彼は笑顔でそう答え、私の後をついて玄関へと向かった。

 

 

第五部 終わり