髑髏語る。
今は昔のこと。伊耶那岐(イザナギ)と伊耶那美(イザナミ)、二柱の神における国生みをなされた後のお話しです。
二柱の神は次々に新しい神を生みながら、その国土に様々な植物と動物、ヒトの持つ文化をも生み出していきました。
伊耶那美が最後に産み落とした六柱の神。
六柱のそのまた最後に生まれた火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)は、伊耶那美の産道を通り抜ける際、自らの霊力の発露である炎によって、母神である伊耶那美神の身体を傷付けてしまいます。
「迦具土よ、お前の炎は神である私の陰部(ほと)を灼いてしまった。もはや我はこの地にいることは叶わぬゆえ、黄泉の国へと下がることにしよう」
「ああ、伊耶那美様、お許しください。私にあなたを灼くつもりなど、ただの一分の思いすら無かったのです。あなた様がお隠れになれば、あなたによってこの地に生み出された幾多の神々は、これからどのようにして生きていけばよいのでしょう」
「お前の肉体は私の身体を灼いたがために、二度と子をなす女の身体を触れ得ぬものとなろう。さすれども、お前が我が産み落とした一柱の神であることに違いは無い。火之迦具土神よ、人々の信仰を集めよ。さすれば私の生み落とした様々な神達と同じく、お前もまた己の後に続くものを生み出すことが出来るであろう」
呪いと希望、迦具土神に相反する言霊を残し御隠れになった伊耶那美神ではございましたが、対となる男神、伊耶那岐神の悲しみと怒りはおさまることがありません。
愛した伊耶那美の姿を一目見ようと、黄泉の国へと自らも下った伊耶那岐神。
そこには伊耶那美にとって、かつて己の「成り成りて成り合はざる処」と男神の「成り成りて成り余れる処」を「まぐはい」した相手には見せたく無い、灼け爛れ、腐りゆく己の姿がございました。
幾度かの問答の末、黄泉での伊耶那美の姿を垣間見てしまった伊耶那岐神は、その朽ち果てた姿に恐れおののき、怒った伊耶那美の黄泉の軍勢に追われます。
黄泉の国からの追っ手を身に付けていた幾つかの宝物御物で撃退した伊耶那岐は、とうとう黄泉比良坂の出口を大岩で塞ぎ、根の国の伊耶那美と決別してしまいました。
「かつてはともに国を生み、ともに様々な神をも生んだ伊耶那岐よ。私はあなたの仕打ちを思い、これから毎日1000人の人間を殺しましょう」
伊耶那美の言葉に伊耶那岐が答えます。
「それでは私はたくさんの産屋を作り、毎日1500人の人間を産ませよう」
双方の神の言霊は、果たして互いへの愛着から出た言葉ではあったのでございましょう。それでも、この国、大八洲の人間達は、そうしてその数を増やしていくこととなったのでございます。
この地上である葦原中津国(あしはらのなかつくに)に戻った伊耶那岐にとり、伊耶那美を失ったことは大きな悲しみでございました。そしてその大きな悲しみゆえに、伊耶那岐神の心には、伊耶那美を失う原因となった迦具土に対してのとてつもない怒りが生まれてしまっていたのです。
「火之迦具土神よ、私はあなたをこの国のどこまでも追っていき、あなたの命を、あなたの苦痛を、すべて黄泉の国にいる伊耶那美へと捧げよう」
国中に大声で呼ばわる伊耶那岐神の御声は、すでにこの地に生まれた人の耳にも、また当然のこととして、迦具土尊にも届いておりました。
「父でもある伊耶那岐神のお怒りはもっともだが、火の神である我とても、むざむざ殺されるわけにはいかない。それでも伊耶那岐神の霊力あれば、私がいずれ捕まってしまうのは時間の問題であろう。それまでに少しでも人間達に、火とそれを取り扱う術(すべ)を伝えて回らねばならぬ」
そう思った迦具土神は、伊邪那岐が自分を追ってくるときの目印となってしまう、神の主な霊力の元である己の髪と髭を、すべて剃り落としてしまいました。
