その3 赤虎と『ふせ』
戌亥家の庭の者、三人の虎族の庭の者たちの会談が終わり、数日後のことか。
赤虎は熊谷家に数日の暇をもらい、すでに里への往復を終えていた。
その赤虎が熊谷屋敷近くのあばら屋に、ふせを呼び出していたのだ。
「赤虎様、熊谷様の屋敷の外でとは、なにかこのたびの戦のことで武之進にも聞かれとう無いことでもあるのでしょうか」
聡明な、『ふせ』であった。
屋敷内の領主一族の会話は、互いの庭の者たちによる相互監視・警護の下では、領主である熊谷勇一郎、同じく武之進には最終的に『伝わる』とみて間違いない。
その点、壁をも薄いあばら屋での方が、同じ庭の者である赤虎に取って『誰にも聞かれていない』状況を作るには、向いているのである。
その問いは、女の身でありながら武家の内情へと巧みに入り込んで来た、ふせの経験に裏打ちされたものでもあったろう。
「ふせ様……。申し訳ござらぬが、此度の呼びつけは、個人的な話であるのでございます」
「あなた様が、赤虎様が、私などに『個人的な』お話しをされることなぞ、ついぞ初めてのことではございませぬか」
「……………………」
元来が寡黙な赤虎であった。
11年前の猪西家による戌亥家強襲の折、領外の寺へと『ふせ』を連れ出した赤虎が発した言葉もまた、『生きてくだされ』の一言だけであったのだ。
それより2年ほど、猿日和尚の下で暮らす『ふせ』にたまに顔を見せたときもまた、言葉少なに挨拶をする程度である。
それでも若い『ふせ』の心は、少しばかり年上の、そしてまた『異種族』でもある、この赤虎に惹かれていったのであった。
たびたびに交わされるその短き言葉の端々には、母たちとともに己の命も燃えゆく屋敷に沈めたいと願っていた『ふせ』に、『どのように辛くとも、生きよ』との強き思いを伝えていたのだ。
「武之進様、ふせ様の念願である猪西家本陣への戦の用意はすでに整ってきております。
残すは熊谷様、武之進様の合議による進軍によき日の選定だけでございましょう」
個人的な話、と先立ちながらの戦の話に、少し首を傾げるふせである。
「この戦が終われば、おそらくはこの先、大きな争いはそうそう起こりえぬものとなるかと、庭の者たる私は見ております……」
「はい、それは女の身である私からも、そう思えております。だからこそ武之進には領地奪回と猪西家の征伐を、傷無く果たしてほしいと強く強く、願っております」
ここだけを聞けば、戦を前にした屋敷の中で行われても、なんら問題がなさそうな会話であった。
「戦が終わり、この私も、そして『ふせ様』も無事であったら……」
「無事であったら……?」
ここからこそが、赤虎の言う『個人的な』話となるのか。
「ふせ様、もうあなた様もこれまでのように争いの中に身を置くことをせずとも、よくなられましょう。
そして、もし、ふせ様がそうお望みであれば、この赤虎、何処の地へでも、ふせ様をお連れいたします」
かつて己が黒虎の手により失神させられた『ふせ』を領外の寺へと逃したときのように、とのことか。
赤虎の言葉は、その一言一言が喉奥から、いや、腹の底から絞り出すような響きを帯びている。
「私の『望み』通りの場所……。
いえ、赤虎様。赤虎様こそ、私の真の『望み』を、分かっておられるでしょうに」
「そ、それは……」
大胆な、文字通りの意味での『肝の大きな』ふせの言葉であった。
庭の者たる赤虎は幼少期からの忍びの里での教育により、異性である女の(同性である男も、ではあるのだが)『心を蕩けさせる』ための『言動』と『技術』を存分に叩き込まれている。
しかしこの『ふせ』には、いや、それは『武之進』に対しても『そう』であったのだが、なかなかに『効かぬ』ことであったのだ。
それはまた黒虎や黄虎も同じく、忍びの者、庭の者として習い性となっているはずの物事と、ことごとく反極の性格を併せ持つ戌亥家にあるものの特性であったのかもしれぬ。
だからこその黒虎の『変節』と、赤虎自身の今宵の『行動』が導かれたものでもあったのだが。
目の前にいる『ふせ様』に、私の方が脅かされている。
自ら初めて味わう感情が、赤虎の心を責め立てる。
「私は赤虎様のことを、この十余年、ひたすらにお慕い申し上げておりました。そしてそのことは赤虎様も黒虎様も、また熊谷様方も気付いておられたはず」
「……………………」
「猿日和尚様に、私から色々とお聞きしました。
このようなことを女の私が言うことに驚かれるかも知れませんが、あなた様方、忍びの里で育つ女には、くノ一という女の性を武器の一つとして戦う者もおられると聞きました。
そのような話を聞きながら、女の身であるこの私にも、戌亥の『家』の復興になんとか絡むことが出来ぬかと、精一杯の働きをしてきたつもりでございます」
