数彦、動く
健幸が接待をさせられる飲み会は、あれからも続いていた。
前回の宴会からは息子である健和に声がかからなくなったのは、宴席の雰囲気を変えた二人でのドジョウすくいのせいであったのだろう。
健和にとり、父である健幸の顔色が少しはよくなって来ていることは唯一の救いではあったが、それでもなお、毎週のように父親を呼びつける小原の会社の姿勢への憤りはおさまることは無かったのである。
「親父、いや、社長。あれからはどうなんだ?」
「まあ、相変わらず素っ裸で酌はされてるが、向こうの社員達の反応はだいぶ変わってきてるな。俺が情けないチンポおっ勃ててしまっても、笑う、というより、賞賛してくれるようになってきてる気がする」
苦笑いしながら答える健幸の顔が、ほんの少し上気している。
「俺だって接待そのものが絶対ダメだって思ってるわけじゃないが、それにしても素っ裸ってのはまだやらされてるのか……。親父がよければ、俺が口出すことでも無いんだけど、きつかったらすぐに言ってくれ」
「ありがとよ。で、お前、会社では社長って言えって、毎回言ってるだろうが!」
「はは、そのくらい元気なら、まだ大丈夫かな。はいはい、社長。昼からも頑張りますよ」
父が自分から話を笑いに変えたのは、いったいいつ以来だろう。
それに気付いた健和は、安心したように社長室を出る。
その眼差しには一時の安堵の表情とともに、強い決意を秘めた意思の炎が見えた。
「文さん、今日も付き合ってもらえるかな、設計図の奴」
「ああ、もちろんだ、健和。OHARAの部品の試作もだいぶ目処が立ってきたしな」
「あっちもかなり仕上がってきましたよね。一応今月で三種六部品、全部いけるかな?」
「向こうさんの検収通ればいいんだが、そこはさすがにシビアだからな……」
「うちの技術なら大丈夫ですよ。まあ、そこらへんは出してみてから考えましょう」
西山製作所最古参の北村文四郎と健和は、自社が保有する膨大な設計図のデータベース化に、すでに2年越しに取り組んでいた。
戦後すぐに旋盤加工と金型作成としてスタートした西山の会社には、それこそ何千枚にも及ぶ部品設計図、金型設計図が残されている。
今は図面室の専用の引き出しに保管されているそれらをなんとかデジタルデータ化し、新製品取扱いの際の参考と、うまくいけば業界全体での共有物となしえないか。
若い健和の大胆な提案に驚きつつGOサインを出した健幸の決断に、この業界を長く見てきている文四郎は、これが新しい世代の発想なのかと、内心舌を巻くほどのことだったのである。
「図面撮影に強力してもらってるN社さんと、データ化手伝ってもらってるD社さん。
今度みんな集まってもらって、これまでの「うちからの依頼」って状態をアップして、プロジェクト化してもらえる動きになってきてる。
年末の国の業界横断プロジェクトのプレゼン通れば、助成金でかなりのゆとりが生まれるはずなんで、まずは俺はこのことに力入れたいと思ってるんだ」
一時期、宇宙開発と下町の工場との共同プロジェクトが話題になったことがあったが、あのようなそれまで繋がりの無かった業種を国の音頭で結びつけ、新しい産業の礎としていこうという動きは続いているのだ。
「工業品設計については複製そのものが難しかったという歴史があるので、健和が始めたこいつは、本当に業界に風穴を受けるものだと思うがな。この文四郎、老骨に鞭打って頑張るとするか」
「文さんが老骨なんて、誰も思ってないでしょうに。今でも現役ばりばりの設計師だし」
「褒めても何にも出らんが、とにかく頑張るしかないか」
設計図面のデータ化といっても、大判の設計図を正確に読み取りさらにそれをきちんとデータ化する作業は、一企業で出来るものでは無い。
最新のカメラ・撮影技術による取り込みと、それをいかに正確に読み取るかの精度、さらには設計に精通した企業(ここが西山製作所の面子にとって、実力の発揮出来るところだ)による、業種を越えた協力体制が必要となるのだ。
光学とカメラ技術、データ分解に秀でた印刷業、記された数値の「意味」を読み取れる技術者。
業界としてそれらを結合させた一大データベースシステムを構築しようという、健和と該当社の若手技術者達のタッグによる、まさに「新しい」取り組みだったのだ。
皆が帰った後、深夜にまで数値の信頼度設計に取り組んでいた健和と文四郎のいる図面室を訪れる者がいた。
「かずさん! どうしたんですか、こんな遅くに!」