それでも迦具土の逞しい身体には、胸や腹、背中や「成り成りて成り余れる処」を覆う、豊かな黒い体毛がございました。
全身を覆う黒々とした迦具土の剛体毛。
そこから発せられる霊力は、神の一柱としてはわずかなものではございましたが、その姿を真似て作られた人間に比べれば、まだまだ圧倒的な強さを誇るものであったのです。
髪と髭を落とした迦具土は、自らの使命を胸に、伊耶那岐神と伊耶那美神が生んだこの大八洲の地を巡ります。
伊耶那岐の放つ追っ手には迦具土の弱められた霊力を捕捉することが出来ません。
その間、その行く先々で火とそれを扱う技術を人間に伝えて行く迦具土は、多くの民の信仰を集めていきます。
奇しくもその道行きは、かつて伊耶那美神が叫んだ「信仰を集めよ」との言霊を成就させていくこととなりました。
神々にとってはさほども無い時間ではございましたが、限りある人から見れば数世代もの命が紡がれた後であったでしょうか。
迦具土は己の使命もいよいよ最後と思い、大八洲の南、筑紫島(現在の九州)の阿蘇へと向かいます。
このあたりからさらに南にかけては土蜘蛛や熊襲(くまそ)と呼ばれる、天津神にまつろわぬ人々が多く住んでおり、高天原の神々の力もなかなか及ばない土地柄でございました。
この大八洲に住まうすべての人々に火の恩恵を伝えること。
そのことを自らの最後の仕事と思った迦具土は、熊襲と呼ばれる彼らにもまた、己の肉体から沸き立つ火と、それを操る技を惜しみなく教え伝えたのでした。
迦具土が最後の場所と選んだこの阿蘇の地は、後に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天下る高千穂の峰にほど近い、高天原や伊邪那岐様のお暮らしになる八尋殿からも見通しの効く土地でもございました。
「伊耶那岐様、筑紫島の阿蘇の高岳の峰にて火之迦具土神様の姿が見えると、鴉どもが騒いでおります」
「うむ。あれは確かに火之迦具土神の火で間違いあるまい。髪と髭を抜き己の力を抑えることで、この三百年の間、私から見つからぬようにしていたのであろう」
注進にきた神よりも先に、伊耶那岐の遠見の力は迦具土の炎を捉えていたようです。
伊耶那美神を黄泉の国へと向かわせることになった迦具土への伊耶那岐の怒りは、人の世の時間で癒されるものではありません。もちろん伊耶那岐神にも、それが決して迦具土神自らが望んだ結果では無いということも十分に分かっておりました。
それでもなお、ともに国を生み、ともに多くの神々を生んだ伊耶那美神の苦痛と苦悩を思うと、迦具土への罰を与えぬことにはなんとも納めようも無い心持ちをお持ちであったのでございます。
「そこにおわすは火之迦具土神と見受ける。我を伊耶那岐神と分かりて、我の遠見が効くこの筑紫島へと渡りきたのか?」
大音声で呼ばわる伊耶那岐神の声が、阿蘇の峰々に響きます。
「父神たる伊耶那岐様、霊力示す髪と髭は無くとも、私は火之迦具土神でございます。
伊耶那美様の御隠れの後、人間達に火の術を伝えることのみを己の使命とし、やっとこの大八洲、葦原中津国の隅々まで伝うることが出来ました。
もはや思い残すこともございませぬ。どうぞこの命、伊耶那岐様のお好きになさるようにと、ここに私は動かずにおります」
迦具土にとって、いずれ伊耶那岐の霊力が己の姿を捉えることも分かっていたのでありましょう。
土蜘蛛たる熊襲にも己の持つ技を伝えた今、そこには伊耶那岐の前に身を差し出すことに何の躊躇いもない、迦具土神の覚悟がございました。
「我が妻たる伊耶那美は、永劫たる時間の中、黄泉の炎に身を灼かれ、その苦痛の声は黄泉比良坂を通り、千引の岩を越し、今も我が耳へと届いている。貴神の命一つでは、けしてその声が止まることはあるまい」
伊耶那岐の言葉はお怒りの言葉ではありましたが、どこか悲しみに満ちた調べを纏っているように迦具土神には思えておりました。
