受注案件
「社長、健和さんが電話受けてたみたいですけど、小原さんところとの契約、もう決まったって本当ですか?」
「ああ、文さん。小原さんところは、ホントにすごいね。ほとんど即決で、半日のうちに契約書も用意してもらったよ」
夏の西日が斜めに差し込み、まだまだ熱気を伝えている夕方前。縦型の大きなエアコンの音が響く工場の一部屋だった。
一応はパーティションで区切られた名ばかりの社長室で声を上げたのは、北村文四郎(きたむらぶんしろう)62才。この会社での一番の古株である。
革の縫い目がほつれ始めた椅子に、外回りの熱波に疲れたような姿勢でコロンとした丸い身体を預け北村の質問に答えたのは、ここ「西山製作所」三代目社長である西山健幸(にしやまたけゆき)56才だ。
白シャツのボタンが今にも弾け飛びそうな、突き出した腹が目立っている。作業用の薄青色のジャンパーを羽織りネクタイを緩めたその姿は、いかにも町工場の社長といった風情を醸し出している。
「親父一人で行ったって聞いてびっくりしたんだけど、大丈夫だったのか? なんか無理なこととか言われてないのか?」
トイレにでも行ってきたのか、タオル地のハンカチで手を拭きながら入ってきたのは、先ほどの会話にも出てきた、西山の一人息子である西山健和(にしやまたけかず)だった。
社内でも一番の体格を誇る息子を、健幸が少し目を細めて答える。
「ああ、文さんもお前も、ちょうど出てるときに連絡が入って、すぐ来てもらえるかってことだったからな。
先週に話を持って行って、もう契約締結になるなんて、このご時世すごいことだなって思ったよ。
俺もなにか変な付帯契約付けられるんじゃないのかって疑ってたんだが、あちらさんとしては『じゃあ、うちの連中との顔繋ぎの意味も含めて、飲み会あるときはその都度お誘いするので、顔出してもらうようにしましょうか』ってぐらいの話だったな」
西山が経営するこの「西山製作所」は零細企業の多い下町の一角にある、小規模な金属金型の製造工場である。
健幸の祖父、健和の曾祖父にあたる代に始めた工場は、最盛期には30名近い工員を雇い、当初は旋盤と金型原型作成、それによる部品量産の双方に取り組んでいた。
戦後から高度成長期へと移る時代の恩恵を存分に受けた会社だったとはいえ、健幸が社長を継いだこの15年ほどで旋盤加工と生産部門は縮小し、現在では10名前後での金型原型作成を主たる業務としている。
西山達の手による高い精度を誇るダイカスト型の金型原型については、その筋の業界ではそれなりに名を知られていたのだが、ここ数年の全国的な景気の落ち込みは避けようが無く、幾人かの退職者を出し、業績もかなりの落ち込みを見せていた。
「それって、男芸者ってことじゃあないんでしょうかね?」
文四郎が古い言葉を使い、少しいぶかしげに質問を投げかける。
その途端だった。
文四郎のスマホが鈍い振動音を立てる。
「失礼します」
席を離れた文四郎がしばらくして戻ってきた。
「ちょうど退職した野島からの電話でした。小原さんのところの評判聞いておいてくれって先週のうちに連絡してたので……」
「どんな話だったんですか?」
気にはなるのか、健和が尋ねる。
「金払いはやはりいいらしいんですが、どうもこれまでの取引先の人達がなんだかみんな口籠もるというか、はっきりどうとは言わないらしいんですな、これが……」
「でも金払いはいいってことなら、今はそれだけでもありがたいんじゃないかな」
文四郎の話を聞きながら間髪入れずに答えた健和は、この4年間、現場作業とともに、経営者の息子として経理にも携わっていたのだ。
その言葉も、業界全体の収益率が下がっているここ数年の状況を、よく理解していることの表れだろう。
「まあ酒の酌や太鼓持ちやって契約取れるんなら、どんなことでもやってやるさ。なんなら裸踊りでもして、楽しんでもらおうか」
健幸の言葉に2人も笑う。
「それにしても、あと2、3年、話が早ければ、うちももう少し充実したまま、次の仕事に入れたんでしょうけどね」
北村が昔を振り返るように呟いた。
「まあ、仕方が無いと言えば仕方の無い話だし、みんな喧嘩して辞めていったわけじゃなし、そこは切り離して考えないとさ、文さんも。
それにほら、去年から手を着け始めたこれまでの設計図のデータベース化、カメラメーカーも印刷関係も協業に興味持ってくれてるし、とにかく前向いてやってくしかないだろう」
若い健和が年長の文四郎に釘をさす様を、社長の健幸が頼もしい目で見ている。
「それにしても、野島君が辞めたのは痛かったな。あのときまで営業はほとんど彼に任せっきりだったし、元請け先にも顔が効いてたしなあ。電話の礼は言っといてくれや、文さん」
「もちろんですよ。今でも気にかけてくれてるだけでもありがたいことだ」
健幸と文四郎のやり取りは退職者である野島のこととはいえ、穏やかなものであった。
「まあ、親父もあんまり下手に出ないでさ、せっかく新しい仕事やれそうなんだから、しゃんとしろよ」