気付いた健和が聞こえの悪い更科数彦の耳にも届くようにと、大きな声を出す。
「遅くに、っていうのはこちらの台詞ですよ。
ここしばらく、健和さんも文さんも、なにか取り付かれたようにデータ化に取り組んでる。社長も、なんだかそわそわしてるというか、見てて妙に思います。
データ化のことは確かに力を入れないといけないこととは思いますが、体調壊すまでしてやるものでも無いと思うんですが、毎日こんな調子じゃ長続きしないでしょう」
「いや、そういう訳じゃ無いけど、一日でも早くって思ってて……」
普段は寡黙な数彦が、一気に思いを吐き出す。
ここ数ヶ月の文四郎と健和の没頭の仕方に、技術者としてもどこか異常なものを感じていたのだ。
「もともと健和さんからプロジェクトの話が出たときは、『じっくり時間をかけて、いいものにしていきたい』って話じゃ無かったんですか? 会社としてもあくまで業務として取り組むってことで社長もGOサイン出してくれたわけで、こんな形で進めていっていいわけが無い」
数彦の言うことは正論だった。
健和が提案し、会社として一昨年の方針で打ち出されたときも、「5年を目処に」という話を確かにみなが聞いていたのだ。
「かずにも、いや、みんなにも、もう社長のこと話しておいたがいいんじゃないか、健和……」
数彦の言葉に自分も思うところがあったのだろう。
文四郎が健和を諭す。
「社長?! 社長に何かあったんですか? まさか小原さんところのことで、何か?!」
健幸も絡む話ということが分かったせいか、憤る数彦。
「かずさん、黙っててごめんなさい。俺も軽率に受けることに乗って、反省してる話なんだけど……」
何も説明せずに場を納めることが出来ないと判断した健和が、これまでの経緯を数彦に話し始める。
「そんなことが……」
呆然とした数彦がため息を漏らす。
「かずさん、俺も最初は5年がかりって考えてた。
でも今はこのプロジェクト、年末のプレゼンでなんとか通して一日でも早い助成金を狙いたいと思ってる。
今の小原さんところの仕事、俺は受けることそのものはうちにとってもいい経験になってるとは分かってるんだ。ただ、とにかく資本力をバックに親父が人質に取られてるような状況はなんとか変えたい。
そうなると、今の時点ではとことん無理しなきゃいけない。
そしてその無理を分かった上で、かずさんも協力してくれないだろうか」
向こうの社内の雰囲気がいくら変わってきているとはいえ、実の父親が太鼓持ち接待をさせられていることに変化は無い。
父の苦悩は少しは減ってきているようではあるが、少なくとも会社の後ろ盾に国がついてくれるということの安心感は、西山製作所のような小規模事業所にとっては、とてつもないものだったのだ。
「一番最初に契約の話になったとき、俺が文さんの忠告をきちんと聞いて、もう少し調べておけばこんなことにはならなかったんだ。せっかく周りに聞き込んでくれた野島さんにも悪いことをしたと思ってます。
そのためにも、データ化プロジェクトをなんとか形にして、対等なやり取りをOHARAともやっていきたい。
今はD社から返ってきたデータについて、読み取ってもらった設計図上のテキストと数値に間違いが無いか、文さんと一緒に一つ一つ確認作業をしてるところです。
これは人数と時間、両方がかかってしまう。
もしかずさんがいいなら、ぜひ協力してほしい」
数彦の左手側から語りかける健和。
「もちろん喜んで協力させてもらいます。
……が、もし皆に言ってしまうと、松永さんは大丈夫だとしても、そうさんや御園は怒って殴り込みにでも行くんじゃないかと思うが……」
「御園の奴は丸め込めても、左右吉は確かに危なさそうだな……。あいつはケンコーのこととなると、実の弟みたいなもんだと思ってるしな」
「文さん、友一さんのこと丸め込むってのはちょっと」
胸に抱えていたことを文四郎以外の者に話せたことで、何かが楽になったのだろう。
健和の会話からは、少しばかりではあるがそれまでの「重さ」が取れていた。
「さすがに今日はもう遅かろう。明日からは、かず、お前も一緒に頼む」
「分かりました。読み上げとチェックのシステム、なにか効率化出来ないかも考えてみましょう」
「ありがとう、かずさん! 一緒に、なんとかやっていこう!」
数彦の協力も得た健和。
依頼部品の試作もほぼ固まってきている今の状況が、それほど悪いものでもないと思えてきたのかもしれない。
その言葉はここしばらく感じ取れなかった、若者らしい明るさに満ちたものとなっていた。