「伊耶那岐様のお怒りと悲しみを癒やし、伊耶那美様の苦痛の安寧のため、私に伊邪那美様のために祈ることをお許しください。さすればこの命、伊邪那岐様に如何様にされても構いませぬ」
迦具土もまた、国母神とも呼べる伊耶那美を黄泉の国へと下らすこととなった己の原罪を、この数百年ひたすらに悔いていたのです。
その言葉を聞いた伊耶那岐は哀しみを思い起こしながらも、己が思い描く一番の苦痛を迦具土に与えることで、黄泉の国の伊耶那美への思いを昇華させようと決断します。
「この大八洲に生まれたすべての獣は、これより後、日が天にある間、迦具土の身体を引き裂き、喰らい、苦痛を与えよ。踏みにじり、犯し、辱めを与えよ。
これは迦具土のこの地に与えし炎が、我と伊耶那美が生み落としたこの地を克するまで、消え去ることの無い言葉と心得よ」
火が地を克するまで。
ああ、その言霊は伊耶那美神への慟哭でもございました。
伊耶那岐神御自身の慟哭でもございました。
迦具土は神たるその豊かな肉体を布一枚とて隠すことは許されず、阿蘇の高岳の中腹に立つ火伏岩(ひぶせのいわ)へと、その逞しくも黒々とした毛に覆われた四肢を繋がれてしまったのでございました。
伊耶那岐による命には、たとえそれがどれほど残酷なものであったとしても、その生を与えられた生き物達には逆らうことなど出来ません。
朝日が昇り外輪の峯を越した光が斜めに照らすと、迦具土の下へと獣達が次々と現れます。
火伏岩を訪れた獣達はそれぞれの爪を、牙を、角を、迦具土の肉体へと突き立て、あるものはその肉を、まろびでた腑(はらわた)を、泣きながら口にするのです。
そう、獣達にとって逆らえない命ではございましたが、迦具土が伊耶那美の命を奪うつもりなど些かもなく、その全身から沸き立つ炎が生まれたばかりの神にとって抑えの効くもので無かったことは、この地を訪のう獣達皆が知ることなのでございました。
この地を回る日と月が数え切れないほどの行き越しを繰り返し、およそ人の世ではさらに数世代にもわたる日々が過ぎていきました。
八尋殿より遠見にて迦具土の様子を眺めていた伊耶那岐が、あることに気付きます。
「自ら剃り落としたはずの迦具土神の髪と髭が、また少しずつ伸び始めている」
迦具土もまた、自らと伊耶那美が生んだ神々の一柱であり、やがて霊力の元となる髪と髭が伸びていけば、火伏岩と迦具土神を繋ぐ己の霊力を込めた麻縄も、次第にその力を失い用を為さなくなることを、伊耶那岐神もまた理解しておられました。
すでにすべての獣達に命を下してしまっていた伊耶那岐は、迦具土を襲う爪も牙も角も持たない、人間へと命じることになさいました。
その人間は、迦具土を捕らえている阿蘇の火伏岩の南に住まう男。
その体躯は周囲の年長の者達をはるかに凌駕するものながら、男としての印である精通はつい先日に迎えたばかりの、熊襲武尊(くまそのたける)という一人の若者であったのでございます。
伊耶那岐は、武尊とその父親、熊襲の魁勲雄(いさお)へと命じます。
「熊襲の魁勲雄よ。
お前は今日より七日後、お前の息子、武尊を火伏岩の迦具土の下へと送り届けよ」
「熊襲の武尊よ。
お前は迦具土の髪を、髪を、常に切り落とすことを生業(なりわい)とせよ。合わせて火之迦具土神が神名に相応しくその有り様を全うすることを支えよ。
伊耶那美の最期の言葉を聞いた迦具土にあっては、これは男という性(しょう)の者にしか出来ぬこと。
武尊は迦具土の下にあるとき、女性に触れることは一切禁じられる。
武尊の命が終わらんとするとき、お前には生涯ただ一度だけの、目合いの機会が与えられる。そのときの子を再び武尊とし、里に続く魁勲雄の子孫とともに、次の代にもその業を伝えよ」
伊耶那美神の陰部(ほと)を灼いた迦具土には、女神、人の女、あるいは獣の雌といえども、およそ「女性(にょしょう)」を持つものに対し、その肉体に触れることの出来ない呪いがかかっておりました。