「会社だと社長って呼べって、いつも言ってるだろう」
「へいへい、社長社長。仰せの通りに」
漫才のような西山親子のやり取りを、こちらは暖かな目で見守る文四郎だ。
「確かに、俺が入社したときは11名だったのが、今ではもう8名だしな。ただ、色々調べてもうちの技術は我ながらすごいもんだと思うし、社長ももう少し踏ん張ってくれってみんな期待してると思うぜ。
来年は少しは景気も上向いてくるだろうって、そう思うしかないからな」
健和の言う通り、円満な経過ではあったのだが、色々なタイミングも重なり、2年半前に野島ともう1人の中堅職人が、昨春には当時の工場での最年長者が退職をしていた。
「で、社長。契約内容はどんなものなんですか」
「ああ、そっちの話をまずはしないといけないな。小原さんところは海外自動車さんに強いって話は先週したと思うが、やはり自動車部品をまずはってことだった。
諸元表と設計もらって来てるので、みなに軽く説明しとこう」
文四郎の催促に、健幸が図面用のアジャスターケースから設計図を取り出す。
社長室奥の図面保管室に、社員全員が集まることになった。
「これはまた細かいものですな」
感心したような台詞は、文四郎の右腕でもある児玉左右吉(こだまそうきち)のものだ。
削り出しと研磨の一番の担い手であるが、もう60手前の自分の年齢に、そろそろ次の世代をとの仕事振りの職人だ。
「とりあえず3種左右型違いで、合計6つ。三個の部品だけで半年ベースって、ちょっときつくはないですかね。株式会社OHARAって、けっこう中堅なのに渋チンっすよねー」
「それは原型設計するもんがいうセリフだろうが」
文四郎がたしなめたのは、工場で一番経験の浅い御園友一(みそのゆういち)だった。
入社は健和と同じ四年前だが、20代前半の健和よりも、年齢だけならかなり上である。その分、次期社長でもある健和に対しては、先輩風を吹かそうとやっきになるときがあった。
文四郎の小さな雷を喰らった台詞にしても、本人としてはそれが出来上がる工程と大変さは分かった上で、深刻になりがちな雰囲気を和らげようとの本人なりの気の使いようなのだろう。
なかなかそれが上手く伝わることは少なかったのだが。
「ねじ込み部が細かくて基部との断面積比が大きいので、精度が相当シビアになりそうです。ラインに入れたとき、歩留まりが果たしてどのくらいいくのか……」
慎重そうな発言は更科数彦(さらしなかずひこ)38才。新潟出身の左右吉を研磨の師と仰ぐ寡黙な男だ。
右耳の聞こえが悪いがコミュニケーションに問題があるわけではない。せいぜい一緒に仕事をしていく中で、みなが自然と左側から話しかけるようになっているぐらいだった。
わいわいとそれぞれの意見を述べる皆が少し静まったとき、社長である健幸が声をかける。
「うちは俺が知ってる限りではずっと国内メーカーの部品を請け負ってきた。大掛かりなものとしての国外製品の取扱いとしては、今回のが初めてのものになる。
もちろん直接の取引は小原さんのところを介してになるが、健和を中心にこれからは海外メーカーのものも視野に入れていかないと、というのは皆も考えていてほしい」
「こっちにみたいに厳しくないかもですから、そこらへんちょっと気楽に思っていいんじゃないすかね?」
「なにバカなことを言ってんだ! たとえ三つの部品だけからって、そんなことをしたら一気に買い叩かれるのが目に見えてるだろうが!
海外ならなおさらだ!」
おちゃらけて言う友一を、今度は左右吉が叱りとばす。
「まあまあ、そうさんも落ち着いてくださいよ。御園、そういう発言はみんなの士気を下げちまう。ちゃんと謝れ」
「あ、すみません。俺、ついはしゃいじゃって……」
友一に苦言を呈し、始めて口を開いたのは松永史朗、44才。みなが色々と話す中、ずっと図面を見つめていた男だ。
幅広い年齢層の社員の中でちょうどの真ん中の世代ということもあり、いつも御園の軽口が年長のものたちの底に残らぬよう、細かな気を張っている。
仕事そのものはオールラウンダーでどの部門でもそつなくこなす、この小さな工場には欠かせない1人だった。
左右吉も文四郎も友一に追撃をあえてしないのは、友一が本心から受ける仕事を軽く見る男では無いということが分かってはいるからであろう。
あるいは、松永が納めに入るところまでを見越してのものだったのかもしれない。
「まずは文さんと健和の原型作成と試作、そうさんとカズで研磨入れながら向こうさんの初回検収をクリアすることを目指そう。まっさんと御園はカバーに入ってくれ。
その後はロットと週生産見通しの割り出しっていつものパターンだな」
健幸の言葉は粛々と仕事を進める職人のものではあったが、その根底には「自分の会社の製品がアウトされる前提は、まったく考えていない」という、自らの仕事への相当の自負心からのものでもあった。
並んだ職人達の中にもしっかりと流れるその意識は、熟達した自分達の技術への誇りでもあったのだった。