ふせが預けられた寺の和尚、猿日は、かつては幾つもの領家を渡り歩いた忍びの者であった。
若き黒虎が同盟家の庭の者の先達として教えを請い、その縁もあっての『ふせ』の『隠し先』としての寺であったのだ。
ふせの赤虎への思いを知る和尚が通常は人に話さぬであろう忍びの里のことを、庭の者たる男たちのことを、伝えたのは、先日の黒虎の心境へと先に到達していた和尚の実感によるものであったのか。
「私の、私の『望み』の場所は、『どこ』と、あるいは『何処』というところではございませぬ。
私の『望み』は、いえ、その『場所』は、赤虎様、あなた様の『隣にいる』ことでございます」
まさに『言ってしまった』ふせと、『言わせてしまった』赤虎であった。
その時代、なかなかに無いことではあったろうが、それでも通常の男女の仲であれば『言わせてしまった』男は恐縮しつつも喜び勇み、『言ってしまった』女は断られることを恐れつつもどこか確信があるがゆえの言葉であったに違いない。
だがこの『主君筋の女と、庭の者たる男』の間で交わされた、いや、一方的に伝えられたそれは、女にとっては断られる可能性があまりにも高く、男にとっては喜びより先に恐れすら生むものであった。
「そのようなことを、あなた様にお仕えする庭の者たる私が望むわけには……」
「望む? 望むと言ってくださるのですね」
「い、いや、そ、それは、ふせ様の言葉に……」
「元はあなた様が使われた言葉ではありませんか」
忍びの者として、敵陣営の撹乱、謀略、誑かし(たぶらかし)までをも身に付けているはずの赤虎である。
その赤虎が、自分よりも身一つ小柄な、年下のふせにやり込められていた。
「赤虎様、言葉の重きあなた様の前では女の私こそが言わなければと思っておりました。
私はあなた様と、男と女の関係になりたいと思っておるのでございます。あなた様と、許されれば夫婦に、たとえそうでなくともなんとか添い遂げることが出来ればと願っておるのでございます。
猿日和尚様から、男であり庭の者たるあなた様方は、必要であれば己の男としての機能を封ずることが出来るとも聞いております。
それでも、私との、私の前では、その封印を解いていただきたいのでございます」
なんとも壮絶な、ふせの言葉であった。
もしこの場に黄虎がいれば、ここまでのふせの言葉を聞いて赤虎がそれでも言葉を返さぬのであれば、阿形吽形の仁王の如く、猛り狂ったことであったろう。
重ねられた『ふせ』の言葉に、ついに赤虎が『応えようと』していた。
「ふせ様……。ふせ様が知らぬところで、私のこの手は多くのもの達の命を奪ってきております。
多くのもの達を迷わせる言葉を吐き、騙し、その心を苛んで来ております。
そのような私が、あなた様のような、実直な、真っ直ぐな方を目の前にすれば、目を合わすことすら出来ぬほどの『眩さ』を感じてしまうのでございますよ……」
目を上げぬ赤虎の視線を無理やり捉えるかのように、ふせがその顔を赤虎の顔の前へと近付ける。
「もちろん私は、赤虎様や黒虎様、おそらくは黄虎も含め、直接のあなた様方の『働き』は存じませぬ。
それでも武之進や熊谷様方から漏れ聞く話に、猿日和尚様から伝え聞いた話に、皆様方が抱えるであろう苦悩については『想像する』ことは出来るかと思っております。
女の身でこのようなことをお伝えするのもおかしなことではあるのかもしれませぬが、だからこそ、赤虎様に、私の腕の中で、私の胸の中で、お休みいただきたいと願っているです。
その戦に、戦いに疲れたお心を、少しでもお慰めすることが出来ぬかと、思っているのでございます」
「よいのでしょうか。
私のような、私のような忍びの者が、このようにあなた様の心をいただいて、よいのでしょうか」
疑問では無く、確認のための、自らを納得させるためだけの問いであることは、赤虎にも分かっている。
ただ頷くだけでよいことも、ふせには分かっている。
涙こそ流れてはいないが、その赤虎のその言葉には、落涙するものに共通する言葉の詰まりがあった。
ふせの言葉を、その心を、はじき返すことの出来ぬ赤虎の思いがこもっていた。
届かぬ身の丈の差に、ふせがその手を赤虎の背に回す。
その小柄な犬族をさらに覆い被さるようにして、赤虎が抱き寄せる。
互いの口吻が交わり、その舌が絡み合う。
その夜、2人の間でどのような会話が、行いが成されたのかは、屋敷の誰も知ることではない。
後に『ふせ』の側に侍ることとなる赤き体毛を持つ犬獣人は、戌亥の血を引きつつもその数奇なる運命を切り開く『混じり者』としての生を受けることとなる。
2人の胸の内のみに秘められた『想い』は互いの『その後』を、あるいは『未来』と呼ばれるものを、実に大きく変えていくことになるのであった。