迦具土は、その身の炎で伊邪那美の身体を灼き生まれ出たそのときから、かつて伊耶那岐と伊耶那美、二柱の男女神が行った「みとのまぐはい」は出来えぬ肉体となっていたのでありました。
人の手により髪と髭を落とすこと。
それは、神としての強大な霊力を迦具土が再び手にすることの無いようにとの、伊耶那岐神の謀(はかりごと)ではございました。
同時に迦具土の下に一人の男を配し身の回りの世話をさせることで、迦具土の受け続ける苦痛を少しでも和らげさせたいという矛盾した思いもあられたのでございましょう。
そこには愛する伊耶那美が最後に産み落とした火之迦具土神へ、あまりにも過酷な刑を与え続けていることへの後悔があったのかもしれません。
もともと熊襲の者達は、火照命(ほでりのみこと)の子孫とされ、火神である迦具土との相性も良かろうとの伊耶那岐様の御判断もございました。
武尊の父である魁勲雄もまた、かつて迦具土が教えた火の技をもって鍛冶を生業としていた一族のものであったのです。
その日から伊耶那岐の命を受けた七日目まで、魁勲雄は迦具土に仕えるための様々な技を武尊へと教え込みます。
その中には、伊耶那岐から命ぜられた迦具土の「身の回りの世話」と「神としての有り様をまっとうする」ための、様々な方策も含まれていたのでした。
七日後のことでございます。
熊襲の魁勲雄が、武尊を連れて火伏岩へと上っていきます。
遠くから大地を揺るがす、思わず耳を塞ぎたくなるような、苦痛に満ちた叫び声が聞こえてきます。
やがて二人の目の前に、全身を己の血と臓物で朱く染め、四肢を戒められた迦具土の姿が現れました。
その凄まじいまでの姿を目の前にした二人は名の通りの土蜘蛛のように平伏し、魁勲雄が迦具土へと自分等の来訪の意を語ります。
「このたび、伊耶那岐様の命にて、我が息子、武尊を迦具土様の御慰安にと連れて参りました。
我が息子は男としての精を先日通したばかり、いまだ女人へと触れぬ清童でございます。
迦具土様におきましては些かの慰みにも成り得ぬかもしれませぬが、我が一族の武尊を名乗るもの、これより後、その命を賭してお世話をさせていただきますゆえ、何卒お許しくださいますよう、お願い申し上げます」
魁勲雄の言葉に武尊も続きます。
「我は熊襲魁勲雄が息子、武尊と申します。
我が身、我が命をもちまして迦具土様のお世話をさせていただきたく、この地へと参りました。
人の身にて神名を持たれる迦具土様のお世話をするなど身に余ることではございますが、何卒お近くに侍りますこと、お許しください」
剛毛に黒く覆われた裸体を、その股間に図太く垂れた逸物を、一切とも隠すことなく、岩に繋がれた迦具土が答えます。
「伊耶那岐様の思し召しとあれば、我に断ることなど出来ようか。
この痛み、この苦しみは黄泉の伊耶那美様への捧げものとも思えど、人間であるお前が果たして私の近くでこの姿を見、この苦痛の声を聞くことに、耐えうるものなのか?」
獣達に襲われ、その隆々たる肉体を苛まれる姿は、通常のものであれば正視に耐えぬものであったのです。
皮膚を割かれ、抉られ、血が噴き出すたびに迦具土の喉から上がる恐ろしいまでの悲鳴は、阿蘇の山々の草木を枯らしてしまうほどなのです。
「たとえ私がどのように恐ろしい姿を見、恐ろしい声を聞いたとしても、迦具土様の味わう痛みのどれほどのものでありましょうか。
迦具土様の御身を拭い、その恐ろしき傷に手を当てさせていただくことだけが、私の喜びとなることと願います」
武尊のその言葉に込められた決意と覚悟に、それまで苦痛の表情を浮かべるだけであった迦具土の唇が、ふっと笑みの形を作ったように見えたのは気のせいであったのでしょうか。
熊襲の魁勲雄が、何度も振り返りながら山を下りていきます。
人の身として一人火伏岩に残った武尊と同じく、魁勲雄にもまた鍛冶を生業とする一族の者として、「火が地を刻する」業物を鍛え上げる使命が課せられているのです。
こうして、伊耶那岐の言霊に従い、代々の魁勲雄の名を継ぐ者と武尊の名を継ぐ者は、その血を混じらすことなく、迦具土への慰撫と鍛冶の技を磨く二つの道を歩むこととなったのでございます。
火伏岩にやってくる動物達は多種多様なものでございました。
朝の光の中、迦具土とその姿を見守る武尊の前に最初に姿を現したのは、大空を自由に往き来する鳥達でございます。
高い空から現れた一羽の雉が、大きな迦具土の肩にその鋭い爪を食い込ませます。
雉の爪が刺さる肩の肉から、ぷつぷつと真っ赤な血が流れ落ちます。しかし、迦具土にとって、これは毎日繰り返される苛み(さいなみ)の、まだまだ最初のものなのでございます。
空を見上げた雉は哀しげな鳴き声を一声高く上げると、その嘴(くちばし)で迦具土の右の耳を突き刺し、大きく首を左右に振り回します。激しい動きによって千切れた迦具土の耳朶が、遠くへと投げ捨てられてしまいました。
それは四肢を繋がれた男神にとって、まだ我慢出来る痛みなのでありましょうか。
迦具土様の喉からは、わずかばかりにくぐもった声が漏れるばかりです。
次にやってきたのは、濡れ羽色をした大きな鴉でございました。
鴉はしっかりと前を見つめる迦具土の前で、その真っ黒な身体を力強く羽ばたかせています。
次の瞬間、鴉の太い嘴が迦具土の左目を突き刺したのです。
さすがの迦具土様も、眼の玉を潰される痛みには慣れぬものなのか、低い呻き声が武尊の耳にも届きます。
目の前で行われる残虐な行為。
これを見届けることもまた、武尊に与えられた試練なのでございました。
鳥達の最後は、その羽根を広げればおよそ人の背をも上回るほどの大鷹でございました。
火伏岩へと降り立った鷹は、その嘴を迦具土の右の腹に突き立てます。
五臓六腑、肝腎要と称される肝の臓を、その恐ろしくも大きく鋭い嘴が幾度も突き刺し食い千切っていく様は、それまでなんとか堪えて迦具土の側にいた武尊に、その両の目を思わず背けさせてしまうほどのものでした。
臓器のあらかたをえぐり出した鷹は、その大きな羽根を広げて飛び立つと、迦具土と武尊の頭上を幾度か旋回し、阿蘇の空へとその姿を消していきました。
「迦具土様……」
「まだ終わりではないのだ、武尊よ。伊邪那岐様の御言葉通り、日のあるうちは私の贖いは決して終わらぬのだ」
駆け寄ろうとする武尊を迦具土が制します。
いつの間にか眩しい太陽もその場所を変えてはいましたが、その高さはいまだ天の頂点でございました。
次に現れたのは、大地を住処とする獣達でした。
立派な大角を抱えた鹿を見た武尊は、ああ、あの角が迦具土様の豊かな肉体を穿つのだと、一目で理解してしまいます。
その後に火伏岩に広がる光景は、武尊の想像通りのものでした。
迦具土の腹、逞しい背中、盛り上がった尻肉が、大鹿の角に弾かれ、突き上げられ、どぷりどぷりと大穴を開けられていくのです。
そのたびに噴き出す大量の血が、鹿の大角を赤く染めていくのです。
次に現れたのは、およそこれまで武尊が野山では見たことのないほどの大猪でした。
猪はその巨体を迦具土から少し離れた岩場から、迦具土の身体へと何度も突進させていきます。
そのたびにあたりに響くなんとも言いようの無い、布切れを水に打ち付けたような湿った音と、迦具土の骨が折れ、砕かれていく音が交差するのです。
ああ、武尊の目にはどんなひどい有り様が映し出されているのでしょうか。
千切られた耳、啄まれた(ついばまれた)目、抉られた肉、折られ潰された全身の骨。
撒き散らされた血は大地を赤く染め、青黒く腫れ上がった肉体に黒々とした体毛がべったりと張り付いています。
駆け寄ろうとする武尊を、迦具土の残った右目が制します。
まだ日は西の空、外輪の峰の上にあったのです。